元虐げられ料理人は、帝都の大学食堂で謎を解く

秋野すいか

港町の魔女

 ここはクヌルート帝国の端にある、小さな港町。

 その町の料理店で働くココ・クルタリカは、今、店主ブルーノの罵声を浴びていた。


「おまえは、またこんな簡単なことを間違えたのか!」


 店主の怒りの原因は、ココが出前先を間違えたことだった。

 しかし、これはココが悪いわけではない。

 店主が届け先の住所をのである。なのに店主は自分の失敗を盛大にココへなすりつけていた。


(早く終わらないかなあ)


 この店主には言い返したところで火に油を注ぐだけ。ココはこういう時、いつも黙って店主の顔を眺めることにしていた。次々繰り出される罵詈雑言を聞き流しながら、店主の禿げ上がった頭にある、大きなシミをじっと見つめる。


(やっぱりあのシミ、きのこそっくりだよね)


 しかも最近少し大きくなった気がする。


(あれだけ大きな茸なら……)


 きっと歯ごたえも抜群だろう。それになんといっても茸特有の香りはパスタの具に、いやそのまま油で揚げても最高だ。噛んだ瞬間じゅわっと出汁が出てきて……。

 ココは思わず、にへらと微笑んだ。

 途端、店主の頭から湯気が立ち昇る。


「何だその顔は! 本当におまえってやつは!」


 店主は震える手で近くにあった濡れ布巾をひっつかむと、大きく振りかぶった。と、そのとき、ココは足下に置いてあった瓶に目を奪われた。さっとその場にしゃがみ込む。

 店主の手を離れた布巾は、ちょうどココの頭上をかすめ壁にべちゃり。貼り付いた。


「おおお、おんまえぇ!」


 店主はまたもや声を荒げているが、もうココにその声は届いていない。ココの意識はすでに瓶の中身に注がれていた。瓶を目線の高さまで持ち上げ、沸々と浮かぶ水泡をじっと見つめる。


(いい具合に発酵がすすんでる!)


 瓶の中身は、ザワークラウトだった。キャベツと塩だけでつくる発酵食品である。

 ココが満足げに頷きつつ、再び瓶を床に置いたとき、店にいた客たちの声が聞こえた。


「おやっさんも物好きだねぇ。そんな薄気味悪い子、さっさとクビにしちまえばいいのに」

「そうだよ。魔女だったらどうすんだい」


 魔女狩りはずいぶん下火になったとはいえ、未だこの客たちのように魔女の存在に怯える者はいるのであった。

 

 特にココの場合は、まずその格好からしてまずかった。

 というのも、彼女がいつも着ている、死んだ祖母のワンピースは流行遅れもいいところであるし、後ろで一つに編んだ髪は、手入れする余裕がないのでぼさっと感が凄まじい。

 顔は童顔で赤ん坊のような肌をしているというのに、それでも全体としてみれば、十八の娘というより老婆に近い様相だった。


「給金上げてくれたら、新しい服買うけどさ」


 ココは店主に聞こえないよう小さく呟くと、ワンピースの裾から出ていた糸くずをちぎった。


 ブルーノからもらう安月給では、とても服にまで金が回らない。そもそも、下に三人も弟妹きょうだいがいては、食べていくだけでやっとなのである。


 店主ブルーノは、うずくまったままのココから目を離すと、客の方へ向き直った。


「ほんと使えない子でまいっちまいますよ。でもまあ、こんなのでも、追い出すのはかわいそうでね」

「優しいなあ、おやっさんは」


 なんだかんだブルーノは、この惨めな少女に優しい。これがこの町の人々の認識であった。


 だが、店主は嘘をついている。


 ココは立ち上がると、キッチンの棚にしまってあったノートを取り出した。「ザワークラウト」と書かれた文字の横に、丸印を書きこむ。

 このノートには、ココが今まで考案したレシピが書いてあった。


 そう、この店のレシピを考えているのは、ココなのである。

 だが、それを知る者は、店主ブルーノの他にはいない。

 ココが、店のレシピを考え、食材の準備から下ごしらえまで全部やっているとしても、客が見るのは、最後の味付けをしているブルーノの姿だけ。それがココの作ったレシピ通りであったとしても、出来上がった料理は「ブルーノさんの料理」となるのである。


 ココは小さく溜息をもらすと、レシピノートを閉じて棚に戻した。

 今度はミトンを両手に装着し、熱気立ち昇るオーブンの中を覗く。丁度いい頃合いのようだ。ココはオーブンから熱々のミートパイを取り出して、そっと手提げ籠に入れた。

 先ほど間違えた配達先に、もう一度新しいミートパイを届けるのである。


 ココは、手提げ籠を持つと、もう片方の手でエプロンを外し壁のフックにかけた。


(おっとこれも持って行かなきゃ)


 手に取ったのは、搾りたてのオレンジ果汁。ココはミートパイの入った篭にオレンジ果汁の瓶を入れ、店の裏口から外へ出た。

 


 外はよく晴れた気持ちのいい天気だった。

 春の風はまだ少し冷たいが、暑いキッチンで火照った体にはこれくらいが心地よい。


 ココは坂を下りながら、陽の光にきらめく海へと目を向けた。今日も何隻か船が浮かんでいる。


 港町というのは、当然船乗り相手に商売している店が多い。そんななかブルーノ料理店は「幸運の料理店」と呼ばれ船乗りから一等人気の店だった。


 船乗りは死亡率の高い職であるがゆえに、とかく縁起をかつぎたがる生き物だ。「幸運の料理店」などと言われればつい通いたくなってしまうのである。


 ただ、ブルーノ料理店が幸運をもたらすのは、けっしておまじないや気持ちの問題ではなかった。まさにその料理に秘密が隠されているのだが、しかし客たち、いや店主ブルーノでさえその本当の理由は知らない。そしてこの先もその秘密に気づく者が現れるとは、ココも思ってはいなかった。



 商店街に来たココは、近道しようと裏道に入る。が、これは失敗だったようだ。

 狭い道に人だかりができていて通れない。


「やれやれ。また誰か蟻地獄にはまったかな」


 商店街では、若い娘たちが店先で呼び込みをすることが多い。ただその娘たちにとっては、店の売り上げなど二の次だ。彼女たちが本当に狙っているのは、この町に訪ねてくる若くてきの良い男。さらに金持ちなら、なお良し。である。


 案の定、今も人だかりの中心にいるのは若い男のようであった。

 しかし今日は、どうも様子がいつもと違う。取り囲んでいる娘たちから、普段聞かないような黄色い声が上がっていた。


 長年料理店で働くうちに、すっかり人間観察が趣味になってしまっているココは、ちょっとばかり立ち止まって人だかりの間を覗いてみる。と。

 ココは思わず、目を見張った。


 そこには、女夢魔サキュバスをも骨抜きにしそうなほど、見目麗しき男が立っていた。


 均整のとれた顔だちに、透けるような紺碧の瞳。陽光に輝く白銀の、そのちょっと長い前髪が揺れるたび、得も言われぬ色気が漂う。


 ココも年頃の娘だ。こんなに顔がよくて背も高く、さらには体つきも逞しい男を前にすれば、つい見入ってしまったとて不思議ではない。

 の、だけれど。

 彼女が注目したのはそこではなかった。


――船乗りにしては肌が白い。身なりも整っているし、それに彼の話し方には訛りがなく、立ち居振る舞いにもこの町の住人や船乗り連中にはない品の良さがある。

 となると帝都に住む上流階級の者だろうか。


(でも、何でそんな人がこんなところに……)


 上流階級の者が従者も連れず、辺境の町をフラフラ歩いているのは変である。

 と、そのとき、彼の持っている鞄にふと目が留まった。


(ああいうの、前にもどこかで見たことあるな)


 確か、帝都から来た医者が持っていた鞄もあれとよく似ていた。だけど彼は医者にしては、随分若すぎるような――。

 と、そこでココはハッと我に返った。


(まずい、こんなこと考えてる場合じゃない)


 配達が遅くなったらまた、ブルーノにどやされる。

 ココは道を迂回すると、配達先の住所へと急いだ。

 まさかこの後、あの美丈夫に自分の秘密を暴かれることになろうとは、夢にも思わずに。

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