名もなきシャンプーマン

「ここのシャンプーが忘れられなくて……来ちゃった!」

 うう……お久しぶりです。月に300人のシャンプーをしていた1年以上前、お世話になったお客様が、久しぶりのご来店です。


 美容室はドラマチックだ!先人達がそう言っていた。その時、名言のように聞こえたので、わたしの心のノートに刻んでいたのを思い出す。


 いや、お久しぶりのお客様に会うと、その言葉が呼び起こされる。


 たしかに、そうなんだ。わたしのような若輩者ならまだしも、長くお客様と接してきた美容師たちは、何年も共に歳を取り、言葉をかわす。


 友人ではない、家族でもない。でもお客様の人生に関わっている。まるで人生という物語……そう、小説を読んでいるようなのだ。


 お客様の人生を追体験するように、お話を聞かせてもらう。恋愛、就職、結婚、出産……離婚。


 我々は、お客様の人生にとって、別枠というかなんというか、なんか上手く言えないけど、関係してないからなんだろうか。赤裸々に語ってくれるのだ。


 自分の人生に比べたら、激動のように感じるお客様の物語は、何千という話を聞いても同じものはない。


 わたしは、お客様の物語に登場する名もなきシャンプーマン。


 でも、ふと思い出してくれたようだ……結婚されて引っ越しされたり、就職して転勤されたり、理由はさまざまある。


 1年ぶりのシャンプーに心が躍る!


 きっとお客様よりわたしのほうが心が躍っている。


 あの頃より成長した姿を見せたい!


 決しておごることなく、気持ちを込めてシャンプーをする。指先は当時よりも洗練され、ツボの位置も手探りではない。


 頭の形は一度触れば理解出来る。ダメージによる、もつれも今ならケアをしながら、ストレスを与えることはない。一年前の情報が蘇る!


 そうだった。あの時、わたしはここでつまずいた。だが今は呼吸をするように、それをものともしない。


 ふぅ……お客様は完全には眠ることはなかった。


 どうして?


「あぁ……すごい……やっぱりすごい!」


 え?


「眠らないように耐えてたの!ところどころ落ちちゃったけど、もったいないじゃない?寝てしまったら。……忘れたくないから」


 そんなことを言って頂けるなんて……


「向こうでも、ずいぶん探したんだけどね。美容室巡りってやつ?あなたのシャンプーを超える子を探してたんだけど、なかなかいなくて……」


「あ……ありがとうございます」


「でも……いたわね」


 え?


「あなた自身よ!「アキネ」ちゃん!」


 泣いた……


 一年前の自分を超えていたから?……違う。


 お客様がスタイリストでもない、いちシャンプーマンの名前を覚えてくれていたからだ……


 わたしはお客様にとって、名もなきシャンプーマンじゃなかったんだ。


 ちゃんと物語に登場してたんだなぁ。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る