綺麗じゃなくてもいいから(1)

 私の手を引くいすずちゃんに付いていく格好で、そのままイルカショーの行われる大きな特設プールへ着いた。

 

 そこは円形のプールを客席が囲むようになっていて、そこに座ってプールのイルカのアクロバットを直接見たり、巨大な壁の大型ビジョンで楽しめるようになっている。


「あ、楓さん! 最前列空いてますよ。座っちゃいましょ」


 あ、本当だ。

 

 丁度2人分空いていたので、私たちは並んで座った。

 

「まだ開演まで時間あるし、何か食べるの買ってこようか」


「有り難うございます。じゃあ……どうしようかな。楓さんと同じの、ってダメですか?」


「全然大丈夫だよ。じゃあ買ってくるね」


 そう言うと私は、いそいそと通路側にいくつか立ち並んでいる屋台に向かった。

 そこではフライドポテトやホットドッグが売られていたので、私は2人分のホットドッグとコーラを買った。


 そしていすずちゃんの所に戻ろうと思ったその時。

 突然後ろから「あの……すいません」と、若い女性の声が聞こえた。


 最初、自分に言われてると思わず何気なく振り向くと、そこには白のシャツとベージュのカットソーパンツの40台くらいだろうか、落ち着いた雰囲気のショートボブの女性が私に向かいニコニコとしながら立っていた。


 誰だろう? 

 全然覚えがない……


 戸惑いながらその女性を見ていると、彼女は頭を下げてバッグから名刺を出した。


「初めまして。私『月刊ヴィジョン』のライターをしている麻生三和あそうみわと言います」


「月刊……ヴィジョン」


 全然聞いたことが無い。

 ただ、私の中でたまらなく嫌な予感がして、心臓が大きく鳴り始めた。

 この感じ……覚えがある。


 麻生と名乗るライターは、私が名刺をおずおずと受け取ったのを確認すると、また小さく頭を下げて話し始めた。


「千田……楓さんですね。6年前の千田昭文さんによる、取引先の社員であった星野百合さんに対する強制わいせつ事件。その関係者の経過を取材してるんです。今回はその一環として……」


 その後の彼女の言葉は全く耳に入ってこなかった。

 ただ、目の前が酷くぼやけて、顔と手が冷たい。


「今回、とある方から千田楓さんについての情報提供を受けたんです。加害者側の身内である千田楓さん……今は菅原と言う性に代わってますね。が、どういう経緯か被害者の身内である星野いすずさんの入っている養護施設で働いている。しかも彼女の身内が身元の引き受けを要求した際も、強く拒否されたと。この特異な経緯に対して、ぜひ取材を……」


「知らない……」


 私は全身を震わせながら、やっと言葉を絞り出した。

 

「知らないことは無いですよね? 先ほどご一緒されていた女の子って星野いすずちゃんですよね? お二人はどういう関係……」


「知らない! 知りません!」


 逃げなきゃ……ここから、早く。

 

「すいません。そこまで動揺させるつもりは無かったんです。また日を改めて取材させて頂きますね。それとも星野いすずちゃんを先に……」


「それだけは止めて……下さい」


 麻生さんは感情の無い目を向けていたが、やがてホッと息をつくと言った。


「分かりました。ただ……すいませんが、私も娘が居ます。星野いすずちゃんと同じくらいの歳です。この件は個人的に思うところがあるんです。なので、あなたにはぜひ……またお話を」


 私はそれに答えず、名刺をポケットに突っ込むと逃げるようにその場を離れた。

 ああ……買ったの……落としちゃった。

 

 そして、いすずちゃんの所に戻ると、声を震わせながら言った。


「ゴメン……もう……帰ろう」


 いすずちゃんは私の様子に気付いたのだろう。

 不安げな表情で言った。


「……どうしたんですか? もちろん、大丈夫ですけど……何かありました?」


「ごめん……今は……言えない。とにかく、ここから……出よう。お願い」


 最後の方はほとんど泣き声混じりになっていた。

 いすずちゃんはなにか言いたげに私を見ていたが、すぐに優しく微笑むと立ち上がって私の手を握った。


「私たち、ずっと歩き詰めでしたよね? なんだか疲れちゃった。帰りましょうか」


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


 私は歩きながらも背後が気になって、冷や汗が止まらなかった。

 またいつ麻生さんが声をかけてくるか。

 そして、いすずちゃんにあの事を……言うかも知れない。私の前で。


 それを思うと、酷い吐き気を感じる。

 でも、お手洗いには行きたくない。

 いすずちゃんから少しでも離れたら……もう二度と会えないような気がするから。


 必死に歩いてようやく車に乗り込むと、急発進させて逃げるように……いや、実際逃げていたのだが……水族館を離れた。


 そして、20分くらい闇雲に走らせて寂れた県道に入ったらやっと多少安堵できるようになった。

 だが、その途端収まったと思っていた吐き気が一気に襲ってきて、車を路肩に停めると車から降りて近くにしゃがみ込み嘔吐した。


 息が止まるかと思うくらいの苦しさの中、背中にそっと手が触れるのを感じた。

 咳き込みながら見ると、いすずちゃんが泣きそうな表情で私の背中をさすっていた。


「……大丈夫ですか? ごめんなさい。無理させ過ぎちゃった……」


 ああ……あったかい。

 

 いすずちゃんの表情……温もり。

 彼女が居てくれるだけでこんなにホッとして……あったかかったんだ。

 でも、それも……もしかしたら、もう……


 そう思うと、私は我慢できずにしゃくり上げると、声を上げて泣いた。

 子供のように泣きじゃくった。

 

「楓……さん」


 来ちゃった。 

 とうとうこの日が。

 

 覚悟はしてた。

 ううん、してたつもりだった。

 

 でも大丈夫だと思ってた。

 心のどこかではもう安心してた。

 私さえ黙ってたら、秘密を守れてたらきっと大丈夫なんだ、って。


 ゆっこの言葉が浮かんでくる。


(禁断、って……危険すぎるからなんだよ)

(失敗したら……二人の人生は終わり)


 ああ……その通りだ。

 その恐怖が、まるで微かに開いた扉の向こうに見える「何か」のように、得体の知れない恐怖を伝えてくる。


「良かったら……聞かせて下さい。どうした……きゃっ!」


 いすずちゃんの言葉の途中で私は彼女を強く抱きしめた。

 そして、衝動的に彼女の唇にキスをした。

 強く深く。

 そして、何回も。


 彼女を離したくない。

 この子の居ない人生なんて、無くなっちゃった方がマシだ。

 そんな衝動でキスをした。

 こんな形でしたくなかった。


 ハッと我に返って、震えながらいすずちゃんから目を逸らした。


「ご……めん……ね。無理矢理……私、駄目な奴だ。……もう、いいよ。嫌いになっ……ちゃって」


「嫌です」


 いすずちゃんはそう言うと、両手で私の頬を挟むとグッと強く自分の方に引き寄せた。


「何があったの? 話して。何も知らずに嫌いになれとか、駄目な奴とか……訳分かんない!」


 いすずちゃんのまっすぐな瞳……

 ああ……この子は強い子だ。

 いつでもそうだ。

 太陽に向かって伸びる大きな木のように健やかに真っ直ぐに……


 でも……やだ……嫌だ。

 言いたくないよ。

 

 私は再び泣きじゃくりながら言った。


「ヤダよ……やだ。言えない……だって……言ったら……もう」


 その直後。

 私の顔がグイッといすずちゃんの胸に引き寄せられた。

 その微かな柔らかさに安堵を感じていると、いすずちゃんの優しい声が聞こえた。


「楓さん……私を信じて。私、子供です。悔しいけど。だから色んな事が分かんない。でも……一個だけ自信持って言えます。私は菅原楓の事を愛してます。おばあちゃんになっても絶対。カッコいいところもかっこ悪いところも全部愛してます」


 無言の私に彼女は続けた。


「私は楓さんのお陰で『星野いすずで良かった』って思えました。あなたに会うまでは星野いすずが嫌いだった。お母さんもあんなで、学校ではからかわれて友達も居ない。お日様に向かって真っ直ぐ顔を向けられない。でも、楓さんのお陰で私は私を好きになれた」


 そう言うと、いすずちゃんは私の顔を離すと、目線を合わせた。


「同じ景色を……見せてください。綺麗じゃなくてもいいから」


 いすずちゃん……

 

 私はその真っ直ぐで宝石のように、海のように深くて綺麗な瞳を見た。

 そして……それに引き込まれるように、言葉が……零れた。


「私……本当は菅原楓じゃ……ない。千田……楓なの。千田昭文……の娘」

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