耳長
「この辺りは日によって眠りを誘う霧が立ち込めていてね。少年。あまり吸わないようにしたまえ」
我々は慣れているが、君のような外からやってきた人間はひとたまりもないだろう。そう言うと狩猟帽子を被る男はバッシュにハンカチを渡した。よく見ると男は口元を布で覆っている。
「兄上さま」
「そちらの人は大丈夫だったかね?」
「息はあるようですが、眠りが深いようです」
男に兄上さまと声を掛けた人物もまた、口元を布で覆っていた。その傍ではヴァルが死んだように眠っている。こんなに無防備なヴァルは共に旅をしてきたバッシュは見たことがなかった。
おい、ヴァル。起きろよと声をかけ、しまいにはその白い頬をぺちぺちと叩いてみるが寝息がすーと返事をするだけだった。
「うーむ、これはひどい。気付薬が必要だろうが一度城に戻らないといけないなぁ」
「兄上さま…お言葉ですがこのような者どもに構うことなどありません。見たところ旅の者であるようですし」
そう進言した狩猟帽子を被る男の部下は小柄ながら大きな弓を背中に背負っていた。そして人間ではありえない非常に長い耳の持ち主だった。
ーーーエルフだ。
エルフを初めて見たバッシュは思いがけず声を掛けた。エルフなんておとぎ話の中のものとばかり思っていた。
「おまえ…耳長なのか?」
初めて見るエルフの長い耳をまじまじと見つめながらバッシュは聞いた。それに嫌悪の顔を滲ませてギロリとバッシュを睨みつけながら黄土色の帽子を耳を隠すように深く被った。
「馴れ馴れしく話しかけるな。ニンゲンの子供」
「こら、ピッピ。旅の方になんという口をきく」
旅人、失礼をした。しかしながら耳長というのは人間が彼らに言う侮蔑の言葉なのですよ、と付け加えた。バッシュはそう諭されると知らなかったとはいえ嫌な思いをさせたことを申し訳なく思った。
「あ、そうだったのか。ごめん、知らなかったんだ」
「いい。どうせもう会わん」
バッシュの謝罪にピッピと呼ばれたエルフは拒絶するように顔を背けた。立ち上がると自らをエドワルド3世と名乗った男は太い腕を組んで考え始めた。
「さて、どうしようか。ウォルトに薬を取りに行かせようか」
「兄上さま、ウォルトは…」
「ああ、そうだった。ウォルトは足を挫いて先に帰ったのだったな。しかし騎士が馬にまたがる前に足を滑られて挫くなど、あはは。だから狩猟の日まで痩せろと言ったのだ」
うっかり忘れていたと言わんばかりにエドワルド3世は豪快に笑った。それにつられて小柄なエルフも微かに笑う。
「そうです…兄上さま。ウォルトは先に帰りました」
エルフはそう言って一瞬項垂れたように見えたが、すぐに表情を切り替えて進言した。
「姉上さまも心配していることでしょうし、一度城に戻って気付薬を持って参りましょう」
「そうするしかあるまいな。少年よ。しばし待たれよ。我が居城はすぐそこだから、薬を持ってきてあげようよう」
親切な紳士エドワルド3世はそう言うと待たせていた馬に跨り、城があると言った霧深い方へ手綱を向けた。
一体どこから現れたんだろう…それに城と言っていたけどこの辺でそんなものは無かったような…バッシュは頭の中でぐるぐると考えていると、背中になにか硬いものが当たるのを感じた。油断した。背中に当てられた硬いもの。それはおそらくナイフだった。
「いいか…ニンゲンの子供。そのうち霧が晴れればそいつは目を覚ます。目を覚ましたらここから立ち去るんだ」
分かったなと背中に押し当てられたナイフの刃渡にぐっと力が込められる。わかった!と、バッシュが大きな声で言うと霧の中から「おーいピッピはいるかー?」と、呼びかけられた。
バッシュの返事を受け取ると小柄のエルフはバッシュを脅した時とは声色を変えて「兄上さま、ピッピは近くにおります」と言いながら霧の中へと消えてしまった。
ーーー
どっと汗が吹き出した。
ナイフで脅された背中が無事であることを確認すると、すぐにヴァルを起こそうと躍起になるがいくらバッシュが喚こうが叫ぼうが揺すろうが叩こうが、ヴァルはまるで起きる気配がなかった。それにトロントもエゾフまでもが眠ったまま一向に起きる気配がなかった。
「おい、リヒト!お前も寝ているのか?」
そう呼びかけるが、やはり返事は返ってこなかった。
一同の尋常ではない様子にバッシュは血の気が引くのを感じた。どう考えてもおかしかった。なにか魔法でも掛けられたかのように眠っている。あるいは病気に罹ったのか。
このまま起きなかったらどうしよう。
それにこの霧も。
先ほどよりも酷くなっているようだ。自分の体内時計がおかしくなければもう日が明け始めてもいい頃合いなのに。あたりはまだ薄暗く視界はぼんやりとしていた。霧が深くなるほどバッシュの心の中も不安が立ち込めた。
すると。
「…おーい。誰かいるのかー?」
声がした。男の声だ。
またさっきの狩猟帽子の男とエルフだったらどうしよう。バッシュは深い霧の中で思わず身を屈めた。
狩猟帽子の男はまだ良いとして、弓持ちのエルフは人にナイフを当てて威嚇するくらいだ。どう考えてもまともには見えなかった。
呼びかける声はだんだん近づいてくるようだった。よく聞くと先程の2人とは声の種類が明らかに違った。これはどちらかというと年配の老人に近い声だった。
どんな人間か分からないが、この周辺に人がいると分かって声を掛けているのだ。どちらにせよ病気のように眠っている人間をこのまま放置することは出来ない。
バッシュは賭けに出た。頼むからまともな、少なくとも人間でありますようにと神明に願った。
「おーい!こっちだ!こっちにいるぞー!!」
バッシュが頭の上で両手を振り上げながら大きな声を出すとその人物はバッシュに気が付いたのか、草木をガサガサとかき分けて大きな音を立てて歩いてくるのが分かった。
「ああ、良かった…たす」
バッシュの目の前に現れたのは3つの球体。何かの生き物の形に近い【ソレ】は大きな口をあんぐりと開けた。巨大な黒い物体…【ケガレ】だった。
ーーー-
「う、うわぁ…!!!」
バッシュはまさしく跳ねるように起き上がった。そして体をつぶさに確かめる。手や足、頭がついてあることを確認していた。
「よかった。薬が効いたか」
所々白髪の混じる初老に差し掛かった人間の男がバッシュの顔を覗き込んでいた。
バッシュは男が耳が長くないことを確認してから「ヴァルは…?た、たすけてくれ!ヴァルを助けてくれ!」と懇願した。
初老の男は眠るヴァルをまじまじと見るやいなや「ヴァル君じゃないか!」と、声を驚かせた。
「どうしてここに…いまはそんな場合じゃないか」
「オジさん、ヴァルの知り合いなのか?」
ヴァルの知り合いらしい初老の男は膝を折ってヴァルのそばに座ると胸や喉に手を当て、呼吸をしているか確認し始めていた。
「ああ、昔の知り合いだ。安心しなさい…ヴァル君は完全に眠っているね」
気付薬を持っているから、いま用意しよう。キラン。気付薬を出してもらえるか。一番きついのを頼む。
初老の男はキランと後ろを振り向きながら呼びかけた。バッシュは呼びかけられた方を見ると深い霧の奥から金色の髪を一つに束ねた少女が大きな四角いカバンを持って立っていた。
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