人外の者、人助けする羽目になる
八田甲斐
第1話 Hiyori
十一月初旬の深夜。
G7に加わる欧米諸国からの
その最中、国会や官公庁などが密集する
同時に警視庁は海上保安庁、防衛省など関連各署に霞が関上空に不審機が飛来≪ひらい≫した事を報告。だが、日本の
霞が関上空に
まるで観光で東京の上空を飛んでみましたというような、速度を上げるでもなく、進路を細かく変えるでも無く、かなりゆっくりした速度で東京タワーの東側を抜け、海岸沿いへ向かっている。
浜松町上空でレーダー誘導により追いついた警察ヘリは、「対象は鳥のような物」という報告後追跡を開始したが、追跡されていた飛行物体が
不審飛行物はヘリ襲撃後、極めて低空を飛行し始めたらしく、レーダーの追尾から消えた。
翌日のニュースでは、東京上空に現れた不審飛行物に関する記事はなく、ただ、故障を起こした警察ヘリが小学校の校庭に不時着した事だけが報じられた。
―誘拐―
鮮やかな光に包まれた通り一つ奥に足を踏み入れると、そこは闇が支配する所だった。
ここは渋谷の繁華街の一画で、明るい光に満たされた表通りも、闇が支配する裏通りも、良く見れば怪しげな人間がそこかしこに
俺の知っている頃の東京にも、こんな場所は幾つもあったが、その土地その土地には暗黙の秩序が維持されていたように思う。だが、今のここには、そんな秩序などは無いようだった。
酒と
俺がしばしばこうした繁華街の裏手に足を運ぶようになったのは、ほんの気まぐれであった。
目覚めて間もない時でもあり、気持ちは
その手段として、ここらの光と闇の対比に興味を
東京の闇も、だいぶ地獄に似てきたものだと思いつつ、ゆっくりと路地裏を歩んでいると、しげしげと俺を値踏みするような視線を何度も浴びることになった。
その視線は不快でもあり、一方では暇を持て余し、
(殺してしまおう)
そんな感情だ。
だが、路地裏を歩く俺に
だが、
折しも八人余りの男が道端いっぱいに並んで、俺と
道を譲ろうと言う気はない、それはあっちも同じだったらしい、俺と集団の距離はどんどん縮まり、遂には互いの顔が良く見える距離まで迫っている。
「……どけよ、じじい」
八人の中の一人がそう
俺の頭を見てそう言ったようだが、「じじい」と呼ばれる
「そちらが
最も恰幅の良い男と鼻を突き合わせるまでになって、俺はそう答えた。
男はへらへらとした表情を浮かべ、隣や後に控えている仲間と顔を見合わせている。そしてやにわに掴みかかってきた。
「
俺が纏っている「トンビ(
「舐めたのではない、お前らが邪魔なだけだ」
男は短髪で顔や首の辺りにびっしりと
「言ってくれるじゃねえか…」
刺青の男が俺を押し返そうと力を込めたらしいが、一歩も下がらすことが出来ないため、舐めきって
事の成り行きをへらへら笑いながら見学していた残り七人は、いつもと違う様子に気付き始めている。
「じじい、殺すぞ」
男たちの何人かが
俺はその言葉を待っていた。こいつらは俺を殺すと言った、言ってはならぬ言葉だった。
「死ぬのはお前達のようだなあ」
刺青の男が
頭を落とされた当人も何が起こったのか分からなかっただろうが、
これまで事の成り行きを見つめていたであろう路地の住人たちが、
少し反省をした。俺の取った行動は、死んだ男達と何ら変わらない。言いがかりを付けるか付けられるかの違いだ。
暇を持て
そこで、今度は慎重に繁華街の裏道に潜み、不正や暴力をもたらしている
つまり誤って裏道に迷い込み、災難を受けている者、暴力を振るわれている弱者達を見つけては、その加害者を始末していくことにしたのである。
しかし、一つの所でそんな場面に出くわす事はそうそう無く、俺は東京の
そんな事を続けていくうちに、「路地裏の殺し屋」という別名が俺に付き、警備が厚くなり、「路地裏の殺し屋」を恐れるあまり繁華街全体の治安が上がるという効果をもたらし始めたようで、逆に俺の出番は次第に無くなっていった。
俺は再び
暇だ。まったくもって暇である。
なんせ、やることがない。だからこうして日がな一日、散歩をする毎日だ。
以前と比べ、気分も落ち着きを見せ始めており、目覚めた当初の
こうして東京のど真ん中に巣を構えて早一月、俺が知っている東京とはまったく
なんだこの車の多さは、
それに俺の知っている東京の空気と全く違っていた。何かよろしくない物が街中を覆っているかのようだった。
三月前から新富町に俺は巣を構えている。まあどこでも良かったので、ここに空きがあるということから、巣を構えた訳だが、失敗だったかなとも思っている。
巣の周囲は目もくらむほどの高いビルディングが建ち並び、空が本当に狭いので、書き割りの絵を空にはめ込んでいるのかと思う程だ。
流石にステッキと山高帽は被っていないが街行く者も、何やら軽妙な服装が目立ち、俺の服装とは大きく違う。俺の恰好が可笑しいのか、不躾な視線を投げかけて来るのも閉口した。
「何あれ、随分古いファッションじゃない」
といった若い女たちの言葉も結構耳に入ってきてしまう。
声の方を睨み付けると、一旦驚いたように俺を凝視し、そして慌てて声の主たちは視線を
「でも、イケメン」
イケメンとはなんだ。そのような言葉を俺は知らない。
明け透けに意味の分からぬ言葉で俺の感想を述べる女どもも
ついには、この時代に目覚めた事が失敗だったのではないか、そう思うこの
その日も北風の強い一日だった。少し寒いが夕暮れ太陽がビルに隠れ、影絵のようになった景色は中々に美しい。
夕刻、散歩も飽きたので、「
「いりません、……やめて下さい。迷惑です」
広い道を一つ外れると、ほど高いビルディングに挟まれるように狭い路地が多くなる。表に比べ、この辺りは比較的人影が少ない。
道端に
男は一見真面目そうな若者で、少し長めの髪をし、身体が膨れ上がって見える茶色の上着を身に着け、女の方は女学生のようで、長身だが線が細く、黒縁の眼鏡をかけていた。
彼女がもう一度「やめて下さい」と叫んだようだ。
俺は通り過ぎようと思ったが、女学生が恐怖と
俺と二人の距離はまだかなり離れているが、二人の声は
「なんで、僕は白河さんにプレゼントを上げようとしているだけだよ。昼からずっとここで君がくるのを待っていたんだ」
こちら側を向いている男は満面の笑みを浮かべて女子学生を見つめ、小さな紺色の小箱を手にしていた。
「……だから、もうそんなことはしないでください」
若い男の発する声に比べ、女学生の声はまるで消え入りそうな声である。そう述べただけで、胸にあった気力を一気に使い尽くしてしまったようだった。
「なんで、僕の気持ちは分かってるだろ。それに前は受け取ってくれたじゃないか」
「あれは、驚いて思わず貰ってしまっただけで……」
「でも、貰ってくれただろ。僕の気持ちが君に通じたんだ」
相変わらず、少し
「……そんなこと」
「なのに何で、僕に迷惑だなんていうんだい」
笑みは貼りつけさせたままだが、少し語気が強くなった。
女性学生はさらに
「……勘違いです。私はあなたに……」
「そんなに恥ずかしがるなよ。君の気持ちはよく分かってるんだ、僕は」
女学生の言葉に押し
男の手が彼女を捉えるように力が加わっていく。女子学生は明らかに
俺は一旦止めていた足を再び運び始めた。男のニヤニヤ顔が
「若いの、どうやら
二人に俺が近づいていくと、男の目が俺に移り、そして女学生の方も声の主である俺を横目でみた。
その目は助けを求めていた。
「関係ありませんよ、僕たちはこうして……」
これまでに通行人の
「嫌がっていることを気付かないのか」
「そんなことはない、……ね、そうだよね」
黒縁メガネの女子学生は、さらに縋るような表情を濃くしている。
「僕ら、付き合っているんだよ。……それが分からないの」
女学生が俺の方に顔を向けたままなのにイラついたのか、手に持っていた小箱をポケットに押し込み、両腕を彼女の肩に置き、自分の方へ引き向かそうとした。
俺に首を小刻みに振った女学生を見て、自分の
「いや、やはり勘違いだ。その子を見れば分かる。その肩の手をどけろ」
出来るだけ落ち着いた静かな口調で男に警告を俺は発したつもりだ。
「関係ないだろ、邪魔するなよ」
男は引きつった表情を浮かべつつ、俺に抵抗を示す姿勢を崩さなかった。
それほどこの女学生に
だんだん面倒くさくなってきた。それに人から抵抗される事も好きではない。
「理をわきまえろ。その子が嫌がっているのがどうして分からぬ」
トンビの裾を跳ね上げるとバサリと翼を広げる鳥のような音を立てた。トンビの中に腕組みをして仕舞っていた手を伸ばし、俺は彼女の肩に乗せられた男の手を乱暴に
「今まで紳士的に話してきたつもりだ。それに俺は気の長い方ではない」
一対一で
あまり見せたくはないが、こんな時の俺の瞳は
最初、あっけに取られたような表情を浮かべたが、続いて強い恐怖を感じたらしい、男は一歩二歩と後ずさり、背を見せて俺たちから逃げ出した。
男の姿は赤い乗り合い自動車が走る十字路に消えていった。
再び十字路に男が姿を現すのではないかに見つめていたが、そのような気配はなく、男の足音もさらに遠ざかりつつあった。
「これ、男は
腕をトンビの下に仕舞い後ろに隠れている女学生を振り返ると、彼女は背中に背負う雑のうの帯を握り締めている。その手が小刻みに震えていた。
「安心しろ、たぶん戻ってはこないと思うぞ」
初めてしげしげと俺は女子学生を見つめる事となった。
長身だが腕も足も胴体も細い、従って首に架かる程度まで伸ばした黒髪が乗った頭も小さく、俺の掌で彼女の頭を摘み上げれそうだ。
目が近いのか黒縁メガネのぶ厚いレンズに隠れた瞳は大きく、目鼻立ちははっきりとしている。だが、黒縁メガネの影響で、顔全体が特徴のない地味な雰囲気となったいた。
「大丈夫かの」
まだ怯えている女学生に俺は
「……ありがとうございます」
身体も細いが、この時発した彼女の声も細かった。
「さ、帰れ」
再び縋るような表情で俺を見上げてきた彼女の頬が血の気を戻し始めてきたようだ。
「ん? さあ、帰れ」
聞こえなかったかと、もう一度同じ
「……」
「住いは遠いのか」
「……新富橋のすぐ向うにあるマンションです」
「ああ、子供達が良く遊んでいる広場にあるビルディングか。なら近いではないか」
「でも、あの人が家を知ってます」
なるほど、追い払われた男がそちらで待ち構えているのではないかと思っているのだ。確かに男は新富橋方向に消えた筈だ。
「では、住いの近くまで送ろうか」
「お願いします」
即答だった。俺が目的地の新富橋方向へ足を向けると、ちょこちょこと女学生は付いてきた。
赤い乗り合い自動車を見かけた道に出ると、俺たちは左に折れた。この道は結構人通りも車も多い。
「名前は」
弁当屋の前を通り過ぎた時、俺は女学生に訊ねた。
「……
聞いた彼女の名前を
「どのような字を使う」
最初は俺の問いかけの意味が分からなかったようだが、すぐさまどう書くのかきいてきたのだと気づいたらしい。
「しらかわは、白いに大河のがで、ひよりは日にちのひに昭和の和です」
「……日和と書いてひよりか。ふむ
「変ですか」
メガネのため、一見分かりにくいが、日和の表情は良く動く。この時は、本心は心外だと思っているものの、他の者からもそう言われる時が多いのだろう。多少
話題を変えるべきだと思った。
「あれは、いつもああなのか」
俺は逃げ出した男について訊ねた。
「……ここ半年ばかり続いています。最初はそれ程でもなかったんですけど」
「嫌いなんだな」
新富橋に差し掛かり、橋の左側に花壇と低い木を植えた広場があり、その片隅にガラス張りの小屋が設置されている。
小屋には結構な人数が
俺は吸わぬが、以前は至る所で煙草を吸っているのを見かけた。ここに来てとんと見なくなったのは、この辺りの煙草飲みが、ああした小屋の中で吸うようになっているためらしい。
「嫌い、しつこくて恩着せがましいから」
「ふうむ、この時世では押しの一手というのは効かぬのだな」
橋を渡り終えると、木々に覆われた広場があり、その奥に高いビルディングが聳えていた。
「あそこか、お前の住いは」
俺は顎でビルディングを指し示すと、日和はこくりと頷いた。
「あのマンションです」
「大きな所に住んでいるな」
ビルディング全体が彼女の住いだと思ったのだ。
最初俺が何を言っているのか日和は分からなかったようだが、俺がマンションとやらを一つの住宅だと勘違いしているのに気づいたようだ。
「ちょっと違うけど……」
「では、なんだ」
「あそこにはたくさんの人が住んでいるんです。私の家はその中の一つ」
「ふむ、俺が住んでいるところと同じか、いわゆる文化住宅だな」
「……文化住宅? なんですか、それ」
「文化住宅と言わんのか、ではアパートか」
「マンションです」
ここでまた面倒くさくなった。俺にとって呼び名がどうなのかは、あまり関係ない。いつかまた、長い眠りに入るのだ。目覚めた時、呼び名が大きく変わっているのはいつもの話だ。
「ん、マンションな」
そう同意し、話を切った。
ちょうどその時である、広場の中にいたのであろう、日和と同じ制服を身に着けた一人の女学生が「日和」と呼びかけながら、小走りで近づいてきた。
日和は「あっ」と声をあげ、そして胸元で小さく手を振った。それが妙に
「知り合いか」
「友達、待ち合わせしてたんです」
「そうか」
近づいてきた友達だと言う女学生は、小柄で髪を金色に染め、日和のそれとは違う短めのスカートを
「遅い、それにあいつを見かけたし、心配したよ」
「ごめん」
そう日和は友達に向けてそう答え、俺を見上げた。
「ありがとうございます」
「ああ、では気を付けて帰れ」
「はい」
日和は友達に向かって歩き始めた。
「おい」
その後姿に俺は呼びかけ、日和は振り向いた。
「ああは言ったが、なかなか良い名だとおもうぞ」
「……ありがと」
明るい笑顔だった。
友達と合流し、住いの方向へ去っていく二人を何とはなしに見送っていると「だれ、ひなの恋人、すげえイケメンじゃん」などはしゃぐ友達の声と、「違うってば」という日和の声、そしてキャラキャラと二人の笑い声が聞こえた。
こもう会う事もないだろうし、これで終わりだと思っていた。
だが、事態は少し違っていた。
日和と言う娘に会ってから、三日ほど過ぎた。
今日は日曜日だということで、街には人気が少なく静まり返っていた。
俺は相変わらず暇を持て余している。仕方ないのでいつものように散歩にでるつもりでトンビを羽織ると、ふと日和の事を思い出したていた。
あれは今何をしているのかと考える。すると彼女が一人で歩いている姿が脳裏に浮かんだ。辺りの風景からして、それほど離れていない所を、というより真っ直ぐ俺の巣の方向に来るようだった。
これにはちょっと驚いた。いつの間にか日和と縁を
(ちょうど良い。あれを誘って、散歩をするかな)
俺と縁を繋ぐとどうなるかだが、好むと好まざるに
かなり前ではあるが、俺も「式」を使っていた時期がある。
あの時、茜の変わり果てた
以来、茜を亡き者にした者だけは見逃しはしないつもりだが、
前の時も、奴に損害を加え、
考えてみると、日和はどことなく茜に似ているのだ。だから、知らず知らずに縁を繋いでしまったようだった。
幾分の
住まい、というより巣として宛がわれた部屋は文化住宅の最上階である四階だが、俺の存在を隠すためもあり、部屋と直結する階段で一つ下の階に降りるようになっている。出入り口は集合住宅の納戸みたいな空間で、そこの扉から出入りするのだ。
住んでいる文化住宅は、俺を含め各階に二世帯づつ人が住んでおり、俺の隣は若い子連れの夫婦者でその者達は隣に俺が住んでいることを知らない、
何しろそこだけ出入りする扉がなく、その家族にはそこは大家が物置に使っていると説明してあるという。
これも大東京に俺のような物が生息している事を隠す手立ての一つである。――まあ、そういう事になっているのだ。
外に出てみると、北風が強く冷え込んでいた。その下を人気のない街の中を歩く、薄桃色のマフラーと白い外套を身に着けて歩く日和の姿を見つけた。
同時に彼女も俺を見たのであろう、一瞬立ち止まると、続いて小走りで俺の
(黒縁眼鏡は外さぬのだな、外せば見栄えの良いものを……)
俺はそう思いながら、小走りで駆けてくる日和を見ていた。
「このマンションに住んでいるんですね。意外と私の家と近いんだ」
開口一番、日和はそう言った。
そういった自分の言動を照れたのか、それを誤魔化すためか、俺から慌てて目を逸らすとマンションを見上げた。
「どこへ行こうとしている」
「えっ……、お母さん……母に買い物を頼まれたの」
手元には紺の地に何やら模様の入った袋と、日和には似合わない茶色く大きな長財布を彼女は持っていた。
「おう、それは偉いな」
「偉いって、……わたし、子供じゃないんですけど」
おや、この娘は馴れるに従い、俺へずけずけ言ってくる娘になりそうだ、そのような所も茜に似ている。
「日和、お前幾つだ」
「もうすぐ十七です」
「十七歳か、確かに大人だと言っても不思議はないな」
俺からすれば、胸も薄いし、ひょろひょろとした娘にしか見えぬのだが、日和は子供と言われる事がよほど心外なのだろう。
「でしょ……」
日和は同意を得たというしたり顔を見せてきた。
「ところで、何を買い求めるように言われたのだ」
「……あの、
「そうか、では俺も一緒に行こうかな。聖路加もまだ見ていないしな」
「えっ」
日和が驚いたような声を上げた。
「迷惑か」
黒縁眼鏡の顔を覗き込むようにして俺は
「いいえ、……またあんな事があるかもしれないから、助かります」
「ふん、では行こうか。あの
踵を返し、今ではまったく
「はい」
日和はそう返事をした後、一拍置いて、多少おずおずとした調子で口を開いた。
「……あの、叔父さんの名前を聞いても良いでしょうか」
「ふむ、名前か」
俺は少し考え、ある地名が頭に浮かび上がってきた。
「
日和は少し
「それは苗字、それとも名前」
「いや苗字なぞではない、俺の名は石見だ。俺のような者は石見と名乗る者が多いのだぞ」
「じゃあ、石見さんですね」
問答にちぐはぐな所があるのに、日和当人はまったく勘付いていないようだ。
「うむ、そう呼んでくれ。本当のところを言うとだな、俺らには正式な名前なぞないのだ。俺は名無しの
後に付いてきた日和は、すぐに俺の隣で歩き始める。風が冷たいせいか、彼女の頬が赤く染まっている。
新大橋通りの交差点を渡ると、
そしてちょっとした大通りには必ずと言って走っていた路面電車が
日和によると、彼女が生まれた時にはもう路面電車は走っていなかったという。
彼女を伴って陸橋の下を潜り、聖路加病院がある界隈に入ったのだが、そこも大きく様変わりし、摩天楼のようにビルディングがそびえ立つ一帯となっていた。
日和はその道々、何かに呼び出されるように肩から下げた小さなバックを探り、薄桃色の板状の物を見つめる時があるのに気づいた。
「いま仕舞った物はなんだ」
「えっ、……これですか、スマホです」
「知らんなぁ、なんだそれは」
知らないという俺に日和は驚いたようだ。
「知らないんですか」
「だから、知らぬと言っている。街行く者が絶えず持っていたり見たりしているのは知っているがな」
「これだけで、電話やカメラ、地図、ナビゲーションといったいろんな事が出来るの。例えば……」
日和は自慢げにスマホとやらの機能を説明してくれたのだが、その半分も俺には理解できなかった。ただ、便利な物ということだけは分かった。
「俺も持つべきかな」
「絶対、持つべきです」
「手に入れるにしても、面倒じゃないか」
「そんなことありません。簡単よ」
「しかし、どこで手に入れれば良いのか分からん」
「……もし買うなら手伝う。その辺りのショップに行けばすぐですから」
そこまで話が進み、スマホに好奇心が擽られたが、面倒だという想いも半分ほどある。俺は話を変える事にした。
「あれからどうだ。あの男は現れるか」
板状の物をバックにしまう日和に訊ねた。
「……遭わなくなったけど、大量のメールと通話があります」
その答え方は本当に迷惑しているという色がありありと浮かんでいた。
「それに一々応答しているのか」
「いいえ、無視しています」
「それでも奴は未練たらしく送ってくるということだな」
「はい……」
広い歩道を歩きながら、彼女は頷いた。
しつこい奴だ、男の風上にもおけん、知らず知らずに俺は義憤さえ覚えていた。
「それを止めさせることはできないのか」
「……はい。できることは私があの人からの連絡をシャットアウトするしかありません」
「ならば、そうすれば良いではないか」
少し日和の対応が
「二コ上の部活の先輩だし、今の現役生と繋がりがある人なので……」
「そうし難いというのか」
「……はい」
「困っておるのだろう、迷惑に思っているのだろう」
彼女が小さく頷いた。
「ならば、関係を断ってしまえ。嫌な男を相手にするなど、時間の無駄だと思うがな」
「……そうした方がいいのかなぁ」
日和は自分に問いかけるよう、そう呟いた。
「してしまえ。つまらぬ男と拘っている必要はないのだぞ」
そう俺が言うと、不決断気味にスマホとやら呼ぶ板をバッグから取り出した。
「男の連絡はすべてそこに来るのか」
「そうです。シャットアウトして大丈夫かしら……」
「大丈夫だ。さっさとそうしてしまえ」
目的の薬局に近づいた時、俺は日和に良く考えもせずにそう言ってしまった。
それが間違いだったのは、
あんな大胆な方法を採ってくるとは、思いもしなかった。
―拉致―
年の瀬が押し迫ってきていた。街はクリスマスだという。
日和の買い物に同行して十日程経つ。たったあれだけのことで、彼女との縁がさらに太くなってしまったので、俺は出来るだけ彼女に関わらないことにし、あの日から一度も会っていない。
ただ、日和の事を考えれば、自然と彼女が
前にも言った通り、俺は日和を「式」にするつもりはない。あんな思いをするのはたくさんである。
しかし困った事に、日和は俺の心に食い込んでくる。彼女自身が俺との縁を望んでいるかのようで、いくらこちらが拒んでも、どういう訳か日和もまた俺の事を考えるので、
一度など日和が湯船で俺を想ったらしく、彼女鏡に映った姿が見えてしまい、慌てて断ち切ったこともある。
まだ、大人になり切ってい無いような、それでいて
俺の「式」になって、何も良い事はない。十中八九、悲惨な最後が待っている。
それが分かっているので、今では彼女の思念が飛んで来たなと感じると、強制的に断ち切っていた。
その日俺は安楽椅子上で、日がな一日
夜の
俺にとって暗闇は、ただ暗闇という名の空間にすぎない。
夜はそれほど深まってはいない頃である。激しい日和の思念が俺の脳裏に入り込んできた。
日和からの恐怖、混乱と
彼女の目を通して、俺の目の前に四十がらみの小ざっぱりとした身なりの女性が男に
二人の背後に
刃物が突き刺さった傷口から血が滲みだし、女性の白い服を染め始めている。
刺した男は、日和に付きまとっていた男であった。彼は
「やめて、……お母さんを離して」
今にも泣きそうな声で、日和が叫んだ。
「君が悪いんだ、君が僕の誠意を無視し続けるからこうなるんだ。僕は悪くない」
事態が発生しているのは、どうやら日和の家の中らしい。
どうしてこうなったと思っていると、
獣のような咆哮を上げると、右手の爪を避けながら刺している刃物をさらに押し込んだのである。
その痛みで日和の母親が叫び、掻き毟っていた右手が力なく垂れさがった。
「なあ、一緒に行こう。……僕の事を君が好きなのは知っている。それを邪魔しているのが、この女達だと言う事も知っているんだ」
「違う、違うわ」
「いいや、違わない。僕だってこんなことはしたくない。……ね、僕と一緒に行こう、そうすればお母さんは助けてあげるから」
男の右手は相川らす日和の母親に刺さったままであるナイフの
それが母親の血液なのか、刺した際に自分の手を傷つけたための物かは分からない。
「……ひどいわ、こんなこと、ひどすぎるわよ」
悲痛な日和の叫びを聞きながら、俺は
二人のやり取りは続いている。
「うるさい」
男が怒鳴りつけた。
「君が悪いんだ。僕を焦らすから、僕を無視するから」
まるで自分を納得させるように、奴は先から同じ言葉を
「してない」
「いいや、してる。その罰として、君のお母さんをこうしたんだ……。当然の
「死んじゃうわ……」
「知るか」
男の顔が
その様を見ながら、俺は夜の街を疾走していた。俺を走らせるなど、かつてない事だ、しかも俺は、それ以上の手段を必要ならば
「行くわ、だからお母さんを離して」
馬鹿者、そんな妥協をするのではないと思いながら、俺はさらに足を速めた。
「……じゃあ、こっちへ来い、僕の近くに」
以前二人で渡った新富橋まで来たときには、日和が男に近づいていくのが見える。彼女の住む高いビルディングが見え始めた。
日和は男の顔と、ぐったりとした母親を交互に走らせながら、男に近づいているようだった。
「声を上げないで、僕の近くに来るんだ」
近づいた日和に向けて、握り締めていたナイフの柄から手を離した男の
日和に何が起こっているのか分からなくなってしまった。
めったにない事だが、多少
まさか、日和の住む八階に別の住人がいるのだとは思いも及ばなかった。てっきり、飛び込めば彼女の許へ行けると思ってしまっていた。
大きな窓ガラスを破り、中に飛び込み羽を仕舞ってみると、そこには日和もその母親も、奴もおらず、代わりに居たのは食卓に並びあんぐりと口を開けている見知らぬ家族の四人であった。
その四人がが俺を見つめていた。四人は食事の最中だったらしく、あまりのことに声がでないようだ。
その四人を一瞥し、懐から
「窓の
そう言い捨て、廊下の先にある玄関からそこを出た。
通路に出てみると、白々と灯っている照明の下、廊下の両側に同じような扉が幾つも続いている。これのどこかだ、俺は思った。
血の匂いがした。
匂いはここの反対側方向から漂ってくる。日和の体臭が混ざった匂いと、全く知らぬ者の血の匂い。恐らく母親のものだろう。そして獣のような匂いも。
右手の奥から二つ目の扉から血の匂いがしていた。そこが日和達の住いのようだ。
ちょうど隣に当たる三つ目の扉が少し空き、男が恐る恐るといった具合に顔を出してき、俺の姿を見て
俺はその男をじろりと見つめながら、匂いが漂ってくる扉を開けた。
部屋の灯りは
ずかずかと部屋に踏み込み、日和を探したが姿はない。あの男が連れ去ったらしい。そこで倒れたまま動かない日和の母親に近づき、彼女が生きているのか確認した。
傷口から流れ出でた血が、
先ほど外で出会った男が、
「男、医者を呼べ。それからなこれに刺さっている得物は動かすな、動かせばさらに出血する」
後ろも見ずにそう伝えた。
日和の気配は感じられない。
死んではいないとは思う。「式」を失うと感知する嫌な感覚がないからだ。
彼女と接触が出来ないと言う事は意識を失っているからだと思われた。息を
こんな事になるのなら、もっと縁を太くしておくべきだった。死んでいないのであれば、日和の居所はすぐに判明したであろうからだ。
俺は日和の住いであるビルディングの頂上に立ち、その時を待っている。
空は
そんな風景を上空で見ながら散策するのが俺は好きなのだが、今はそれどころではない。
地上では大騒ぎだ。明かり
日和は無事だと思う、だが確証はない。
彼女によると、一度親し気にしゃべったらストーカーとやら(何の意味だかわからぬが)になったと日和は男について話してくれた。
そしてついには一方的な想いのまま、日和の母親を傷つけ、彼女を
自分の想いを満たそうと、
三十分ほど経った時であろうか、いきなり日和と通じた。彼女は高速で西に向かっているのを感知した。彼女は高速で疾走する何かに乗せられ、両手両足を細く固い紐状の物で縛られ、思うように身動きできないようだ。
東京の西は山岳地帯にも通ずる。
ビルディングの頂上に立ち、早速追跡に掛かろうと神経を彼女に集中した。そのため日和の事だけが念頭にあり、周囲への警戒を疎かにしていたのもある。
その
何の警戒もしていなかった所への
辺りは制服を身に
落ちた際の傷は負っていないのだが、落ちている時、むやみやたらに手と足を振り回しながら落下するという
突然、空から落ちて来た自分に驚き、周囲にいた刑吏達が
変な所を見られたものである。その戸惑いと傷ついた自尊心、そして怒りを抱きながら素早く翼を展開し空を駆けあがった。
「久しぶりじゃ、ほんにみごとに落ちたものだの」
出会ったのは百年ぶりである。相変わらず派手な出で立ちだ。そしてコロコロと小石を転がすような柔らかな声もそのままだ。
こいつは
「俺は今はちと忙しい」
傷ついた自尊心を抱えたまま、俺は応えた。
「そのようだの、わたしの
普段は
そしてこの時は、淑やかな顔つきのままであった。俺より後に目覚めたのか、
始末するならこの時ほど有利な場面はないのだが、俺は日和の事で激怒し、焦ってもいた。奴と時間を喰っている暇はないのだ。
「ふん、またぞろ女に係わって、本来の役目を忘れたか」
俺を見下すような口調であった。こいつは「鳴子(なるこ)」と名付けられていたが、流れから外れた時から本人はそう呼ばれたくないようで、その名で呼ぶとあからさまに嫌な顔をする。
「忘れたことはない」
「そうか、そうかの、違うと思うがの」
「……」
日和の意識がはっきりし始めたのか、
(時間がない)
俺はじりじりし始めていた。それが危険な状況に陥らせる事は良く分かっていたが、目の前の敵より、日和に気が取られていた。
「あなどられたものよな、このわたしも」
そう言った瞬間、奴は大きく
俺の脇をすり抜ける
「つまらない、つまらないぞ。わたしに後れを取ってばかりではないか。本当につまらぬ」
脇腹を押さえ、少しふらつきながら後方に飛び
俺と同じく空中に留まっている鳴子が再び殺到してきた。
今度は
「どうした、反撃はせぬのか」
実力はほぼ同等で、僅かに自分の方に利があるに過ぎず、勝ったり負けたりを
今回は負けを認めよう。
俺は鳴子に攻め
鳴子は俺と同等の者だ。俺と同じ目的目的を持っているが、ちと
そのせいで、俺と鳴子は仲がよろしくない。
先にも述べた通り、
力の戻っていなに本当ならば、鳴子を狩るには絶好の好機であったのだ。
弱体状態にあるあいつを倒すのは容易かったであろう。だが、俺はその好機を逃したことになる。
そんなこともあり、日和の存在を感じた方向へ飛びながら、俺は激怒していた。好んで散策する東京の夜景も目に入らぬほどに激怒していた。
何んという取り合わせだ。
鳴子の登場と、日和の
縁を繋いだ者の
我々が生殺与奪の権利を持つと言う事は、縁を繋いだ者達の平安を我々が護るということ、ひいては我々は彼らの運命に責任を
それがあってこそ「式」を思うままに命令する事ができるのだ。
東の雲が少し切れ始め、そこから満月とはいかない月が顔を出し始めていた。
だが俺が辿り着いた日和の居場所は
俺の脳裏に日和が見ている光景が流れ込んできた。
倉庫は山深い所に忘れ去られたように建つ廃墟であり、天井の高い建物の中はこれまた荒廃している。
その一画で淡い月明かりの中、男は彼女に
何をしているのは
口を半開きにした男の獣じみた声と、欲望でぎらついた目が目的を果たそうとしていた。
日和の苦悶に満ちた悲鳴が廃屋に響き渡たる中、それに構わず、彼女の目から映し出された光景は、陶然とした表情でをしたまま上下に激しく律動を始めた男の上半身で、たちまち頂点に達したのかひと声吠えると動きを止めた。
奴の腰が何かを絞り出すように
日和の悲痛な鳴き声が俺の
「僕が初めてだったんだね、それでこそ僕の日和だよ。ぼくは嬉しい」
この男、何をのたまわっておる、お前の汚い身体を日和の上から除けろ。
言葉で表せない怒りが
俺は日和の扱いを誤ったのだろうか……。
俺の想いもむなしく、再び日和の上で動きを止めていた男は、彼女の胸肉から薄桃色のベルト状の物をはぎ取り、むき出しになったまだ幼さの残るような胸に顔を埋めてきた。
日和は涙に滲んだ瞳を天井に向けたまま泣いており、抵抗をしようとはしない。
彼女は両手を紐で縛られ、それを上に掲げさせられ、ご丁寧にも、その端をそこらにあった機械のパイプに括り付けられて思うように身動きができないようにされていた。
そのため、
その声を俺は感じ続けた。
怒りで全ての機能が研ぎ澄まされ、姿は俺本来の物になりつつある。そんな中で俺は、日和の居場所に到着した。
やはり、深い山の中といって良い所だった。先ほどまで煩いぐらい
俺は急速にそこへ近づいているのだが、男の行為は終わっておらず、日和に対して激しい
速度はそのままで、俺は倉庫か工場かの建物の天井を突き破った。その衝撃を身体に受けているだろうが、
ここは切り出された岩を加工する工場
粉塵が収まり視界が晴れ、俺は廃棄されず残されている汚い紙を寄せ集めた上で、日和に圧し掛かり、生白い尻を彼女の足の間から見せている男を見つけた。
屋根を突き破って降り立った際の
工場に差し込む月明かりの中、奴は俺をどのような姿として見たのだろう。
激怒したまま、俺は二人に近づいた。吐く息が火のように熱い。
男が日和の上に圧し掛かったまま凍り付き俺を見上げ、混乱の余りか泣くような笑うような表情を浮かべていた。
(いつまで、日和の上に乗っているのだ)
男が我に返り日和の上から逃げようとする前に、俺は男の首を掴み持ち上げた。男は両の手で首を掴んだ俺の指を
奴を無駄に
まともに俺の顔を見たのだろう、男は甲高い悲鳴を上げ始めている。
「助けて、ああ、助けて……」
聞くに堪えない悲鳴を上げ続ける男を、そこいらに生えている雑草を放り投げるように放り投げた。男は宙を飛び、無様な形で白く汚れた床をものの見事に転がっていった。
男をそのままにして横たわったまま、どこか
かわいそうに、だが彼女の瞳は正気を保っている。日和は未だに俺が誰なのか分かっていないようだが、大きく変容した身体に張り付いていたトンビを外し、それを彼女の上に掛けた時、日和は俺が誰かが分かったのだろう。
苦悩と羞恥、そして絶望が内混ざった表情を浮かべ、日和は俺を見上げていた。
「大丈夫だ、死のうと思うなよ。
背後でへたり込んでいる男は、ただ恐怖の
俺はいたぶり殺す事は好きではない。ただ、この時はそんな気持ちを持ち
「立て」
男に近づき俺はそう命じた。
男は泣きじゃくり始めている。
「立て」
もう一度命じた。
涙と鼻水を垂らしながら、男は不決断によろよろと立ち上がると懇願するように俺に手を合わせてくる。その下半身は真に見苦しい物がぶら下がっていた。
「助け、……助けて下さい、どうか、乱暴は……」
命乞いをするにはもう遅いのだ。
俺は杖に仕込んだ刀を二度振るった。
血が飛び散り、奴の両の手が切り離さた。そのため男は両腕が無い状態で立っている。余りのことで、腕が切り落とされたことさえ気付いていないのかもしれない。
そしてそれに気づいた。
欲も得もない断末魔のような悲鳴と奴が上げ続けていた。
だが、まだ断末魔の叫びをあげるには早いのだ。
次は足を切り離してやろうと刀を構え直した時、俺の後ろで日和がこの
一気にけりをつけてやろうと決めた。
刀を上段に振りかぶると、男の脳天へ切り下した。男の身体が血飛沫ながら、縦に二つ切り分けられて床へと湿った音をたてながら転がった。
二つに切放たれた
「あの人、死んだの」
「ああ」
「……ごめんね」
日和は何か考えていたように一拍間を置いて言った。彼女の瞳は固く閉じられている。
「謝る事はない」
「でも私のためにイワミは……殺したんでしょ」
「違う。俺はあれを許せなかった、だから殺した。俺のためだ」
「でも……」
「もう言うな。お前は気にせずとも良いのだ」
俺は彼女の身体を労わりながら、翼を展開し始めた。例によって背中が少し軽くなる。
「わたし、もうイワミの
日和は俺が神から遣わされた者だと思っているらしく、俺は何時か
「
「おかあさん、大丈夫かな」
「大丈夫だ、死んではおらぬ」
そう答えた俺に日和は「よかった」と一言
その後、密やかに声を押し殺すように泣き始めた。その泣き声は彼女の受けた心と身体の傷の重さを表している様だ。
日和を抱きながら、俺は開けてしまった天井の穴からそろそろと上空へ昇って行った。
辺りの山々より上空に出た俺は、ゆっくりと東京へ戻り始めた。
それにしてもこの日和と言う娘は強い。あんな目に遭い心と身体に傷を負いながら、自分を見失わず、他人の事さえ気にする娘だ。
俺は益々日和が気に入り始めていた。
戻る道すがら、日和はずっと泣いていたようだ。
彼女のすすり泣く声を聞いていると、新たな怒りが湧き上がってくる。
あの男を
しかし奴の霊魂は、天の腕に掬い上げられるに違いない。
天は霊に対して平等に甘いのである。
日和の住いに近づいてきた。
深夜にも関わらず、東京の輝きは変わってはおらず、本当に
赤色灯が瞬くビルディングの周囲は今だに多くの刑吏が右往左往している。隣り合わせた広場に日和を横抱きに着地した。突然空から日和を抱いて降り立つ俺を見た十数人の
着地した周辺に居る刑吏達を見回し、その中に小柄とがっしりした体形の女性の刑吏が二人ほど混ざっているのを認め、俺はその女性刑吏に向け声を掛けた。
「済まないが、この娘を受け取ってくれ」
そう言うと、我に返った刑吏達が俺を取り巻き始める。それを一睨みし、もう一度と同じことを伝えた。
彼女らは、自分達に向けられた言葉に戸惑ったのか、辺りの男性刑吏に
「よし、行け」
と一人の刑吏が
二人の女性刑吏は左手に警棒を握り、右手は腰に下げた拳銃に手を
小柄の女性は
俺は日和を抱いたまま片膝を立てるようにしゃがんだ。
「この娘を受け取ってくれぬか」
俺の手がトンビを
「心と身体に怪我をしている。手当てしてくれ」
言い終えて立ち上がった俺に、周りの刑吏達が一斉に「動くな」と命じてきた。
その隙に、日和の「歩けます、歩けます」という声を残して彼女を抱きかかえた女性刑吏達が逃げるように離れていく。
黄色い綱が張られた外側の奥まった辺りから写真機の音が盛んにしている中、刑吏達の
この場を立ち去る時だ。俺は刑吏達を驚かせるように飛び上がった。
取りあえずこれで一つの決着は着いた。高度を上げながら、俺はそう思った。
下では「追え」や「逃がすな」「ヘリをこちらに廻せ」などと刑吏の怒鳴り合うのが聞こえていた。
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