九話 うつくしきもの


「せん……ぱい……?」


 意識が朦朧としている。

 数日間眠っていたような、酷い倦怠感を感じる。

 前後の記憶が曖昧だ。僕は何をしていたのだったか。ここはどこだろう。あの子は無事だろうか。あの子って、誰だ。

 

 仄かに曇る頭の中で、疑問が浮き出ては消え、浮き出ては消えていく。

 もはや記憶は頼りにならない。

 ならば、と視線を動かし……。


「……ぇ?」

「――!」


 口から零れた疑問符の直後、凄まじい勢いで、僕に巻き付いていたが消えた。

 よく見えなかったが、虹色に輝いていた気がする。それに、消えたというよりは、収納されたような……。



 否、そんなことはどうでもいい。

 

 

 思考が一色に染まる。

 これは、どういうことだ。

 どうして。

 何故だ。


「ぁ、ぁあ……!」

「……」


 喉を締め上げ、譫言を漏らす。踏みつけられた蛙よりもなお、無様なほどに。

 信じ難き現実を前にして、僕はただ、戸惑うだけであった。

 その様子があまりに憐れだったのだろうか。

 彼女が少し、逡巡して。


 口を開く――前に。


 僕が問うた。


「せ、せんぱ……それ、腕。う、腕が、どうして……」

「……?」

「う、腕が……え? な、なんで、無く、なって」


 幾度、瞬きを繰り返したところで、それは変わらない。

 白い肌が見える。純白の、汚れなき彼女の肌が。

 捲られた袖の中に、見える。 

 先の丸まった純白。ちょうど、肘のあたりまで伸びている。

 そして、その先は。


 無い。


 僕の渡した本を、大切そうに抱きしめてくれた手が。

 僕の背中を擦ってくれた、優しい掌が。

 僕の手を握ってくれた、繊細な指が。


 消えている。消失している。初めから存在しなかったように。

 綺麗さっぱり、無くなっている。

 頭がおかしくなりそうだ。

 喉も異常なほど乾いている。さっきから、汗が止まらない。体中が震えている。

 聞いてはいけない、と直感が言っている。

 聞けば何かが終わると、嘯いている。

 だが聞かなければならない。だめだ、聞くな。聞きたい。聞くな。聞け。やめろ。聞くしかない。だめだ。聞け。聞け。聞け……!

 

 口が、知らず開いて。

 

「どうして、先輩の腕が――」

「使ったから」

「……は?」

 

 つかっ、た?

 使、え、今、言葉、聞こえて、使った? 使ったって、なにを、え、なにに。

 ……え?


 ひやり、と冷たい風が頬を掠めた。まだ夏なのに、酷く寒気がするのは何故だろう。

 言葉が像を結び、あやふやな姿を露わにしようとする。

 だが、それよりも早く、答えは成された。

 他でもない、先輩の言葉によって。


「詩温、直すのに使った。この腕、もう詩温のもの」

「――ぁ」


「これで詩温、明日も学校行ける」


 無表情。

 そうすることが当たり前だと、一切の後悔もなく。

 彼女は僕を助けた。


 今更に思い出した。

 僕は車に轢かれたのだ。矮小な心と、どうしようもない自己満足なために。

 あの子を突き飛ばし、無様に、自分勝手に轢かれた。

 両親も周りの迷惑も憚らず。僕はあのとき、死ぬことを選んだのだ。


「……は、はは……」

「……?」


 その結果がこれだ。

 僕は生きて、先輩は両腕を失った。

 どうやってとか、非現実とか、そんな些事は片隅に置き。

 あるのは単純な事実だ。


 僕が彼女の腕を、奪ったのだ。


「ははは、はははは……ぁあ」

「嬉しい? 詩温、嬉しい?」


 力なく、乾いた音が口から出ている。それが自分のものだとは、思いたくなかった。

 先輩の言葉がやけに遠く聞こえる。

 もう全部が嫌だった。

 お前みたいな害悪は、死ぬべきだった。

 死ぬべきだった、のに。


「ぁあ、ぁあああああ、ああああああああ……」

「詩温? 詩温?」


 いつか取り返しのつかないことになる。


 その通りだった。

 自分の満足のために、誰かに迷惑をかけるなんて、あってはいけないことだった。

 分かっていただろ。

 そんなのとっくの昔に、気づいていたはずだろう。

 なのに、お前は、全部を忘れ、て。 


 ……ああ、違う。

 忘れてなんかない。違うんだ、ああ、ちくしょう、ちくしょう。なんてことだ。

 本当は、本当は。

 

 僕はそんな自分が、好きだったんだ。


「ごめん、なさい」

「……?」


 口と頭では自己嫌悪を装って。もう二度としないと無意味な釘を刺して。

 心の内で、仄暗い快楽を覚えていたんだ。

 嫌々ながら、それでも誰かを助けてしまうという、そんな自分に。

 本当はずっと、酔っていたんだ。

 憐れんで、可哀想だと思って、悲劇の主人公を気取って、優しい自分を愛して、お人好しの自分を抱きしめて。ずっと、ずっと、ずっと前から。

 幼稚園の頃、工作の苦手な子を手伝った頃から。

 親の手伝いをして、褒められた頃から。 

 あの森で、アレと出会った頃から。

 結局、僕は。


 一度だって、お節介な性格を、本心で治そうなんて思ってなかったんだ……。


「ごめん、なさい……! せん、せんぱ、ごめんなさい、ごめんなさいっ。ぼ、僕のせいで、腕をっ、ご、ごめんなさっ、ごめんなさいぃ……!」

「……」


 泣きながら、先輩に謝る。

 仰向けの状態で、首を必死に曲げて、何度も、何度も。

 ひたすらに謝り続ける。

 許されたいのではない。ただ、謝らなければならない。

 彼女の未来を狭めたことに。価値のない自分を、救ってくれたことに。

 僕は、謝らないといけない。


 腕を奪ってごめんなさい。生きていてごめんなさい。騙していてごめんなさい。死ねなくてごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 ごめんなさい……。














 どうしたものか。

 謝罪を重ねながら目の前で泣く彼を見て、自分は一体どうしたものか。 


 それは欠陥品であるがゆえに分からない。

 どうすればいいのかも、どうしたいのかも分からない。思考演算はとうに停止している。

 それは酷く機械的であった。

 機械的であれと、母なる海より生み出された存在であるからして。

 公平であれと、作られたものであるからして。

 

 そう、だからそれは、やはり欠陥品であった。

  

「ごめんなさい、ごめんなさい……! 先輩、ごめんなさい……!」

「……」


 しゅるり、とそれの髪が揺れる。

 先程まで触手であったその髪は元の肌理細やかさを取り戻していた。この状態でも、多少の操作は可能である。

 それは命令を下し、髪で彼を優しく包むように。

 自分を中心にして、すっぽりと覆うように。

 隙間なく、堅牢な檻を作り上げた。


 その理由を、それは知らない。


「せんぱっ……先輩、すみません、僕が、僕がこんな……! すみません、ごめんなさい、ごめん、なさいい……」

「……」


 言葉を紡ぐべきである。

 それは彼の遺伝子を取り込むことで、もしくは彼がそれの情報を取り込んだことで、自身の言語が正確に伝わっていることを察していた。

 これでもう、意思を念波として送らなくてもよい。より細やかな会話が可能だ。

 だから、早く彼を慰めるべきである。

 客観的視点からして、彼に非は一切ない。彼の修復を願ったのは自分であるし、それ自体に謝罪を受ける謂れはない。

 ならば、早く。

 そんなことはないと。貴方は悪くないと伝えるべきだ。

 そうすることが正しいと、残り滓の中立思考回路も言っている。

 だのに。

 だのに……。


「ぅ、うぅ……うううぅぅぅ……」

「……」


 それは何も言い出せないでいる。

 かける言葉が見つからない、のではない。該当する言葉は知識として何万通りもある。

 だが、言えない。

 言いたくない。

 彼が心と呼ばれる四次元的部位を痛め、苦しんでいるその姿を。

 それには何故か、止められなかった。


 彼が泣いている。

 あの海を思い出させる、あの朗らかな陽を思わせる、彼の色が揺れている。

 自分だけを考えて苦しんでいる。

 自分だけを想って悲しんでいる。

 霞川廻という、ハリボテな存在である自分が。

 小戸森詩温という存在全てを塗り潰し、上書きしている。


 ぞわり。


「先輩……先輩……」

「……」


 眼下の彼を見つめる。

 眉を八の字にし、目尻を下げ、大粒の涙を流している。

 口元は震え、鼻は赤く、縋るような視線を向けている。


 あの日視た、母なる海を思わせる、静かな世界はそこにない。

 あるのはただ、彼の顔と、腕と、体と、足と。

 どこまでも愚かで、どこまでもいじらしい。

 どうしようもなく優しい、彼の心だけである。


 ああ、でも。


 なんて。

 

 うつく、しい……。

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