第8話 中小企業経営者

「増税の影響で、経営環境がさらに悪化の一途をたどっている」

村上社長は重くため息をついた。会議室には部長クラスの幹部が詰めかけ、みな憂慮した面持ちだ。

「個人消費が減退し、社内の需要予測がまるで的中しない」

「資金繰りもつつがなくなってきた。借り入れをするにも限度があるからな」

「取引先の中小企業にも業績不振の伝手がかかり、廃業に追い込まれるところも出てきそうだ」

増税で家計を直撃された個人消費者の購買意欲低下が、企業の収益を蝕んでいく。その波及で、下請け企業への発注がストップがかかり、雇用にも重大な影響が出てきていた。

「ここに来て、やむなく人員整理の検討をせざるを得なくなってきた」

「いや、社員は我が社の宝だ。クビは考えられん」

「だがこのままでは給与支払いにも窮することになるぞ」

経営陣それぞれの意見が交錯する中、村上は頭を抱えていた。事業の立て直しと従業員の雇用維持は両立が難しそうだった。

「副業の解禁なども含め、何か新たな施策を講じないと、私ども中小こそが直撃を受けてしまう」

どうにかして切り抜ける道は見つからないものか。村上はこれまでにない事態に冷や汗をかいていた。

「まずは、何かアイデアを出してみよう」村上は思い切って言った。会議室は静まり返り、全員が緊張した面持ちで彼を見つめる。

「例えば、どうやって消費者の財布の紐を緩めるかを考えてみるんだ」と村上は続けた。「増税で苦しむのは我々だけじゃない。消費者もだ。同じ船に乗っているんだ。彼らにとっても得になるような方法を考えよう。」

部下の一人、山村部長が手を挙げた。「例えば、ポイント制度とかどうでしょうか? 購入ごとにポイントを貯めて、次回の買い物で使えるようにするんです。消費者の負担を少しでも和らげるために。」

「それは良いアイデアだな」と村上はうなずいた。「他には?」

「オンライン販売を強化するのも一つの手かもしれません」と、今度は鈴木部長が提案した。「配送費用を無料にするプロモーションを行うとか。外出を避けたい消費者には受けがいいかもしれません。」

「なるほど、それも一考の価値ありだ」と村上は再びうなずいた。

「あと、やっぱり副業解禁の件も本格的に考えるべきだと思います」と山村部長が再び発言した。「社内の人材を最大限に活用するために、他の業務にも従事してもらうとか。例えば、ITスキルを持っている社員にはオンラインショップの運営を手伝ってもらうとか。」

村上は腕を組み、深く考え込んだ。「確かに、副業解禁も一つの道だな。ただ、そのためには社員たちの理解と協力が不可欠だ。従業員満足度を下げずに、どうやって実行するかが鍵だ。」

「社員たちとの対話も重要ですね」と鈴木部長が補足した。「彼らの意見を聞いて、共に解決策を模索する姿勢が必要だと思います。」

村上は大きく息を吐いた。「そうだな。全員が一丸となって、この危機を乗り越えるしかない。まずは社員たちとのミーティングを設定し、彼らの意見を取り入れた上で具体策を詰めていこう。」

会議室の緊張感は少しだけ和らいだ。全員が新たな希望を胸に、前を向いた。村上は心の中で決意を新たにした。「この難局を乗り越え、再び飛躍するために、全力を尽くそう」と。


数カ月が過ぎ去った。しかし村上社長が率いる中小グループ企業の業績は一向に回復する兆しを見せなかった。増税の影響で個人消費が低迷を続け、需要予測の的確性が損なわれていたためだ。

「先月の売上は前年比25%ダウンですね。取引先の中小企業からも、廃業に追い込まれそうだという連絡が複数届いています」

部長の報告に村上は苦虚を漏らした。社員の給与支払いにも窮するほど、資金繰りは逼迫していた。

「副業解禁に向けた社内アンケートの結果も出ましたが、反対意見が6割を超えています。従業員の理解が得られない以上、その施策は事実上難しくなりました」

確かに村上は経営陣、社員と対話を重ね、数多くのアイデアを模索してきた。ポイント制の導入、オンラインショップ強化、サブスクリプション販売の試行など、方策はいくつも打ち出された。

しかし、個人消費の先細りは止められず、これらの取り組みは効果が限定的だった。中小グループが最も直撃を受けているのは紛れもない事実だった。

「そろそろ従業員の一部への希望退職の提案を…」

渋々の言葉が部長の口から漏れた。村上は強く頭を横に振った。

「気の毒にも程がある!社員こそが我が社の宝なのだ」

しかしながら、限界は見えていた。現金払いの給与支払いに窮するリスクは、いつ顕在化してもおかしくなかった。

「こんな惨憺たる有り様で、社是の"地域とともに発展する"は体現できるのか」

村上の頭は混沌としていた。限界集落といわれる地方の町に本社を構え、地域に根差した事業を展開してきた。だがそのアイデンティティさえ、この状況下では揺らいでいく。

打開策は見いだせないのか。苦渋に満ちた表情で、村上は部下たちを見つめた。いつ事態が動き出すのか。待ちわびるばかりの日々が続いていた。

日々が過ぎ去るにつれ、村上の憂いは深まるばかりだった。事態の打開の兆しが全く見えないどころか、状況はさらに悪化の一途を辿っていた。

「社員の一部から、早期退職の申し出が相次いでいます」

部長の報告に村上は頭を抱えた。長年支えてくれた優秀な社員が去ろうとしている。この事態を食い止める術はないのだろうか。

「新卒の採用も難しくなってきています。増税の影響で家計が圧迫され、学生のアルバイト機会も減少。就職活動さえままならぬ有様のようです」

人材の流出と新規確保の両面で、人的資源が枯渇しかねない深刻な事態となっていた。

さらに資金繰りの面でも追い打ちをかけられた。取引銀行から借り入れ限度額を引き下げられたのだ。

「あなた方の企業は財務体質が件の増税により悪化の一途。これ以上融資を継続するリスクが高まった。他行からの借り入れを検討されたい」

銀行員の冷たい言葉が村上の胸を撃った。金融機関からさえ見放され始めている。

「くそっ…!」

つらい想いを抑えきれず、村上は拳を振り上げた。グループの幹部らは言葉少なく、ただ困惑するばかりだった。

このままでは路頭に迷うのも時間の問題だ。しかし踏ん張る以外に選択肢はないのか。村上は何か逆転のチャンスをつかみたかった。だが、そのヒントさえ見つからず、希望が揺らいでいく。

経営難に頭を抱えながら、村上は夜通し働き、数字と向き合っていた。そうする他になく、自らの無力さを思い知らされる日々が続いていた。


数日後のこと。村上は通常の朝と変わらず、帽子を取って出社しようとしたところだった。すると取引先の中小企業から、慌ただしい電話が入ってきた。

「村上社長!大変です!うちの協力会社が夜逃げしてしまったんです!」

電話口の男性は息を切らしながら絶叫していた。

「な、なんです!?夜逃げとは一体…」

村上は冷や汗を掻きながら、事の顛末を聞いた。

取引先の下請け企業は増税の影響で業績が急降下、ついに倒産に至ったのだという。そしてそのまま、夜を狙って工場から人々が姿を消した。預り金や立替金の支払い、従業員への解雇予告すらなされていないという。

「預り金の額は百万単位です。我々にも大きな穴が空くでしょう」

村上は青ざめた。一夜にして、金を持ち逃げされてしまったのだ。重要な協力会社が、まるで蝙蝠のように影を潜めてしまった。手の施しようもない。

「それにつけても…このタイミングでよりにもよって…」

村上は呻きながら、頭を抱えた。増税の直撃を受けた影響で、そういった無理心中的な選択をせざるを得なくなったのだろう。

それでも村上の企業も、下請けグループに多額の資金を預けていたため、この穴は看過できない痛手だった。

「全従業員に報告する必要がある。どうなることやら...」

深く溜め息をついて、村上は出社した。一つ間違えれば自らも取り返しのつかない選択を迫られかねない。そんな恐怖を胸に抱えていた。

もはや明日はあるのかと思えるほど、深刻な事態となっていた。村上は部下を集め、痛ましい事実を伝えるしかなかった。

事態は一気に深刻さを増した。村上は緊急の全体会議を開き、社員たちに夜逃げ事件の詳細を説明した。

「話し合いの上で決断した事とは思えませんが、実際に起きてしまった出来事なのです」

報告を終えると、会場から騒ぎの声が上がった。

「じゃあ、うちの会社にも穴が開くってこと!?」

「そんなバカな!預り金を払えなくなるってことじゃないですか」

「待っててくれよ。俺たちの給料はどうなるんだ?」

社員たちの不安と怒りが渦巻いた。収拾がつかなくなりそうだと思った村上は、大声で制止した。

「落ち着け!確かに深刻な事態だ。しかし私どもにも、そうした最悪の事態には陥らぬよう対処する術がある」

村上は奮闘する決意を社員たちに訴えた。手元の資金を穏やかに回収するよう求めつつ、一時的な貸付金の活用などを提案した。

「皆さんにはしばらく我慢を強いることになるかもしれませんが、それでも崩壊させるつもりはありません。一緒に乗り越えましょう」

努力を重ね、この難局を少しずつ打開していく方針を示した。取引先の裏切りに落胆する社員もいたが、村上の言葉に多くは頷いていた。

だが実際のところ、村上自身も途方に暮れていた。夜逃げの穴を塞ぐことさえ難しい規模の損失額だったからだ。

「こんな苦境に追い込まれるとは…この台所事情を知っておれば、取引さえしていなかったかもしれん」

部長と二人きりになると、村上はついそう漏らしてしまった。

しかしそんなことを言っても始まらない。村上は自らの無力さを思い知らされながらも、前を向いて歩まねばならなかった。

収束の兆しは見えず、巨額の損失に頭を抱える日々が続いていった。


数週間が過ぎた。しかし村上社長の奮闘にもかかわらず、事態は一向に改善されない有様だった。

取引先が夜逃げした穴を塞ぐべく、村上は金融機関から借り入れを試みた。しかし複数の銀行から借入審査を却下される始末だった。

「財務状況が極めて不安定と判断されます。与信限度額を大幅に引き下げざるを得ません」

銀行員の言葉が村上の胸をよぎった。これでは資金繰りにも窮することになりかねない。

そればかりか、新たな打撃が待っていた。村上の会社は地方の町を本拠地としていたが、町自体が過疎化の渦に巻き込まれていったのだ。

「この町の人口は10年で3割も減っちまった。若者が就職で町を出て行っちまうからな」

町の高齢住民が嘆く声が、村上の頭に過った。消費人口の減少により、地域に根ざした事業の先行きが見えてこない。

「このままじゃ従業員の給与さえ払えなくなる」

そう内心案じていると、想定外の出来事が起こった。資金繰りに窮した村上は、有り余る従業員宅の家財道具を抵当に入れて資金を工面しようとしたのだが、その中から意外な物が見つかってしまったのだ。

「な、なんでこんなところに…!」

村上が見つけたのは、大量の覚醒剤の証拠品だった。どうやらある従業員が覚醒剤の密売に手を染めていたらしい。

一気に事態は深刻さを増し、村上は冷や汗を掻いた。これ以上の損失リスクを回避するには、希望退職の打診を避けられなくなりつつあった。

「もうダメかもしれん…従業員に白状しないと」

窮地に立たされた村上は、自身の限界を思い知らされていた。いよいよ、崩壊の瀬戸際に立たされてしまったのだ。

過酷な現状に村上は希望を失いかけていた。しかし、そんな中で思いがけない転機が訪れた。

ある日のこと、従業員の一人から提案が上がったのだ。

「社長、新たなビジネスモデルを立ち上げてはどうでしょうか」

若手社員の田中がそう切り出した。

「新ビジネスモデル?どういった内容かな?」

村上は首を傾げながらも、一縷の希望を感じた。

「現金払いにこだわらず、月額制の定額サービスを提供する。つまりサブスクリプション型のビジネスモデルです」

田中は経緒を説明した。生活必需品を月額定額で顧客に届ける。消費税の影響で衣食住に窮する人々のニーズに合わせたサービスなのだという。

「新鮮な発想じゃないか!」

村上は大いに食指が動いた。個人消費低迷の打開策にもなりうる。早速、部長会議を開き、具体的なビジネスプランを策定していった。

そうした努力を経て、サブスクサービスが始動した。簡単な調理もできる食材をパックで顧客宅に届ける月額制サービスだ。

「おかずですから毎日同じ物は飽きるだろうし、手作りに手間もかかる。だがこのパックなら、誰でも簡単に食事ができるんじゃないかな」

村上は自信を持って語った。税込価格1万円前後のお手頃な価格設定と、簡便さが売りだった。

そしてサービス開始から間もなく、期待を上回る反響が起きた。個人消費者からの注文が殺到し、受注に追われる事態となったのだ。


サブスクの注文が殺到する中、村上は経営再建への希望に胸を躍らせていた。

「素晴らしい反響だ!これならひと安心だ」

部下たちとともに、発注と物流対応に追われる毎日を送った。在庫管理やデリバリー態勢の強化など、次々と課題は出てきたが、村上は前を向いて走り続けた。

そうした奮闘もあり、サブスクサービスは軌道に乗り始める。個人消費の低迷に対する一つの解決策を提供できたのだ。

「今月はDefiniteのおかげで、昨年同月比20%アップだそうです!」

部長からの報告に、村上は拳を握り締めた。ようやく光明が見えてきたのだ。

しかし最大の喜びは、地域の人々から支持されたことだった。日々の食卓に困窮する家庭に、新しい選択肢を提供できた。

中には、高齢者から社員あてに手紙が届いたりもした。

『前はスーパーの総菜しか食べられず、栄養が行き渡らない生活でした。けれどサブスクのおかげで毎日手軽に食事ができ、健康を取り戻せました。あなた方に感謝の気持ちでいっぱいです』

弛まぬ努力を継続する中、地域に頼れる味方もでき始めた。このサブスクサービスが、地域に根差す村上の企業を支えてくれるようになったのだ。

「みんな、本当にありがとう。この調子で頑張ろう!」

村上は社員一人一人に労いと励ましの言葉をかけた。窮地から這い上がる力が、地域から湧き上がってきているのを感じていた。

サブスクサービスの軌道に乗せた手応えと共に、村上は自らの信念を取り戻していった。

"地域とともに歩む"――その社是を、新たなビジネスモデルで体現できる喜びを味わえたのだった。

村上社長の中小グループ企業は、おかずDefiniteのサブスクリプションサービスの好調により、増税の嵐を何とか乗り越えることができた。

地域密着の理念のもと歩んできた同社にとって、これは地域住民との新たな絆の確立にもつながった。高齢者を初め、消費増税で生活に窮していた人々から感謝の声が数多く寄せられたのだ。

「おかげさまで、我が家の食卓があなたがたのサブスクのおかげで豊かになりました。こうしたサービスは本当にありがたいです」

このようなお客様の言葉が、村上と従業員の励みとなった。地域に根を下ろし、その人々の暮らしを支えるという、同社の存在意義を改めて実感できたのだった。

一方で、サブスクサービスの人気で一時的な反動もあった。在庫不足に伴う配送の遅れや、品質のばらつきなどの問題が発生した。しかし村上は素早く改善に着手し、社員一同、課題解決にあくせく努めた。

「地域のために尽くすことが私たちの使命。そのためにも改善は怠れない」

村上はあくなき向上心と、地域への愛着を忘れなかった。そうした姿勢が、同社とサブスクサービスへの更なる信頼につながっていったのである。

増税の逆風に遭いながらも、地域で支持される企業へと成長した。時にはつまずきながらも、前を向いて歩み続けた軌跡が、村上社長と従業員の自信となっていった。

最後に村上が掲げたのは、次なるビジョンだった。

「サブスクはあくまで第一歩に過ぎない。これからも地域に寄り添い、新しいサービスを立ち上げていく。そうすれば、地域とともに我々も発展できるはずだ」

増税による試練を乗り越え、村上は新たなスタートラインに立ったのだった。


関口賢太は機動隊の制服を身にまとい、胸が痛んでいた。デモ現場の一隅に佇み、怒りに燃える市民の姿を目の当たりにしている。

「冷酷な独裁政治に物申す!我々の声に耳を傾けろ!」

デモ隊のリーダーが関口めがけてマイクを突きつけた。市民たちの剣幕に終始され、関口は逃げ場を無くしていた。

(な、何をしているんだ、私は…)

つい先程まで、上層部から出動命令を受けていた。増税に反対するデモ隊の活動を制止し、市民を退去させる作業に就くことになったのだ。

しかし実際に現場に赴き、市民の怒りの言葉を浴びせられると、関口の心は摺れた。これほどの怒りを目の当たりにしていると、単なる公務の範疇ではすまされそうにない。

「権力に踏みにじられるな!私たちの願いを聞け!」

さらに激しい罵声が関口を苛んだ。彼は制止の実力行使をしようとするたび、良心の呵責に悩まされた。

(でも、上層部の命令に逆らえば…)

制服に縛られ、公務員たる立場を思えば、命令に従うしかない。だが、民意を無視して単に制止の作業に従事するのは、民主主義の理念からは逸れてしまう。

そんな板挟みの中で、関口はただ無力さと葛藤を噛み締めるばかりだった。市民に向けられた暴力的な空気と、職務上の義務の間で、精神的な板挟みを余儀なくされていた。

言うべきことも言えず、考えるべきことも考えられない。公的な暴力と体制の矛盾に翻弄されながら、ただ憔悴しゆく日々を過ごすしかなかった。

時間の経過と共に、デモ隊の熱気は収まる気配を見せなかった。かえって市民の怒りはエスカレートしていく一方だった。

「権力者どもが市民を踏みにじっている!この不条理な状況をどう思う!」

「冷酷な制度に屈するなよ!我々の声を聞け!」

マイクからは市民の憤った声がこだましていた。関口は制服の汗で湿り、度重なる罵声に耐えなければならなかった。

(ああ、もうたまらない…)

ついに関口は、ある市民の男性に向かってつい制止の実力行使をしてしまった。男性はデモ行進の最中にバリケードを乗り越え、関口らの制止ラインを突破しようとしていた。

「お前ら公務員が民意を踏みにじる資格があるか!」

男性は関口に激しく抵抗したが、やむなく関口は実力行使に出た。男性を制圧し、強制的に退去させたのだ。

すると今度は、他の市民から一斉に非難の声が上がった。

「暴力をふるうな!命を大事にしろ!」

「このような人権無視は過ぎる!おまえら人でなしか!」

人々からは人権を無視した横暴な公権力への怒りが渦巻いた。関口自身、市民を傷つける権利などないと心の中で思っていた。しかし部下としての義務から、命令に従わざるを得なかった。

理不尽な状況の中で翻弄され続け、自らの良心と現実がすれ違ったまま。関口は市民に敬遠され、孤立無援の存在となっていった。

頬に伝う涙を拭う間もなく、関口はただ無力感に打ちひしがれていた。民意を無視する公権力の前線に立たされた哀しみは、深く重かった。


夕暮れ時、ようやくデモ現場の制止活動が終わった。関口は同僚の白鳥、小飼いと共に近くの飲み屋に向かった。

「おつかれさん。今日は本当に過酷な1日だったよな」

白鳥が手を振りながら口火を切った。みんな骨の髄まで疲れが籠もっている様子だった。

「ああ、過酷だったぜ…」

小飼いが大きくため息をついた。酒を求める気持ちでいっぱいだったのだろう。

3人で昼飲み屋に腰を下ろすと、それぞれが今日の出来事について懺悔のように言葉を振り絞った。

「あんな苛立たしい市民に囲まれるとは…罵声が頭から離れないんだ」白鳥が言う。

「そうそう。悪びれる理由なんてなかったのに、俺らが非難される立場になってしまった」小飼いも同調した。

一方の関口は物思わしげな表情を浮かべていた。市民の人々の痛ましい叫び声が頭に去来した。

「…俺らが暴力をふるって良心を踏みにじるような真似は、してはいけなかったよ」

そう呟いて関口はジョッキを一気に空けた。

「まぁ確かに、上層部の命令だからって言い訳にはならんよな」

白鳥もまた酒を求めるように、グラスを籍めた。

「でもさ…民意を無視して制止をしていけば、結局は公務員冥罪につながるだろ?」

小飼いの言葉に、3人してしんと黙り込んでしまった。

民主主義の理念と、職務遂行の板挟みに悩む公務員たち。ただ理不尽な現実を呑まされ、憔悴しゆく日々。この酒を傾けるひとときでしか、解放されることはできなかった。

「もう飲もうぜ…この現実から少しでも逃避できたら」

そう言い残し、みんなはまたジョッキを掲げた。民意と職務の間で翻弄された精神的重荷を、一時的にでも紛らわすため。

これから先も市民とのジレンマは終わらない。それでも3人は今夜そのことを忘れ去り、ただ酒に溺れていくのだった。数日後、デモの現場は一層過激化していった。

「権力に屈するな!我々の願いを飲め!」

怒りに燃えた市民の姿が、機動隊員の前に立ちはだかっていた。

関口らは制止の実力行使に余儀なくされた。しかし市民の抵抗は過激となり、ついには流血の事態に発展してしまった。

「撃て!制圧しろ!」

上層部の命令が飛び、関口は市民を力づくで押さえつけねばならなかった。すると突如、隣の同僚・前田が市民から投げ付けられた石に頭を直撃された。

「うっ…!」

前田は頭から出血し、その場に力なくくずおれた。関口も他の隊員も騒然とする。

「前田、大丈夫か!?しっかりしろ!」

関口は前田の頭から血を流し、冷や汗をかいた。つい先程まで隣にいた同僚の命が、危険にさらされている。

市民の一人が前田に続き、さらに別の隊員に石を投げつけた。その衝撃で、隊員はひっくり返ってしまう。

「ぶっ殺してやる!民意を無視した糞野郎ども!」

市民からは制御しがたい憎悪が渦巻いていた。機動隊員への流血の暴力があまりにもエスカレートしていった。

関口らは非力な市民の手に拘束される緊迫した事態となり、必死に制圧作業に当たった。しかしその最中、さらに別の隊員・山下が大きな石を頭に受け、意識不明の重体となってしまう。

「山下、しっかりしろ!救急車を呼べ!」

関口は叫んだが、現場は完全にコントロールを失っていた。どんどん隊員が被弾し、血まみれになっていく。

かくしてこの日、山下は間もなく血気を失い、殉職の最期を遂げてしまったのだった。理不尽な市民の怒りが一人の命を奪ったのである。

関口は絶望と無力感にくれ、全身から力が抜けていった。民主主義の守護者がこのように傷つけられるなど、あってはならぬことだった。

人々の憎しみに支配された野蛮な現場で、関口は心の底から虚しさを感じずにはいられなかった。


数日後、亡くなった前田の葬儀が執り行われた。関口をはじめとする機動隊員一同が参列し、無念の思いでいっぱいだった。

葬儀場には前田の遺影が飾られ、無残にも命を落とした前田の姿が浮かび上がっていた。周りを見渡せば、妻子を含む前田の家族が涙に暮れていた。

「前田さんは優秀な隊員で、いつも明るく冗談を言って場を明るくしてくれた。そんな彼が突然いなくなり、受け入れがたい思いだ」

白鳥が前田の人となりを振り返った。隣の小飼いも頷いて言った。

「あんな理不尽な、命賭した仕事だったなんて。公務員冥利につながるなんて誰が思ったよ」

関口は目を伏せ、無言のまま葬儀の様子を見つめていた。まるで夢なら覚めてほしいと願うように。

やがて前田の遺族による弔辞が始まった。妻が泣きじゃくりながら前田の人柄を語る。

「あなたは市民のためを思って働いていた。それなのに、あんな非業の最期を…」

妻の悲痛な叫びに、場内から共感の念がこみ上げた。

そして遺族を代表して、前田の父が機動隊員たちに向けて一言を残した。

「皆さんは民主主義の守護者です。しかし制度の矛盾が、我が子を奪ってしまった。この無念さを、どうか無駄にしないでください」

言葉や偏見の暴力が、一人の命を奪ったことに対する問いかけだった。関口は前田の冥福を祈りながらも、この重大な課題を胸に刻み付けた。

弔辞を終え、前田の遺体は火葬場に納められていった。関口たちはひとかたまりの無力感を味わい、ただ虚しい思いでいっぱいだった。

機動隊員として命をかけ、それでいて民意無視と非難される。この矛盾をどう紐解けばいいのか。葬儀の場で、関口はその答えを見いだせずにいた。


関口は虚しさに打ちひしがれながら、墓前に線香を手渡した。周りを見渡せば、かつての同僚たちの墓が幾つも並んでいた。

これほど多くの命が民主主義の理念を守るため に犠牲になった。それなのに、結果は全く伴わず、制度の矛盾のままだった。

「僕らの願いは、結局叶えられなかった。このジレンマに終止符は打てなかった...」

関口はそう呟くと、ひざまずいて涙に暮れた。同僚たちの冥福を祈りながらも、無力感と虚しさでいっぱいだった。

この日を境に、市民運動は完全に沈黙を余儀なくされた。権力にありったけの力で押さえ付けられ、民主主義は形骸化していった。

関口は無力な民意の化身として、この現実を食らわされ続けることになる。同僚たちの無念さを背負い、ただ自らの良心と現実のすれ違いに耐えねばならなかった。

やがて夜が更けると、関口は墓地を後にした。しかし同僚たちの無念さは、重い足取りとなって関口の心に永遠につきまとうことになる。

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