23.炎国の断罪


《     》



 緞帳どんちょうのような臙脂えんじ色のカーテンが、音もなく揺れている。窓が開け放たれているからだ。風と共に差し込んだ星月の蒼白い灯りが、狭い部屋に在る全てを浮かび上がらせている。


 奥の壁の殆どを占める程に巨大な本棚、数えるのに両手で足りる程しか収められていない書物。本棚を背にするように設置された、革張りの一人掛け。どっしりとした飴色の事務机。机にもたれるようにして立ち、手にした書物のページを黙々と捲り続ける人物。いや、人の形をした何か。


 銀の睫毛が閃き、紅色の瞳につやと紫色の流星がぎる。あらわになったのは、一切瑕疵かしのない中性的な美貌。人と呼ぶには美し過ぎる「完璧」な造形。すっと差し出されたのは、体温をまるで感じさせない静かな微笑み。


「こんばんは」

『……アナタは何者だ?』


 彼の声は響き、ワタシの声は響かない。

 彼は本を閉じた。


「俺が何者で、此処ここ何処どこで、貴方の身体と精神に何が起こっているのか。答えは全て、既に埋め込んである。自分自身に問いかけた方が早い」


 とい。彼は何者か?

 炎神の眷属、アルヴィン・スノウ。


 問。此処は何処か?

 アルヴィン・スノウが、ワタシの精神を具象化した空間。


 問。ワタシは如何どうなったのか?


 炎神の眷属、アルラズ・スノウに虚属性魔法を仕掛けたことをきっかけに、アルヴィン・スノウにより、翠竜の巣に潜伏していた本体の居場所を突き止められた。現在はアルヴィン・スノウにより、身体及び精神を完全に掌握、され……


『馬鹿な……そんな、馬鹿な……ッ!』


 眷属を掌握するのだ、舐めて掛かるわけがない……ワタシに扱える最上級の拘束具を、虚属性魔法を用意した。それを、相殺そうさいするどころか「返した」というのか?


「信じられないなら、それでも構わない。貴方がこの先どんな言葉や態度を示したとしても、断罪対象であることに変わりはないから」


『ならば何の為に斯様かような真似を……ッ、決断がくつがえされないと言うのなら、何故此処にとどまっている! 何故、ワタシと言葉を交わすのです!』


「……そう。貴方は、俺と話がしたいのか。応えても構わないけれど、理解と諦めを済ませて欲しい。今から過ごす時間は、ただただ、浪費されるだけのものであると」


 『正義』の子は、本を机上に横たえた。黒手袋に包まれた手が、いかなる文字も模様も記されていない表紙を丁寧に撫でる。その背後には銀の燭台。そして硝子の花瓶と、ただ一輪生けられた影のように黒い花。


「書物、資料、インクの乾いた文字。貴方が対話を望んでいる相手は、人ではなく物。人間の心は変えられても、遺物が内包する過去は変えられない。言い換えれば、アルラズ兄さんと対峙したあの寸刻こそが、貴方に与えられた最後のチャンスだった」


『…………ク、ククク。麗しいアナタが、ワタシの執行人ということですか。しかしこの部屋には、「属性神の眷属の成り損ない」という、強大な魔導生命体の破壊に足るだけの設備は整っていないようですが?』


 『正義』の子は、つ、と視線を窓外へ逃し、ふ、と溜息をいた。辟易へきえきしているようにも躊躇ちゅうちょしているようにも受け取れる仕草の後で、再び書物を手に取ると、右方から事務机の奥へと回り込み、


「此処は、貴方の頭の中。これらの書物は、貴方の記憶。書架に空白が多いのは、貴方が生まれて間もないから」


 書物を、ワタシに見せるように書架へと、数少ない書物の全てが集められた一段のはしへと収めた。腕組みをして振り返った彼の口許くちもとに、笑みはない。


「この部屋を情報によって『パンク』させる。それが、炎神から直々に命じられた、貴方という魔導生命体への罰。とても単純で、簡単で……残酷な、滅ぼし方」


『情報だと? 一体、何についての……』 


「貴方がフェオリアで行った、エニレー村での虐殺事件にまつわる全て。フェオリア政府は、貴方が滅ぼした集落から回収した数多くの遺品を、俺に共有してくれた。俺の中には、貴方の所為せいで地図から消えることになる集落の歴史や、理不尽に生命を奪われた住人達の記憶が蓄積されている。それらを完全な形で、この部屋に複製する」


 やはり……やはり、そうだ。

 表では噛み締めた歯の隙間から荒い息を漏らし、裏では北叟笑ほくそえむ。


 この美しき『正義』の子は物などではない、人だ。どうしようもなく人なのだ! 佇まいも言葉選びも、心のやわらかい部分を懸命に庇っているかのよう……ワタシには解る、手に取るように解る! 先程、虚属性魔法をしのいだ方法さえ突き止めれば、我が黒き糸のきっさきを確実に刺し入れることが「できないよ」


 まるで意趣返しだ、紅色の瞳が間近に在った。蠱惑こわく的な光輝の中に、ワタシはワタシの醜悪な影を探したが「貴方」にはできない。貴方の身体と精神は「俺」が完全に掌握している。俺には貴方の考えていることが分かるし、こうして俺の思考を貴方の思考に上書きすることもできる。だから、


「……だから、時間の浪費だと言った」


 『正義』の子はワタシから身体を離し、自らの唇でそう結んだ。


 この感情は何なのだろう。まるで……暗く冷たい水面の上に、生温なまぬるい黒煙が揺蕩たゆたっており、それがじわじわと両手を広げながら何物かに変貌しようとしている、そんな感覚。初めて味わう感覚だ。


 初めて? 違う。ワタシは既に何処かで、この感情を経験している。

 ああ、そうだ。エニレー……炎属性の魔鉱石採掘場にて、大規模な爆発を誘引し、鉱山ごと壊滅させたエニレーで、だ。


 予言を成就させた後で、阿鼻叫喚あびきょうかんちまたと化した「踏み台エニレー」へ足を運んだ。滅びの旋律に酔い痴れながら、戯れにる女の心を覗いたのだ。木材の破片「我が家」によって両の瞳より紅い涙を流しながら、瓦礫「我が家」の下から弱々しく手を伸ばしている女の心を。


 名を持たぬワタシでも、この感情には相応しい名を与えることが出来る。「恐怖」と。

 眼前の存在と瓜二つの顔立ちをしたあの男が、耳元で囁いているかのようだ。


『「新たな奔流」とやらが、自分の手で選んだ筈の道さえもが』

『どこかの誰かさんに、掴み取るよう誘導されていたものだったとしたら?』


 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。誘導されていた? 誰に?

 この、『正義』の子に? 一体、いつから?


『ああ、あああ……ああぁあ、ああぁぁぁあアア!』


 衝動のままに叫ぶ。ワタシの声は響かない。


 怖いのだ。ワタシは怖い、ワタシはこわい、こわい、こわい、こわい、恐ろしい! 救われることは有り得ないというのに……諦める他に道はないというのに、手を伸ばさずにはいられないのだ、慈悲を求めずにはいられないのだ!


「貴方が、救いを乞うのか」


 そうだ救ってくれ助けてくれ見逃してくれ、アナタの神は『正義』の神だろう!? 実の母親でさえワタシを拾ってはくださらなかった、だから『正義』を司る神の元へ向かうしかなかった、ワタシが存在することを許して欲しかった、縋りつくしかなかったのだ……


「心を読まれていると認識したら、心の中でも嘘を吐くんだな。だけど無意味だ。俺は貴方について知り尽くしている……許されざる悪であると知っているのだから」


『ワタシが……許されざる、悪?』


「虚神様は貴方を、の眷属としてお認めにならなかった。貴方はその点に固執し、復讐心を燃やされているようだが……虚神様は貴方を消さなかった。何故か? リ・リャンテ宮の外でではあるけれど、貴方に、貴方だけの生きる道を模索して欲しいと望まれたからだ。


 『汝を宮殿より解き放つ。人ならざる身ながらも、どうか人のように生きよ』……虚神様から伝えられた最後の言葉を、一言一句違わず覚えている筈。そして貴方は、『人として』生活を営む為に充分な住まいと財産を与えられた。


 どうか安心して欲しい。虚神様の施しを拒絶し、滅びの流れを生み出したのは貴方の意志だ。エニレーを滅ぼしたのは貴方であり、その奔流をシェールグレイまで導いてきたのも、次の標的を狙い定めたのも貴方自身だ。そうでなければ……そうでなければせめて、水神様や虚神様の前で弁明する機会を、差し出せたかも知れないのに」


 純黒のローファーを穏やかに鳴らして遠ざかり、『正義』の子は窓を閉めた。

 気づけば、視界に「蒼」が舞い降りていた。


「この国を侵すものを、許すわけにはいかない」


 ああ、綿雪だ。白が、窓外から注ぐ光によって蒼く染まっているのだ。


 冷たく美しい結晶を求めて、一片ひとひら一片に眼を凝らしたが……その正体は燃え盛る炎の記憶だった。時計の針の巡る音さえしない静寂の中で、しんしんと木床の上に、硝子の花瓶の底に降り積もっていく。この蒼き炎が、ワタシの罪と罰。


『ワタシが悪、か。それが、「正義」の国の答えなのですね。

 残念だ……とても。心の底から、ね』


 ワタシの声は響かない。

 当然だ。ワタシはとうに、舞台から降りている。


 心が酷く凪いでいた。

 『正義』の子が、洗脳の魔法を用いたのだろう。


 零れ落ちた時からずっと、ワタシの心には嵐が吹き荒れていた。今思えば、それはワタシの中を流れる翠色の魔力の所為せいだったのかも知れないが……だからこそ、荒ぶる音を止ませることは、ワタシひとりでは決して成し得ぬことだった。


「貴方のことは覚えておく」


 ふいに。窓外を見つめ続ける横顔に、蒼い炎がはらりと重なった。

 それはまるで、涙のようで。


「……覚えておく」


 存在することに何の意味もない。消滅したところで誰も悲しまない。そんなワタシの死を唯一、弔っているかのようだった。



 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜






「さようなら、ゼロ」






 〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜✴︎〜



「はっ、はぁ……はあ、う……」


 あるじが不在の翠竜の巣。巻き上げられた土にけぶる中央で、美貌の眷属は片膝を立てて座り込んでいた。頬を伝っていた汗粒がダークグレーのジャケットに落ち、ぱっと紅い光を放って消える。


「話、……聴かなければ、よかった、のかな? いや、だな……この、痛くて、苦しい、の……ほんの、ひととき、だと、しても、兄さんに、預けたく、な、ぁ……」


 後悔ゆえの呟きは、樹々のざわめきによって掻き消された。森を丸ごと揺さぶる規模の大嵐を起こしているのは、名も無き予言者が遺した……正確には、双子の眷属が予言者に「遺させた」巨竜。


「にいさん、ごめん……あとは、ひとり、で……」


 抵抗虚しく、上下の睫毛が重なり合う。自らが用意した球状の結界……暴風も咆哮も遮断する堅牢な籠の中で、彼は猫のように身体を丸め、深い深い眠りにつく。片割れの無事を信じ、願いながら。


 そのかたわらには、小振りな撥弦楽器が寄り添っていた。

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