第一話.小田原の町(六)
お市はういろう屋の主人
手短に終わらせて出発したいと。
しかし、藤右衛門は首を横に振って、それは止めて欲しいと嘆願した。
招いた客をすぐに追い出しては外郎家の恥だという。
予想通りの返事であった。
「まずは、案内人を紹介させていただきます」
そう言って手を叩くと奥の障子が開けられて一人の男が頭を下げて待っていた。
藤右衛門がその男を紹介する。
「この者はういろう屋が雇っている外郎売りの
「小田-助四郎でございます。お市様、お初にお目にかかります。どうかよしなにお願いいたします」
「助四郎と申すのか。昨日ぶりじゃな」
「お市様とは因縁の仲ではございますが、お会いするのははじめてでございます」
「はじめてにしてほしいか。まぁ~よい、そういうことにしてやろう。じゃが、わらわの家臣に無体なことをすれば、容赦せぬのじゃ」
「と、とうぜ、ん。当然のことでございます。ぜっ、絶対に無体なことはいたしません」
「約束じゃぞ」
助四郎がだらだらと汗を流す。
助四郎の目が少しだけ千雨の方に流れ、お市も確認してにっこりと笑う。
絶対と誓ったので許されたのだ。
お市と助四郎の視線を感じた千雨が少しだけ首を捻った。
そうなのだ。
町の入り口で騒ぎがあったと聞いた助四郎は、すぐに調べに向かった。
騒ぎはすでに終わっており、お市と思われる御一行は宿に向かったと聞いた。
小田原に宿はたくさんあるが、それなりの宿となると多くない。
いくつか確認しながら回っていたのだが、宿の裏から入ったところで水をかぶる音が聞こえた。
男のさがだ。
悪いことと思いながら足が近付く、風呂の開き窓から自分好みの
助四郎はそこにお市がいると知ったのは、千雨がお市の名を叫んだからに過ぎない。
昔、
しかも助四郎からお市の位置は死角だったので姿を見ていない。
つまり、お市も助四郎が見えていない筈なのに、お市は「昨日ぶり」と言ったのだ。
冷や汗モノだった。
自分好みの千雨に嫌われたくない一心でお市にばらさないくれっと祈った。
ふくみ笑う市が閻魔様の娘のように見えた。
「助四郎よ。わらわと因縁があるとは、どういう意味じゃ」
「お市様の三河盗りで職を失い、魯坊丸様にお仕えすることになったという意味です」
「それは間違っておるのじゃ。わらわは三河を盗っておらん。あれは信光叔父上の策略じゃ。わらわは叱られた上に、三ヶ月のお小遣いを取り上げられて、甘味のお菓子がお預けになったのじゃ」
「それはご災難でございます。仔細は同じ外郎売りをしている服部衆から聞き及んでおります」
「なら、説明は不要じゃな」
お市の『三河盗り』は有名な逸話となっていた。
今川城代が守る岡崎城に乗り込んで、城を掛けて一対一の戦いを挑んで勝った。
岡崎衆はお市に従って兵を挙げ、東三河や西遠江まで平らげた。
本多との国盗りの一戦で有名になった。
しかし、実は岡崎衆は信光に買収されており、城代を追い出す口実をつくるので、織田方の味方をするということになっており、竹千代を取り戻したのちに岡崎城を返すという約定もあった。
また、東三河や西遠江の領主らは千代女らが空から爆撃した光景に恐怖しており、織田家と戦いたくないが、反発すると今川家に取り潰されるという板挟みだった。
切っ掛けを作るので、その機会に寝返れと密約を持ち込んで成立させた。
すべて織田信光の策略であり、お市が利用されたに過ぎない。
お市の黒歴史である。
助四郎がその事実を知ったのは、その密約の連絡をとっていた岡崎の服部衆と同じ外郎売りになったことで知った。
外郎売りとは借りの姿であり、関東の情報を集めるのが織田家から与えられた仕事だった。
真実を知った助四郎もショックだった。
忍びは現実主義。
お市のおかげで忍びの本質を知った助四郎である。
そのお市と一緒に旅ができるとはしゃいでいたのに、最初から弱みを握られた。
大失態である。
お市と助四郎が微妙な空気を醸し出していると、廊下を慌ただしく駆けてきた手代が入ってきた。
「旦那様。大変でございます」
「どうかしたか?」
「問注所の奉行
「三郎殿は気でも狂ったのか。ういろう屋に手を出してただですむと思っておるのか」
小田原には、戦が終わった為に解雇された浪人が溢れており、その浪人らを取り押さえる手先として、三郎が見所のある若者を集めた『
最初は機能していたが、最近は増長しているという。
藤右衛門も証拠を揃えてから上に上申するつもりでいた。
「わらわの客じゃ。出ていってやろう」
「お市様。お止め下さい。万が一のことがあれば、私の腹だけではすみません」
「万が一などありえん」
「藤右衛門様、大丈夫でございます。互角以上の相手がいれば、私が止めます」
「千雨殿。大丈夫でございますか?」
「絶対に責任を問うことはありません」
お市も相手を殺す気はないようで、自分の獲物に短い丈を用意してもらう。
犬千代は天秤棒を借りた。
馬背は体術を鍛えたといって武器は取らない。
千雨はお市の護衛に回り、捨丸は店で犬千代の槍を守ることになった。
お市が店の外に出た瞬間、百人の手下が遠巻きに囲んだ。
「いきり立つな。わらわは逃げも隠れもせんのじゃ」
「出てきたな。昨日の屈辱。忘れたとは言わせんぞ」
「覚えておらん。何かあったかや?」
「貴様、俺を侮辱するか!」
「些細なことを覚えておるとは、おぬしは細かい奴じゃのぉ」
「この数で囲まれて、まだ減らず口が叩けるのか」
「あははは、烏合の衆などを集めところで数にならんわ」
「言わせておけば」
「犬。馬。五月蠅い蝿を叩き落とすのじゃ」
犬千代と馬背が『うおぉ』と答えると、左右に分かれて手下の方に向かっていった。
大立回りのはじまりである。
お市は楽しそうにゆっくりと前へ歩きはじめた。
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