第34話 結末

 唇を離して見つめ合い、どちらからともなく笑う。


 嬉しさと恥ずかしさと照れ臭さと。ごちゃ混ぜの感情も、なんだか今だけは好ましく感じられた。


「若いっていいわねぇ」


 突然と場に放たれた羨望の言葉に、透と奏は慌てて離れる。


 さも愉快そうに登場したのは、姉妹を二階に運び終えた綾乃だ。


「そっと見守っておこうと思ったんだけど、あのままだと部屋に入るタイミングがないもので声をかけさせてもらったわ。ごめんなさいね」


「な……な……! い、いつからそこに……いや! こ、こういう時は見ないふりをして、一人でそっと帰るのが常識ではないのか!」


「しーっ」


 綾乃が唇の前で人差し指を立たせる。


「大きな声を出すと、奈流ちゃんたちが起きちゃうわ」


 居間へ入り、適当な場所を見つけて座る。


「でも驚いたわ。やっぱり母娘だからなのかしら。同じ解決策を思いつくなんてね」


「同じ?」


「解決策?」


 透と奏が顔を見合わせる。


 まさかという不吉な予感を覚えた。


「そうよ。あの子たちを悲しませないためには、養子にするのが一番。私も独身だからね」


 流し目の綾乃はとても艶っぽく、年齢を感じさせない。姉妹の面倒を見るという点では、包容力があるでの誰よりも適任かもしれない。


「透君は、おばさんが相手だと嫌だったのかしら」


 畳の上で取る女豹のポーズは破壊力抜群だ。


「いや、そんなことは……」


 反射的に返してから、決定的なミスに気づく。


 だが時すでに遅し。挽回する暇は与えられなかった。


「プロポーズをした直後に、その女の前で浮気心を見せるとはいい度胸だ。これは躾が必要だな」


「し、躾って、ちょっと……あうっ!」


 ガシっと。透の頭部が片手で鷲掴みにされる。


 逃れようともがく透がうつ伏せに倒れると、すかさず奏が背中に乗った。柔らかいお尻の感触が、痛みの中で救いになったのも一瞬だけだった。


 見下ろす二つの瞳には欠片ほどの慈悲もない。透は今夜初めて、本物の恐怖を知った。


「ま、待て。大きな声を出すと、里奈と奈流が起きる」


「問題はない。透が声を出さなければいいだけだ」


 避けるように唇が左右に広がる。それはまさしく般若の笑みであった。


「た、助け……」


 泣きながら透が伸ばした手の先、君子危うきに近寄らずとばかりに綾乃が立ち上がる。


「これが初めてのプロレスごっこになるのね。邪魔者は去るから、愛の共同作業をたっぷりと嗜んで頂戴」


「な、何を言ってるんですか。元々は綾乃さんが余計なことを言うからでしょう! 責任とって説得していってくださいよぉぉぉ」


「問答無用。私以外の女に色目を使えないよう、徹底的に教育してくれる」


「ひいいっ!」


 この夜。透が上げた数々の悲鳴によって、二階で眠る姉妹が目覚めなかったのは奇跡であった。





 眠ったのを後悔する姉妹が、一階へ降りるなり示した反応は絶句だった。


 二人の視界に映るのは目の下に濃いくまを作り、僅か一晩でげっそりとしてしまった透だ。


「お兄ちゃんがゾンビになってる」


「色々あってな。どうにか生きているのを仏様に感謝していたところだ」


 里奈に言いつつ、台所に立つ奏を見る。


 色気のない攻撃で一晩中透を痛めつけて満足したらしく、徹夜後にもかかわらず鼻歌交じりで全員分の朝食を作っている。


 結婚を決めた仲になって早速実感させられたが、奏は実に嫉妬深い性格をしているみたいだった。


 本当に浮気をした日には、きっちり殺されるだろう。


 昨晩の悪夢を思い出し、透は全身をブルリとさせる。


「も、もしかして、神崎のおばさんにいじめられたのー?」


「違うから心配するな。それより、二人ともそこに座ってくれ」


 二人を畳に座らせたあとで、透は台所の奏も呼ぶ。大切な報告をしなければならない。


 並んで座る透と奏を特に不思議そうにもせず、姉妹は緊張で身を固くする。最近の流れから、決して良い話ではないと考えたのだろう。


 姉妹が喜んでくれるかはわからないが、透は昨日に決めたことを伝える。


「俺と奏さんは結婚することになった」


「けっこんー?」


 不思議そうに首を傾げる奈流に、里奈が結婚について説明する。


「そっかー。お兄ちゃんとお姉ちゃんが、パパとママになるんだねー」


 理解した奈流が、おめでとうとばかりに拍手する。だがそのあとに、再び顔にハテナマークを浮かべた。


「じゃあ、奈流とお姉ちゃんはどうなるのー?」


「今まで通りお兄ちゃんでも構わないし、好きに呼べばいいさ。で、だ。お前たちに確認したい。俺たちの養子になるつもりはないか?」


「いいんですか!?」


 身を乗り出した里奈が確認を求めたのは透ではなく奏だった。


 養子と聞いてすぐに意味を理解できるあたり、やはり知識レベルは小学生離れしている。


「構わないさ。私が透と君たちの同居に反対していたのは、彼一人では支えきれずに共倒れになると危惧していたからだ。私と透が結婚し、そこの家庭に里奈と奈流を受け入れるのであれば、最初から賛成していたさ」


 ただ、と微かに奏が顔を曇らせる。


「君たちは母親を亡くしたばかりだ。形式上とはいえ、私が母になるのは複雑なのではないか?」


「……正直に言えば少しはありますけど、それこそ構わないです。私たちを思っての決断だとわかっていますから。奈流もお兄ちゃんと奏お姉ちゃんの子供になってもいいよね?」


 尋ねられた奈流は小さな顔一杯に、子犬を連想させる可愛らしい笑みを浮かべた。


「うんっ。でも……お兄ちゃんをパパってよぶのは、なんだかへんなかんじがするねー」


「だったらこれまで通り、お兄ちゃんでいいさ。無理に呼び方を変える必要はない。好きにすればいいんだ」


「やったー。じゃあ、お兄ちゃん!」


「もう、奈流ってば」


 里奈がクスっとする。だがその直後に表情を否定的なものへ変化させた。


「でも、簡単にいくでしょうか。また神崎のおばさんが何かするのでは」


 室内がシンとする中、このタイミングを待っていたかのように綾乃がやってくる。


 姉妹に出迎えられて居間へ来た綾乃は意味ありげに微笑む。


「昨日はお楽しみだったかしら」


「ええ。綾乃さんのおかげでね。あとでお礼をしますね」


「気にしなくていいわよぉ。それより報告があるの」


 刺々しい透の言葉をさらりと受け流し、ごくごく当たり前に話題を変える。


 唖然とする透の肩に、諦めろとばかりに奏の手が置かれた。


 微妙に力が入っているのは、好色な目で綾乃を見たら今夜も地獄への直行便に乗せるぞという警告だろう。


 注目を集めるようにテレビの前へ移動した綾乃は大きな胸を張り、得意げに喋り出す。


「透君が神崎氏に支払ったお金が返却されることになったわ」


 予想していなかった報告に、透は「はい?」と間抜けな声を出してしまう。


「実は彼女は違法な営業をする闇金融と繋がりがあったみたいでね。誰が通報したのか知らないけど、警察に目をつけられちゃったのよ。調査に多少時間がかかったけど、さすがは優秀な日本の警察よね。神崎氏と闇金の繋がりの証拠をきっちり掴んだの。その過程で個人でも法外な利息で他者にお金を貸してるのが露見してね。そのうちの一人が里奈ちゃんたちのママよ」


 難しい言葉が並び過ぎているので、今回ばかりはさすがの里奈も理解できなかったようだ。言葉もなく、首を傾げる。


 奈流に至ってはきょとんとするだけだった。


「借金自体は本当だったけど、里奈ちゃんのママ、美奈子氏が口座に残していたお金で十分に返済できる額だったのよ。葬儀などを行った代金も含めてね。生命保険に入っていなかった分、自分に何かあった時のためにと必死で貯めていたみたいね。それをネコババした挙句、透君からもお金を取ったわけ。こんな立派な詐欺罪を警察が見逃すはずないわよね。そういう理由で、今朝早くに神崎氏の両手は後ろに回りました」


 息つく間もなく言い並べて拍手する綾乃。


 ぽかんとする一同において、奈流だけがなんだか楽しそうとばかりに笑顔で拍手を返す。


「いきなりの展開だったけど、現実なんて大体はこんなものよね」


 綾乃にウインクされて、ようやく透に時間というものが戻って来たみたいだった。


「要するに、神崎の邪魔はもう入らないということですよね?」


「そうよ。里奈ちゃんたちの後見人は施設の人が一時的に代理をしてくれて、そこから透君が養子縁組を進める方向になっているわ」


 どうやらここへ来るまでに、色々と話をつけてくれていたみたいだった。それもこれも綾乃の顔の広さがなせる業である。


 素直にお礼を言ってから、透は苦めの笑みを作る。


「神崎の件をリークしたのも綾乃さんですね」


「違うわよぉ。私は透君に頼まれてお金を私に行った際、同行してくれた弁護士の人に調べたら色々と出そうな女性ねって雑談しただけだもの。それが警察にまで話がいくのだから怖い世の中よねぇ」


 肩をすくめる透に、彼女は悪戯っぽい目を向ける。


「それとも恰好をつけるために、里奈ちゃんたちの前で神崎氏と戦って勝ちたかった?」


「遠慮しときます。口であの人に勝てるとは思いません。助かりました」


「これで一件落着ね。当分は神崎氏も何もできないはずよ。他の親戚に里奈ちゃんたちを引き取る意思はないようだし、養子縁組も問題なくできると思うわ」


 会話が一段落したところで、唸るように奈流が声を出した。


「それで、なにがどうなったの? お兄ちゃんがパパで、奏お姉ちゃんがママなんだよねー?」


 元気の良い返事はしていたものの、奈流はいまいち会話の内容を理解できていないみたいだった。


 そんな妹に、この家に来て以降一番の笑顔で里奈が告げる。


「これからも、私たちはこの家で暮らしてもいいということよ!」

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