第二章 ホラー編⑤
荊華は半分覚醒した意識で、外へと繋がる玄関の扉のドアノブに手をかけた。
そして──
「待て、絵度」
ドアノブを回す直前に荊華の手首をやや強い力で、詩録によって掴まれた。
そこで初めて、荊華の意識が完全に覚醒する。
「……? ……家達、さん……?」
そう問いかけるが、詩録はそれには取り合わず質問をする。
「お前、母親に『友達の家に泊まる』って連絡したんだよな? 具体的な住所教えたか?」
「……? ……教えて、いませんよ……」
と、そこまで言って荊華は気づいたのだろう。彼女の顔がみるみるうちに青ざめる。
荊華は母親に、友達の家に泊まるとだけ伝えて、詩録の家の住所言っていない。そして荊華のスマホは現在、詩録に言われた通り電源を切っているため、位置情報もわからず、そこから荊華の現在地を把握することはできない。
ならば、この扉の向こうにいる人は本当に荊華の母親なのだろうか?
そもそもこの扉の向こうにいるのは人間なのか……?
『荊華ちゃん……? お母さんよ? 扉を開けてちょうだい』
扉の向こうからは、聞き慣れた母親の声がする。だが本当にそれは荊華の母親なのか?
『ねえ、荊華ちゃん……? 返事をしてちょうだい。荊華ちゃん? 荊華ちゃん?』
まるで見えない小さな無数の虫が這いずり回るように、荊華の全身を悪寒が襲う。手は震え、歯の根は噛み合わずカチカチと音が鳴る。
『荊華ちゃん? 荊華ちゃん! ねえ、荊華ちゃん!! 扉を開けなさいッッ!!! 荊華ァ!!! 扉を開けろッッッ!!!』
気づけば、扉の向こうのそれは、荊華の母親の声の残滓のようなものをその怒号に纏わせ、ドンドンッと乱暴に扉を叩いていた。
荊華は確信する。扉の向こうのそれは母親ではない。もっとおぞましい別の何かだ。
荊華は、まるで極寒の地にいるようにその身体を震わせる。何とか両腕で身体を抱えるが、震えは一向に止まらない。
「……落ち着け、絵度」
目の焦点が合わない。涙が溢れそうだ。
『開けろッッ!!!! 早く開けろッッッ!!!』
その声にはもはや荊華の母親の残滓などなく、それは複数の人間の声を束ねたうえにノイズをかけたような気持ちの悪い音を響かせていた。
ここが玄関であると言うことも忘れて荊華はその場に尻餅をついてしまった。タイルのひんやりとした感触は今は遠い。
今すぐ逃げ出したのに、足はコンクリで固められたかのように動かない。金縛りのようにその場に縫い留められている。
まるで幼子のように首を振るが、現実は都合よく逃げてはくれない。
視界が霞む。
「落ち着け、絵度……!」
扉の向こうのそれの声は痛いほど耳に届くのに、隣にいる詩録の声はどこまでも遠い。
『開けろッッ!!! 開ケろッッ!!! 開繧アロ!? 荊闖ッ縺。繧?sッ!!! 繧「繧ア繝ュ繧「繧ア繝ュ繧「繧ア繝ュ蜿矩#縺ォ縺ェ繧阪≧繧亥・ス縺阪h螟ァ螂ス縺阪h諢帙@縺ヲ縺?k蜿矩#縺ォ縺ェ繧翫◆縺?暑驕斐↓縺ェ繧翫∪縺励g縺』
扉の向こうからは、もはや悲鳴のようなノイズに塗れた声が響く。
脊髄に直接液体窒素を流し込んだかのように、全身の震えが止まらない。目の焦点が合わない。呼吸が、上手くできない。座り込んだまま動くことができない。滝のような冷や汗が背中を流れる。なにやら、足元で生暖かい水たまりが広がっているような気がしたがそんなことに注意を払う余裕などない。
「……! ……度!! ……絵度!! ……荊華っ!!!」
名前を呼ばれた気がした。
気づけば、玄関に座り込んでいる自分を抱きしめる詩録がいた。
「落ち着け、荊華。大丈夫だから、安心しろ。俺が何とかするから安心しろ」
穏やかな声が耳から脳に染み込む。
気づけば、扉の向こうのそれはいなくなり、奇妙なノイズまみれの声ももう聞こえない。
「……家達さん……?」
「ああ、家達だ。家達詩録だ。そしてここは俺の家の玄関だ。……大丈夫か?」
荊華の顔は溢れ出た涙でぐちゃぐちゃだった。だが、震えは止まり、意識もしっかりしている。
「……大、丈夫です……。……もう、大丈夫、です」
周りを見回せば、いつの間に玄関に詩録から借りたスラックスとパーカーを身に纏った波瑠の姿があった。どうやら、騒ぎを聞きつけて様子を見に来てくれたらしい。
「大丈夫、絵度さん……?」
「…………ええ、大丈夫ですっ」
不安そうに尋ねる波瑠を安心するため、荊華は多少ぎこちないが笑ってそう答えた。
その様子を見て、詩録は抱擁を解き、立ち上がる。そして、波瑠に言った。
「……波瑠。すまねえが、荊華をもう一回風呂に入れてやってくれ。あと、できれば、その、えーっと……」
珍しく言葉を濁している詩録。その様子を不審に思い、波瑠は彼の目線の先を追う。
その視線の先は玄関の床。そこには水たまりができていた。
「あー、うん、わかりました。絵度さんの下着とお洋服、洗っておきますね」
そう言われて、荊華は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
* * *
二度目の入浴と下着、衣服の洗濯を終えた荊華はびしょ濡れになった詩録のスラックスとコンビニで買ったパンツから、ノーパンの上から短パン一枚という前衛的なファッションにフォームチェンジしていた。正直お股のあたりがスースーして落ち着かない。
さすがに詩録のパンツを借りるわけにもいかず、さっきのことがあったばかりでは新しいパンツを外に買いになど行けない。おまけに彼の長ズボンはもう品切れで、残りは短パンしかなかった。
そんなこんなで、荊華、詩録、波瑠はリビングに集合し、カーペットの上に座り、テーブルを囲んでいた。
ノーパンで直に短パンを履くというのが落ち着かないのか荊華は何度か短パンの裾を直しながらもじもじしていた。思わず詩録は、荊華の眩いばかりの太ももへ目線が行きそうになるがぐっと堪える。決して、「その短パンの下には何も履いていないのか、ふーん」とか思っていない。いないったらいないっ!!
だが、何かを敏感に読み取った波瑠は詩録に絶対零度の視線を送りながら笑顔で言う。
「詩録くん、どうしたんですかどこ見てんだコラ」
怖い怖い怖い。
詩録は誤魔化すためとりあえず真面目くさった表情と重々しい口調で話し始めることにした。
「まず、最初に言っておくべきことがある。荊華、お前に付き纏っているのはストーカーじゃあない。お前に付き纏って──憑き纏っているのはもっとタチの悪いものだ」
そう詩録は神妙な面持ちで荊華に告げた。
そして、そのまま【ストーリーライン】についての説明を荊華にする。
「……その、【ストーリーライン】っていうのを。わたしは持っているんですか……?」
信じられないという気持ち半分、信じたくないという気持ち半分で荊華は詩録にそうおずおずと尋ねた。だが、それに対して、彼はこくりと頷いて肯定の意を示した後、説明を続ける。
「おそらくお前が保有するのは【ホラー】の【ストーリーライン】だ。一応複数の可能性を考えて、いくつかの保険を打っておいたが、どうやらそれが功を奏したらしいな」
「保険……? もしかして、寝る前に言ってたスマホの電源を切れって言ってたのも……?」
「ああ、そうだ。荊華、ちょっとお前のスマホ貸せ」
そう言われたので、イマイチ状況が把握できないが、荊華はベットの枕元からスマホを取ってきて、それを詩録に渡す。
彼は、それを受け取ると、そっとスマホの電源を入れる。
電源を入れるや否や、電話のけたたましい音がスマホから鳴った。
荊華は電話の音にびくりと身をすくませたが、誰が電話をかけたのかが気になり、スマホの画面を覗き込む。スマホの画面に示された、電話の相手は──
『闕願庄縺。繧?s縺ョ縺雁暑驕』
「ひっっっ……!?」
声にならない声が漏れ、思わずスマホから距離を取るように後退りするから。
詩録は荊華のスマホの電源をもう一度落とした。そして、それをテーブルの上に乗せ、話し出す。
「最近の幽霊は電波系だからな。さっきの件とこの電話の相手。……これでわかったろ? お前を狙ってんのは、人間じゃなくてもっとおぞましい人外だ」
「……じん、がい……?」
「ああ、お前の【ストーリーライン】である【ホラー】は怪異、怪物、悪霊、怨霊といった人外を無尽蔵に引き寄せる、いわば『霊媒体質』ってやつだろうさ。何かを惹きつけるって意味じゃあ、俺の【ミステリー】と似ていないこともないな」
とてもではないが、急にそんな話をされても信じられない。だが、立て続けにこれほどあり得ないことが起こっているのならば信じるほかないだろう。
そう思い、荊華は縋り付くように、助けを求めるように、詩録を見つめる。
「……それは、どうにか、できるもの、なんですか……?」
対して少年は、ニコッと笑い、少女の頭に手を置く。まるでそれは安心しろとでも言うように。
「俺に任せろ。相手が怪人だろうが怨霊だろうが、それが【ストーリーライン】から派生した現象であるのならば対処のしようはある」
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