第6話 冬樹の影
日蝕が進む、空気が冷えていく。
御神木の落とす木漏れ日が、三日月から、針となり、闇が世界を覆いだす。
叶の顔も夜の黒に変わり、釣り上がった二つの白目だけが宙に浮かぶ。
「こんな家、潰れればいい。お前も贄におなり」
そういうと叶は、珠子の手を爪が食い込むほどに掴んだ。
「痛い! 離して」
逃れようと、珠子はもがいた。
「誰も来やしない、ここは母屋から遠いんだ。栄と冬樹が、盛ってたって、誰にも聞こえやしなかったんだからね」
叶は泣き叫ぶ珠子の手を掴んで、縁側から栄の御神木へと引きずっていく。
引きずられまいと、珠子は縁側のガラス戸に、反対の手でしがみつく。
その時、縁側で立ち尽くしていた沙織と目があった。
「沙織さん、助けて」
珠子の声に沙織は我に返り、叶の手に縋りついた。
「待って叶様。私、美恵の娘の沙織です」
「美恵の娘?」叶の動きが止まった。
「そうです。あの時は、叶様は何も分からなくなってらしたけど、母と冬樹くんと一緒に何度かお会いしました。
あの事件には続きがあるんです。冬彦さんに土がかけられ出して、母と叶様が蔵に閉じ込められた時、叶様は気を失っておられた。
母が泣いていると、蔵の戸が開いて、栄様が現れたんです。
さっきと様子が全然違ったそうで、寝巻き姿で、熱に浮かされて足元がおぼつかなかったって。
『叶ちゃんは無事ね? 三恵さん、私を御神木に連れていって』
目の前の栄様に肩を貸して、離れの御神木の前についた時、そこにも大槻の家紋付の羽織姿の栄様がいたんです。
『栄様が二人?』
驚く女達に羽織を着た栄様は
『いい贄だった』と、にたりと笑うと消えました。
足元には土饅頭が一つ、冬彦さんはもう埋められてしまってた。
『早く掘り起こして!』
後から来た栄様の指示で、慌てて土を掘り起こした母達が見たのは、ついさっき埋めたばかりの冬彦さんの身体中に、御神木の細く白い毛根がびっしりと、身体に突き刺さり絡みつき、冬彦さんの血を吸う有様でした。
『間に合わなかった……』
そう言うと、栄様は倒れました。
その時初めて、母達はさっきまで栄様だと信じて従っていたのは御神木の作る影、偽物だったと分かったんです。
冬彦さんを殺したのは栄様じゃありません、影なんです。
お父様も贄にされる前に、栄様が国外に逃したんです。国内だと、欅の分身に見つかるからです。それで御神木は贄を欲しがって、冬彦さんを襲ったんです。
御神木の分身は日本中にいます、あいつらは大槻の女達の霊力を吸って強くなりたいんです、あなたは弱っていて操られる危険があった。
だから栄様はあなたを閉じ込めたんです。
それに……それに、冬樹くんと栄様がああなったきっかけは、私なんです。
私が跡取りになるのを怖がったから。
それで心配した冬樹くんが栄様に相談して、あんなことになって……私のせいなの。だからお願い、殺すなら私を殺して」
「なら、死ね」
日蝕の最後の光に、剣の切先がひらめく。
叶の右手の懐剣が、沙織の胸を突き刺し、抜いた。
血飛沫が、叶の白い花嫁衣装と珠子の顔に飛び散る。
ゆっくり沙織は倒れていった。
「次はお前だよ」
沙織の血の滴る懐剣が珠子に向けられた。
――殺される、助けて! お兄ちゃん――
その時日蝕が完成し、金環蝕のリングができた。
世界は夜に包まれ、そして叶の振りかざした右手の前に冬樹がいた。
「冬樹?」
叶が、喘ぐ。
音もなく、冬樹の唇が動いた。
炸裂音の形に三回唇が開く。
――だめだ――と言って、冬樹は、珠子を掴んだ叶の左手に触れる。
叶が思わず手を離した。
珠子は、後ろに這いずって二人から離れ、
縁側のガラス戸の縁にぶつかって止まる。
右目の端、部屋の中で、ぽっかりと浮かぶ冬樹の顔にかかる白い布。
あそこに確かに冬樹はいる。死んでいる。
左の目の端に、珠子の木の祠が映る。お兄ちゃんの魂はあそこ。
では、私を守ろうとするこのお兄ちゃんは、きっと私の御神木が作りだした影なんだ!
「やめて冬樹、冬彦さんみたいな目で見ないで。悪いのはみんな、あの女なのよ」
叶は、ジリジリと栄の御神木へと後退し、遂に背中が幹に触れた。
途端に幹から二本の腕が現れ、身を乗り出して叶を抱きかかえた。
「冬彦さん」
叶が叫ぶ。冬彦、冬樹の父親の名前だ。
叶はふりかえって冬彦の影にしがみつく。
「冬彦さん、冬彦さん、会いたかった。もう離れない、わたしを一緒に連れてって」
冬彦はやさしく叶の髪を撫で、うなじを探る。
そして叶の右手の懐剣に手を添え、首に突き刺した。
叶の血が、音を立てて幹に沿って高く駆け上がり、吸い取られて消えた。
「この贄で、我慢しておこう」
冬彦は、にたりと笑って消えた。
後には、血を吸われ、白くなった叶の蹲った亡骸だけが残っていた。
冬樹の影はそれを黙って見ていた。
日蝕が終わろうとしていた。
太陽の端に、光が漏れ始めていた。
「冬……くん」
沙織の声だった。まだ生きていた。
「沙織さん!」
珠子が駆け寄ろうとするのを冬樹の影が止めた。
「珠子ちゃん無事なのね、良かった」
ごぼりとさおりが血を吐く。
「私も、冬くんと一緒に埋めてね……良いでしょ?」
影の唇が動いた。――そうしよう――と。
その時、戻ってきた太陽の光が煌めき、
冬樹の影は消えていた。
「沙織さん」
珠子が近付いた時、沙織はもう、息をしていなかった。
「いやあぁアアアァー」
大声で叫ぶと珠子は駆け出す。
開けっ放しの北戸の敷居をこえ、ながい渡り廊下を母屋へ、
安全な世界へと――
珠子は必死に走った。
「いまやああーぁ。うわぁ、あああ…ひぃい、きゃあああああー」
はく息が全て絶叫になっていた。
息を吸う時だけ悲鳴が途切れる。喉の奥が痛い、鉄の味がする。
腿を伝わり滴る径血は、白い靴下に染み、
血の足跡となって、涙の雫と一緒に点々と珠子の後に繋がっていく。
痛い、痛い、痛い! 誰か助けて、
珠子は身体中で叫んでいた。
不意に珠子は止まる。廊下の終わり、母屋との境の柱にもたれて、栄が立っていたのだ。
「ママー!」
一声叫ぶと、珠子は栄に縋りつく。
「珠子ちゃん、無事でよかった」
よろけながらも、栄は珠子をしっかりと受け止めた。
珠子は栄にしがみつき、しゃくり上げた。
ママがいる、もう大丈夫。怖いことは終わったのだ。
「みんな見てたわ。叶ちゃんも影に食われてしまった。私はまた、間に合わなかった。でもね約束する。ママ、必ずあの悪い御神木をやっつける。それが冬樹との約束なの……」
不意に栄の手から力が抜け、珠子を離すと柱に沿ってずり落ちた。
ひどい熱だった。
「ママ、ママー!」
珠子の金切り声に、家の者達が駆けつける。
「離れで……叶お母さんと、沙織さんが死んだの」
そう言い終わると、珠子も意識を失った。
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