蕾
「最近、失恋したんですよ」
うすぼんやりと白み始める窓の外を眺めながら蕾はつぶやくように言った。オールナイト上映を終えた映画館ロビーに人は少なく、眠たげな顔をしたバイトが、売店の商品の在庫を補充していた。あちこちに設置された、開場状況を示すパネルや、広告が流れているモニターには何も映っていなかった。蕾はオールナイト上映によく来ているのか、慣れた様子だったが、人生で初めてオールナイト上映を体験したばかりの菊池にとっては、非日常的な光景だった。ほんの小さい音で館内BGMが鳴っている。
窓の外には大きな交差点があったが、午前五時前の世界は、まれに早起きな人か、徹夜明けの人が通るだけで、溶媒の沈殿した水溶液みたいに静かに揺らがず存在していた。
「なるほど」
菊池は相槌を打った。蕾は履いていたサンダルをそっと脱いで、映画館ロビー特有のじゅうたんの上に足の指を這わせた。昨日の蕾は開店から深夜まで居酒屋のシフトに入っていた。おそらく昨日の予定はバイトのみだったからなのだろうが、オーバーサイズの黒いTシャツにショートパンツを合わせただけのラフな装いだった。染めもしない長い髪は無造作に一つにくくられている。
「私は『恋』なんてもの、一生わかるわけないと思っていたんです」
菊池は手の中のカップのストローを吸い、器用にも音を立てることなくカップの底にわずかに残っていたコーラを飲んだ。菊池は蕾よりも前から居酒屋で働いていた。年齢は27だか28と聞いたような気がするが、蕾は正確なことは知らなかった。まるで大学生に取り残されたかのように、ブリーチを掛けた金髪と、まるで、どこか自分の弱さを隠そうと威嚇するように開いた無数のピアスが菊池のトレードマークだった。いくつかバイトを掛け持ち、フリーターをしているらしい。
「誰にも言いたくないはずだったんですけど、先輩になら言える気がします」
蕾はこのバイトを初めてほぼ半年になるが、菊池とはバイト中の業務連絡意外、話したことはほとんどなかった。菊池の関係者であろう女が、バイト先の居酒屋に現れ、なにやら揉めて帰って行った事件を数回目撃しているので、蕾の中で菊池は恋愛に軽薄な男という印象が強かった。それは、蕾にとってちょうどいい相手だった。
「バイトの女の子の中で、俺は恋愛マスターってことで通っているのかな」
「恋愛マスターなんですか?」
「そう思っても自由ってだけだよ」
菊池と蕾は接点があまりに少なかった。蕾はこの辺りで有名な大学に通っており、大学という環境を知らない菊池にとっては住む世界がまるごと違う人種のように思っていた。他の大学生バイトたちと比べても、蕾は少し違った。休憩時間中はイヤホンで音楽を聴いているか、中古のバーコードシールが貼られた文庫本で小説を読んでいた。指示をすればてきぱきとそつなくこなし、淡々とバイト業務を片付けていく。客には笑顔を作って挨拶するが、それ以外の時は、世界すべてに軽く呆れているかのような、憂いのある目をしていた。滅多に笑わず、感情表現が面倒にすら思っているかのように見える時があった。
そんな蕾の目に、線香花火を見ているときだけ、鮮やかな感情が浮かんでいた。橙色の切なさを湛えたその目が心に引っかかり、菊池が頭の奥底にしまい込んだかさぶたがかゆみを持った。映画の誘いは、蕾を知るのに絶好のチャンスだった。
「二人とも明日はシフトないわけだし、話して楽になるのなら、すべて聞かせてよ」
「私たち、何の関係もないのに、こんな話するなんて変ですね」
「さっきまで何の関係もなかったのに、急に映画に誘ったり、それに乗ったり、3本も隣に座って映画を観たりするのも十分に変だ」
「わかってます。これは、現状を整理するための台詞、話を始める前のお約束のようなものです」
「オーケー、今俺たちは変だ。変だけれども、君は俺に話したいことがあるし、俺は君の話を聞きたいと思っていて、同じ気持ちだ。一般的におかしいけれど、何の問題もない」
蕾は頷いた。
「あなたには理解できないかもしれないんですが、私は20年間生きてきて、今まで一度も恋をしたことがなかったんです。人柄を気に入ることや、整った顔を綺麗だと思ったことはあるんですが、他人のことを愛おしいと思ったり、恋愛的に好きになったことがありませんでした」
「そういう人もいる。早い奴は幼稚園のころにはもう色気づいたりするけど、一生恋というものをしないで生きていく奴もいる」
「あなたは多分、言葉や表面的にはそういう人間がいることを理解しているのでしょうけど、実感としてはあまりピンときていないでしょう。息をするように他人のことを好きだと思える人は、その贅沢さに気付いていないんですよ」
菊池は顎を少し前に突き出すような頷き方をした。
「私の周りには、表面的にすら理解できない人がたくさんいました。単に幼かっただけかもしれませんが、そんな人たちに囲まれて過ごすうちに、私は自分が他人と比べてどこかおかしいのではないかと気づき始めました。何か決定的に人としての感情に欠けているところがあるのではないか、と」
小学校、中学校、高校で、同級生たちはごくあたりまえに恋をしていた。その感情がわからなかった。
「他人を愛せないのは寂しいね」
「寂しいですよ。他人が当たり前に感じているはずの感情を、感じることができないんですから。実は自分が色盲だったと知るようなものです。私が知らない感情が、他の多くの人にとっては、知っているのが普通だったら、孤独です」
目の前の窓ガラスに、もう反射した自分の姿が見えなくなっていることに気付く。館内の空調が少し音を立て始める。
「もう少ししたら出ましょうか。本格的にオープンしたら、お客さんが来ますし」
蕾は慣れた様子で言った。
「この映画館はよく来るんです。週に一回くらい。それ以外の日はほぼ毎日家のパソコンで映画を観ます」
「映画、好きなんだ」
そうでもなければ、夜を徹して映画なんか観に来ないだろう。
「どうして私が映画を観るかわかりますか?」
「ムービースターには恋できるかもしれないから?ちっぽけな便宜上詰め込まれたコミュニティにいる人間は、みんな冴えないように思えるけど、映画の中の俳優になら恋愛感情がわかるかもしれない」
「ほとんど間違っていますが、ほんの少し当たっているとも言えます。私が映画を観る理由は、恋愛感情を理解するためです。ムービースターに対して恋愛感情を持つことは最初から期待していませんでしたが、映画の中の登場人物たちの関わりあいを見て、恋愛感情とはこういうものだ、ということを客観的に理解しようとしたんです。たくさんの映画から、パターンを抽出するように学んでいけば、いつか、少しはわかるようになるかもしれないと思ったんです」
菊池はポケットの中から丸めた映画の半券を取り出した。
「そのわりに観てるのがパニックホラーだけど」
B級と言われるジャンルに属す、ある意味ですごく芸術的と言えそうなタイプの30年前のパニックホラーだった。大人の真剣な悪ふざけのような作品で、お世辞にも登場人物の感情表現にこだわって撮られた雰囲気は感じられない。
蕾は指摘を受け、浅くため息をついた。他人と違う自分自身への憂いと諦めの混じった横顔は、少し口角が上がっていた。
「最初は恋愛映画をたくさん観てましたよ。それこそがまさに私が知りたいものだし、一番の近道ですから。だけど、映画ばかり観る生活を始めてから3年くらい経つと、だんだん嫌になってくるんです。決して集中せずにいい加減に観ていたつもりはありません。でも、全然わからないんですよ。男女が運命的に出会って、何かあって、で、次の瞬間にはもうお互いを好いているんです。何か見落としたのかと思って何度も注意深く巻き戻しましたよ。でも、肝心な恋に落ちる瞬間についてなんの描写もないんです。自然と二人は恋に落ちた、そういう体で進んでいくんです。置いてけぼりですよ。そこが理解できないんだから。それ以降の幸せな展開も、最初がわからないから全部わからない。逆に3年間もよくわからない映像を眺め続けた私を褒めて欲しいくらいです」
「で、ホラーを好んで観るようになった」
「ホラーばかりが好きなわけじゃないですけどね。アクションもSFも、ファンタジーもアニメも観ます。最近はサスペンスが好きですね」
「恋愛感情がわからないと言ったけど、サスペンスでも恋愛感情のもつれによって物語が進むことがあるだろ。それは理解できるのか?」
「それは大丈夫です。ストーリー展開を面白くするために追加された要素の一つが『誰々が誰々のことを好き』という設定であるだけですから。ロマンス映画でわからないのは、『誰々が誰々のことが好き』ということそのものを描く物語であるはずなのに、『どうして誰々は誰々のことを好きになったのか』というその恋に落ちる瞬間がよく省かれてしまうことです。まあ、監督は省かずきっちり描いているつもりなのかもしれないですが、私には理解できないということです」
映画の設定の読解力や理解力が無いわけではない。恋愛映画を隅々まで見尽くし、映画を用いて恋愛感情を学ぼうとする人としてできる努力を、蕾はとっくにやり尽くしていた。
「今はもう、映画を観るのはただの趣味ですね。あるいは、習慣化されたルーティーンと言ったところでしょうか」
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