第29話 拒否
激情に任せて冷静さを手放せば、簡単にやり込められる危険性が高い。
気に食わない相手であろうとも、こうしたやりとりの経験値は律子が圧倒的に上なのは明らかだ。
「私は借金を返済してもらえればそれでよかったのだけど、親戚の中には血が繋がってない男に預けるのは危険だと言い張る人もいるのよ。このままだときっと役所とか警察に通報しかねないわ。そうなると里奈ちゃんたちだけでなく、貴方も色々と困るわよね。社会的信用が落ちれば働き場所も失うでしょうし」
ここで透は相手の目的を理解する。姉妹の身を案じる風を装いながら、新たに金銭を引っ張ろうとしているのだ。
「今のはまるで脅しみたいに聞こえましたけど?」
「人聞きの悪いことを言わないで頂戴。さっきのは忠告よ。心優しい私が取り返しのつかない事態になる前に、助けてあげようと言ってるの」
「高額な金銭と引き換えにですか?」
「誤解してもらっては困るわ。私が貰うのではないの。貴方の支払いによって二人を養える財力があると証明してもらいたいだけ。それと実際に会って話をすれば、貴方の誠実な人柄を厄介な親戚にきちんと説明できるわ」
遠回しな言い方をしているが、神崎の要求は明白だった。
要するに姉妹を引き取ったままでいたいなら、親戚の説得料という名目で新たに金を支払えというのである。
それも今度は代理を立てず、透一人で来いという条件付きだ。
他人を介さないようにして、搾り取れるだけ取ろうとしている。
守銭奴と罵ってやりたいが、神崎は何のダメージも受けないだろう。むしろ褒め言葉だと笑うかもしれない。
透が支払いを断れば、あらゆる理由をつけて姉妹と引き離そうとするはずだ。そうでなければ脅しにはならない。
「金額は五百万円。手持ちがなければ、その程度は借金でも何でもして用意できるでしょ。回答期限は今よ」
「ふざけるな!」
「あら、心外ね。私は本気よ。さあ、どうするの?」
考える暇を与えず、混乱させてとりあえずの返答をさせようとする。
もしかしたら電話の内容を録音している可能性もある。
言質をとって、後で第三者が介入しようとも五百万円だけは支払わせる。狙いは透けて見えるのに一蹴できない。
姉妹を手放せば透は損をしないが、二人の泣き顔を思えばそんな決断はできなかった。
何より、亡くなった父に怒られるような気がした。
自分より他人を優先して損をする性格。亡き父による透の考察は当たっていた。
「私も暇でなくてね。あと五秒で電話を切らせてもらうわ」
仕方ない。五百万円の借金くらい、一人でなんとかしてみせる。透は覚悟を決めた。
「わか――」
そこまで発したところで、脳裏にこれまでに行ってきた姉妹とのやりとりが蘇る。
人間は一人では生きていけない。誰かを助け、そして助けられている。一人で抱え込むより、素直に助けてと言えばいい。
幸いにも、それを許してくれる人間が身近にいる。
父親が残してくれたお金とは違う財産。考えてみれば姉妹もそうなのかもしれない。
こんな状況だというのに、透の口元に笑みが浮かぶ。
「それで、どうなの? 答えを言いかけていたみたいだけど」
返事を急かす神崎に、透はきっぱりと告げる。
「わかったとは言えませんね。一人で決められる問題ではありませんので、あとでこちらから連絡します」
相手の言葉を待たずに電話を切る。脅しを実行に移されるかもしれないが、その時はその時だ。
■
夜になって、透は自宅に綾乃と奏の母娘に来てもらった。
皆で銭湯へ出かけたあとに、姉妹も含めて居間で円になって話す。
電話の内容をすべて伝えると姉妹は泣きそうな顔になり、母娘は憤った。特に綾乃は見たことがないほど、怒りで顔を紅潮させた。
「汚い真似をしてくれるわね。ここまで舐められると思わなかったわ」
吐き捨てるように言うと、なんとか笑みを作って透の顔を見る。
「よく話に乗らなかったわね。応じていたら介入したくても当事者同士の問題で押し切られて、面倒な事態になるところだったわ。もしそうなっても、私が透君や里奈ちゃんたちを見捨てるなんてありえないけどね」
今にも神崎へ喧嘩を売りそうな母親を宥めるでもなく、奏も同様の意思を示した。
「まったくだ。そのような下劣な女に、最初から話し合いなど無意味だったのだ。応じて支払ったとしても、今後も手を変え品を変え金を要求してくるに決まっている」
「俺もそう思う。だから綾乃さんと奏さんに相談したい。それと、当事者であるお前たちにも聞いてもらいたかった。事実はきちんと伝えなきゃな」
隠しても、何かの拍子に聞かれてしまう可能性はある。現にこれまでも何回か似たような事態に遭遇している。
一番最悪なのは事情を知った姉妹が責任を感じ、誰にも言わずに神崎のところへ戻ることだ。そうさせないためにも、透は先手を打ったのである。
「話を聞いていてわかったと思うが、お前たちは俺の妹だ。何も心配する必要はない。黙って出て行ったりしたら、お仕置きするからな」
「お、お姉ちゃん。奈流、おしおきはいやー」
「……そうね。迷惑をおかけしますが、お願いします」
里奈が神崎と話をしても、まず間違いなく判断能力に乏しい子供の意見は聞けないと言われて終わりだ。
乗り掛かった舟ではないが、せっかくの縁をなんとか守りたい。
そんな透の意思を、綾乃は尊重してくれる。
「それなら作戦を練らないとね。明日の朝一番で、私が知り合いと一緒に神崎氏と話をするわ。透君の代理人という形にしていいかしら」
「お願いします。俺に出来ることがあれば、言ってくれれば手伝います」
「その時は頼むわね。まずは皆で食事をして、これからのための英気を養いましょう」
両手を上げて賛成したのは奈流だ。
「たまごかけごはんがいいー。サンマのかんづめと、サラダー」
サラダは袋入りで百円のもので、味付けサンマの缶詰も百円を切る。卵も日曜日などの特売日に姉妹が買ってきたりしている。
三人で食べても三百円に届かないというおかず代の安さである。
立花家では意外と定番なのだが、透は二人の大人の女性――特に奏からジト目を向けられるはめになる。
「無理を言うつもりはないが、食事の内容はもっと考えるべきだ。手抜きの極みではないか」
「いや、その……ごもっともです」小さくなる透。
「フォローしてあげたいところだけど、これは少し問題よね。二人を預かる学校の長としても心配だわ。だから奏、早く透君と結婚してしまいなさいな」
母親からのいきなりすぎる勧めに、奏は顔から湯気を上げそうなくらいに慌てる。
「わ、私たちはまだ交際してもいない! 結婚なんてできるわけがないだろう!」
「そうなの? せっかく必殺のTフロントを貸してあげたんだから、有効活用しなさいな。透君くらいの年齢の男性なら一撃よ。作っちゃえばこっちの勝ちだから」
「それが小学校を預かる者の発言か! 母さんは少し黙っててくれ!」
賑やかさを増す居間。綾乃と奏のやりとりも最近では恒例になりつつあるので、心配は誰もせずに笑う。
緩く流れる時間はとても幸せで、ずっと続くのを願ったが、透の祈りは届かなかった。
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