第82話 教皇

 自室へ向かうための階段を登りながら、教皇は頭を悩ませていた。目下の問題は獣王国で蔓延している疫病についてだ。流行の兆しが見えたのは約2年前、そこからあっという間に獣王国全土に広まり、今では教国から神聖魔法の使い手を派遣して疫病の終息にあたっている。

 だが、それももう少しの辛抱。奇跡的に開発された特効薬が王都を中心に出回り、終息に向かっているという。王都で延期されていた闘技大会が近々開催されるのが、その証左だろう。


 これで一安心。そう考えていた教皇の耳に、口論するような声が聞こえてくる。その声は、階段を登るごとに、自室へ近づくごとに大きくなっていく。


 「またか……」教皇は誰にも聞かれないように小さくぼやいた。


 教皇の頭を今一番悩ませているのはこれだ。年老いてそろそろ引退のときが近いと見るや、大司教や枢機卿が次期教皇になるための点数稼ぎに直接会いに来るのだ。


 (教皇の選出は大司教以上の投票によって決まる。現教皇は複数の投票を持っているととはいえ、そんなもので覆るようなものでもないだろうに…)


 階段を上りきった教皇が廊下を渡り自室に繋がる角を曲がったところで、教皇の自室を警備している騎士と見慣れない一人の男が押し問答していた。


 「で、ですから、一度先触れを出して頂かない限り教皇様はお会いになれないんです。 そもそも、今教皇様はご不在でして…」


 「なら中で待つ! こっちは緊急の要件なんだ!」


 今日の警備はどうやらまだ若い騎士のようで、男の剣幕に気圧されている。それでも、職務を全うする気概は持ち合わせているのか、強引に押し入ろうとする男を必死に体で止めている。


 今回のは随分強引だな。と教皇は少し面食らったが、思考をすぐに切り替え、いつもの笑みを作ってから口論する二人に近づいた。


 「どうしたのですか。私に何か用が?」


 「教皇様!」「猊下!」


 救いの女神が来たとばかりに、二人は口論をやめ縋るような眼差しで教皇を見つめる。


 「こちらの方が教皇様に話があるというのですが、こちらにも訪問の報せは来ていないので、お通ししていいものかどうかと…」


 「猊下! どうか私めの話を聞いて頂けませんか! 事は緊急を要するのです!」


 教皇はこの騒がしい男をあまり刺激しないように帰そうと思っていたが、よく見るとその顔に見覚えがあることに気がついた。


 「きみ……もしやゴートス司祭ですか?」


 「覚えていてくださいましたか!」


 最後に会ってから二十年以上が経ち、顔もすっかり老けてしまったせいですぐには思い出せなかったが、教皇はこの男のことをよく印象に残していた。勉強熱心な彼はいつも成績優秀で、教皇の説法の場にもよく足を運んでいたような信心深い青年だった。教皇本人も、個人間で話をしたり、目をかけていた。


 突然自室に押し入ろうとした謎の男がゴートス司祭であることはわかったが、教皇の中にもう一つ疑問が生まれた。


 (なぜ、ここに?)


 ゴートス司祭には新学校卒業後、パヴァンへの派遣を命じたはず。この教国からは正反対の僻地にある街。並の信者では音を上げてしまうその土地へは、特に信心深い信者を派遣する必要があった。ゴートス司祭なら任せられる、そう教皇自身が太鼓判を押し、司祭に任命した上で彼を派遣した。

 それから何の便りも無く心配はしていたが、便りがないのは良い便りだと思うことにしていた。


 その男が、なぜ?

 疫病、未だ支援の行き届いていない街、ゴートス司祭の突然の訪問。嫌な予感が、教皇の頭の中を駆け巡った。


 「わかりました。とりあえず中に入りましょう」


 急を要すると判断した教皇は、自ら自室の扉を開けてゴートス司祭を迎え入れ、話を聞くことにした。






 「聖女を名乗る女性、ですか」


 教皇がゴートス司祭から聞かされた話は予想とは違い、思ってもみない話だった。


 「そうなのです! シスターや街の獣人達はあの聖女にまんまと騙され、追い詰められた私は苦渋の決断で街を出るしかありませんでした。ですが、あのままではパヴァンがどうなってしまうか。私は獣人達が心配でなりません…!」


 ゴートス司祭が膝の上で拳を握りしめ、悔恨の表情を見せる。


 一先ず疫病関係の話ではないことにホッと胸を撫で下ろした教皇だが、この件を放置していいわけでもない。聖女を名乗る謎の女性が獣人達を騙しているとしたら、その理由は? この疫病の最中、獣人達は正しく治療を受けられるのか? 他のシスターや教徒は?

 いや、その前に……。


 「なぜ先に獣王国の王都へ向かわなかったのですか? あそこなら審問官もいますし、ここに来るよりも早く問題の解決に当たれたのでは?」


 「えっ、あっいや、それは……獣王国はまだ疫病への対処で忙しいはずでしょう! この件は疫病とは関係なく、あくまで協会で起きた問題ですから、直接教国へ報告したほうが無駄な手間を省けると思いまして!」


 教皇は少し言い淀んだことを不思議に思ったが、ゴートス司祭の言うことも一理あると納得することにした。


 「そういうことでしたか。では私も早く行動に移さねばなりません、と言いたいところですが、今は獣王国への支援で人手が手一杯なのです」


 「猊下のお手を煩わせるつもりは毛頭ございません! 猊下があの偽聖女への審問を許可すると一筆書いて頂ければ、速やかにパヴァンへ戻り処断してみせましょう!」


 「うむ……」


 今ここで委任状を書き、ゴートス司祭に全てを任せるのは簡単だ。実際、人手も足りていない今の状況ではそうするしかないだろう。だが、教皇の署名がされた委任状というのは強い力を持つ、それも審問となれば尚更だ。おいそれと渡していいものか。


 その考えはゴートス司祭にも伝わったのだろう。渋る教皇に対し、ゴートス司祭は言い募る。


 「猊下!事は一刻を争うのです! こうしている今もパヴァンの獣人達は苦しんでいるはずです! どうかご決断を…!」


 教皇はその必死の説得に、見事に欺かれた。








 教皇から委任状を受け取ったゴートス司祭は、足早に廊下を進んでいた。


 (あの老いぼれ、この私を忘れていた! 私はあの日から一日たりとも忘れたことがないというのに…!)


 思わず力の入ってしまった手で委任状を握り潰しそうになるが、既のところで留まった。


 (ここまでは順調だ。審問官ならあいつに金を渡せばどうにでもなる。あとは……後ろ盾が欲しいな)


 ゴートス司祭は外で待たせていた馬車に乗り込み、とある枢機卿の屋敷へ行くように指示を出した。


 (これで上手く行けば私は間違いなく大司教へ上がれる。それにあの偽聖女も、あの老いぼれも引きずり下ろせるだろう!)



 ゴートス司祭の心は今だ、歓喜と怒りの感情が混じり合っていた。








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