第6話 給料日、介護士の手取りは残念ながら7万円。

給料日の夕方、山田綾子は疲れ果てた足取りで自宅のアパートにたどり着いた。今日もまた、利用者たちの笑顔と感謝の言葉に支えられながら一日を終えたが、その報酬は思いのほか冷酷なものだった。玄関のドアを開けると、子供たちの笑い声が聞こえてきた。そんな無邪気な声が、今は胸に痛い。

「ただいま…」と力なく声をかけると、夫の紘一がソファから立ち上がり、子供たちも駆け寄ってきた。綾子は手に握りしめた給与明細を見つめ、一瞬ため息をつく。いつもなら、子供たちの笑顔に励まされるのに、今日はその笑顔が切なく映る。

「おかえり、どうだった?」と紘一が尋ねる。綾子は明細を紘一に手渡し、その場に立ち尽くした。紘一の表情がみるみる曇っていくのが分かる。

「これが…手取り?」と紘一が呟く。

「うん、7万円だけ。消費税が100%になってから、もう何もかもが倍の値段になって…」綾子は声を震わせた。「この金じゃ何にも買えないよ…」

子供たちもその重苦しい雰囲気に気づき、無言で立ち尽くす。リビングには、家族の心配そうな顔が浮かび上がった。

「お母さん、大丈夫?」と小学三年生の息子が心配そうに聞く。

「大丈夫よ、大丈夫だからね」綾子は子供たちに微笑みかけたが、その笑顔は明らかに無理をしていた。家族全員が、突然襲ってきた不安と悲しみに押しつぶされそうになっていた。

綾子は深く息を吸い込み、何とかこの状況を乗り越えようと心に決めた。だが、その決意が揺らぐのは避けられなかった。どれだけ働いても、この状況が改善する見込みは薄く、先行きは真っ暗だった。

「でも、何か方法を見つけるよ。きっと…」紘一がぽつりとつぶやく。家族の目が彼に集まる中、綾子もその言葉にわずかな希望を見出そうとした。しかし、現実はそれを容赦なく打ち砕くように重くのしかかってきた。

「でも、何か方法を見つけるよ。きっと…」紘一がぽつりとつぶやく。家族の目が彼に集まる中、綾子もその言葉にわずかな希望を見出そうとした。しかし、現実はそれを容赦なく打ち砕くように重くのしかかってきた。

その夜、綾子は眠れぬままベッドに横たわっていた。子供たちの寝息が微かに聞こえる中、彼女は天井を見つめながら、これからの生活を思い描こうとした。しかし、頭に浮かぶのは不安と恐怖ばかりだった。

「どうしよう…本当にどうしたらいいの?」綾子は心の中で叫んだ。

翌朝、綾子はいつものように早起きし、朝食の準備を始めた。薄暗いキッチンで、彼女は冷蔵庫を開け、わずかに残っている食材を見つめた。パンが一枚、牛乳がほんの少し、そして卵が二つ。綾子は深く息を吸い込み、できるだけ明るい気持ちで料理を始めた。

「おはよう、綾子」紘一が寝ぼけた顔でキッチンに入ってきた。「手伝うよ」

「ありがとう、紘一。でも、大丈夫よ」と綾子は微笑んだが、その笑顔もどこかぎこちなかった。

「今日、仕事から帰ったら一緒に対策を考えよう。節約の方法とか、副業とか、何でもいいから」と紘一が言った。

「そうね、何か考えないと…」綾子は頷いたが、心の中では不安が渦巻いていた。

その日の仕事も、綾子にとってはいつも通りの過酷なものであった。利用者たちの世話をしながら、彼女はふと、最近の生活の厳しさを思い出した。消費税が100%になったことで、生活費は倍増し、手取りの給与では家計が成り立たなくなっていた。彼女の心は次第に重くなっていった。

帰宅後、綾子と紘一は子供たちが寝静まった後、リビングで小声で話し合った。テーブルの上には、家計簿と電卓、そして数枚の請求書が散らばっていた。

「食費を削るのは限界があるし、光熱費もどうにもならない。やっぱり副業を考えないと…」と紘一が言った。

「私も、何かできることを探してみる。夜にできる仕事とか…」綾子はそう言ったが、自分の体力が持つかどうかに不安を感じていた。

その時、突然電話が鳴った。綾子は驚きながら電話を取り上げると、画面には「山田病院」の文字が表示されていた。彼女は一瞬ためらったが、意を決して電話に出た。

「もしもし、山田です」

「山田さん、夜分遅くにすみません。実は急にスタッフが足りなくなってしまって、明日夜勤をお願いできないかと思いまして…」

綾子は電話の向こうの声に一瞬言葉を失ったが、すぐに答えた。「はい、大丈夫です。何時に行けばいいでしょうか?」

「ありがとう、山田さん。本当に助かります。明日の夜8時からお願いします」

電話を切った綾子は、紘一に向かって微笑んだ。「夜勤のシフトが入ったわ。少しでも収入が増えるなら、頑張らなきゃ」

紘一は綾子の手を握りしめ、「無理しないでね、綾子。君の健康が一番大事なんだから」と優しく言った


翌日の夜、綾子は暗闇の中を自転車で青山病院へ向かった。夜風が冷たく肌に触れ、彼女の疲れた体をさらに重く感じさせた。到着すると、病院の入り口はひっそりと静まり返っていた。夜勤に入る職員だけがちらほらと見える。

「綾子さん、お疲れさま。今日もよろしくお願いしますね」と同僚の鈴本が声をかけてきた。

「こちらこそ、お願いします」と綾子は微笑み返しながら、更衣室で制服に着替えた。いつもの白いエプロンを身につけ、彼女は仕事モードに切り替えた。

最初の業務は夜の見回りだった。病棟の廊下を静かに歩きながら、患者の様子を確認していく。ベッドに横たわる患者たちの寝顔を見つめると、彼女の心に一瞬の安らぎが訪れた。

「綾子さん、こっちの部屋、点滴の交換お願いできますか?」と別の看護師が呼びかけた。

「はい、すぐに行きます」と綾子は返事をし、指定された病室に向かった。点滴を交換しながら、彼女は患者の手を優しく握りしめた。

「大丈夫ですよ、ゆっくり休んでくださいね」と優しく声をかけると、患者は微かに笑みを浮かべた。こうした瞬間が、綾子にとっての唯一の救いだった。

夜が深まるにつれ、業務はますます忙しくなっていった。急患が運ばれてきたり、夜中に具合が悪くなる患者も多かった。綾子は一息つく暇もなく、病室を駆け巡った。

時計の針が午前3時を指す頃、綾子はようやく少しの休憩を取ることができた。職員用の休憩室で、彼女は熱いお茶を飲みながら、ほんの少しの間目を閉じた。

「綾子さん、少しでも休めた?」鈴本が休憩室に入ってきた。

「うん、ありがとう。でもまだまだこれからね」綾子は疲れた笑顔を見せた。

「本当にいつもお疲れさま。君の頑張りには頭が下がるよ」と鈴本が優しく言った。

「ありがとう。お互い、頑張りましょう」と綾子は力を振り絞って答えた。

休憩が終わると、綾子は再び病棟へと戻った。明け方近くになると、患者たちの動きが少しずつ増えてくる。綾子は朝の見回りをしながら、患者一人一人に挨拶をし、必要なケアを行った。

夜勤が終わる頃、綾子の体は疲労で限界を迎えていた。しかし、家族のため、少しでも収入を増やすために頑張らなければならないという思いが彼女を支えていた。

朝日が昇り始めると、夜勤の業務も終了した。綾子は更衣室で制服を脱ぎ、普段の服に着替えた。疲れた体を引きずるようにして自転車に乗り、家路に着いた。

家に戻ると、子供たちが「お母さん、おかえり」と駆け寄ってきた。綾子はその小さな手を握りしめ、「ただいま」と優しく答えた。家族の笑顔が、彼女にとっての最高の癒しだった。

これからも厳しい日々が続くだろう。しかし、綾子は家族のために頑張り続ける決意を新たにした。夜勤の疲れを抱えながらも、彼女の心にはわずかな希望が灯っていた。


朝日が昇り始めると、夜勤の業務も終了した。綾子は更衣室で制服を脱ぎ、普段の服に着替えた。疲れた体を引きずるようにして自転車に乗り、家路に着いた。

家に戻ると、子供たちが「お母さん、おかえり」と駆け寄ってきた。綾子はその小さな手を握りしめ、「ただいま」と優しく答えた。家族の笑顔が、彼女にとっての最高の癒しだった。しかし、その笑顔も長くは続かなかった。

綾子がリビングに入ると、紘一が深刻な顔をしてテレビの前に座っていた。ニュースキャスターが消費税増税に伴う経済の混乱を報じていたが、それ以上に彼の表情から何か悪い知らせがあることがうかがえた。

「どうしたの、紘一?」と綾子が尋ねると、彼は重い口調で答えた。

「さっき、会社から連絡があったんだ。急にリストラされることになって…」

綾子の心臓が一瞬止まったように感じた。「え…どうして?」

「会社が経営難で、従業員の半分を解雇するって。俺もその一人に選ばれたんだ…」

言葉を失った綾子は、呆然とその場に立ち尽くした。家計が既に限界を迎えている中で、紘一の収入がなくなることは致命的だった。

「どうしよう…私の給料だけじゃ生活できない…」綾子は声を震わせた。

「何とかなるよ、綾子」と紘一は言ったが、その言葉には自信が感じられなかった。

その日、綾子は疲れた体を休める暇もなく、家計簿とにらめっこを続けた。支出を切り詰める方法を探し、副業の情報を集めた。しかし、どれもすぐに効果が出るものではなく、焦りと不安が募るばかりだった。

その夜、綾子はベッドで横になりながら、どうすればこの状況を乗り越えられるのかを考え続けた。目の前には絶望の暗闇が広がっているように感じた。彼女は、家族の未来を守るために戦う決意を新たにしたが、その決意が現実の厳しさに押しつぶされそうだった。

次の日、綾子は早朝から再び病院へ向かった。夜勤明けの体に鞭打ち、昼のシフトもこなさなければならなかった。病院に到着すると、同僚の鈴本が深刻な顔で迎えた。

「綾子さん、ちょっといい?」鈴本が声をかけてきた。

「どうしたの、鈴本さん?」綾子は不安な気持ちを抱きながら尋ねた。

「実は、病院も経営が厳しくて、夜勤のシフトが減らされることになったの。綾子さんも次の夜勤は当分ないかもしれない…」

綾子の心はさらに重く沈んだ。夜勤の収入が頼りだった彼女にとって、これ以上の打撃はなかった。

「分かった…ありがとう、鈴本さん」と綾子は力なく答えた。

その日も忙しい業務をこなしながら、綾子の心は絶望の淵に立たされていた。家庭でも仕事でも追い詰められ、彼女の体と心は限界に近づいていた。しかし、それでも彼女は家族のために立ち止まることはできなかった。暗い未来に立ち向かう決意を胸に、綾子は懸命に働き続けた。

その日の夜、綾子は疲労困憊で家に帰り着いた。家のドアを開けると、暗いリビングに紘一が一人で座っていた。子供たちは既に寝ているようで、家の中は静まり返っていた。


「おかえり、綾子」と紘一が言ったが、その声には明るさがなかった。

「ただいま…」綾子は力なく答え、鞄を置いてソファに座り込んだ。「どうだった、今日?」

「新しい仕事を探そうとハローワークに行ってきたけど、どこも厳しい状況みたいだ。求人はあるけど、応募者が殺到していて…」

「そう…」綾子はため息をついた。「私も、夜勤が減らされるって言われたの。収入がさらに減るわ…」

「そうか…」紘一は深くうなずいた。「でも、諦めるわけにはいかない。何か方法を見つけるしかない」

その夜、綾子と紘一は家計の見直しを行った。無駄を削り、最低限の生活費だけでどうにかやりくりしようとした。しかし、それでも数字は厳しい現実を突きつけた。

「やっぱり、副業を探すしかないか…」紘一がつぶやいた。

「私も、できることを探すわ。ネットでできる仕事とか…」綾子は決意を固めた。

次の日から、綾子は仕事の合間を縫って副業を探し始めた。インターネットでライティングやデータ入力の仕事を見つけて応募したが、競争率が高く、なかなか採用されなかった。

一方、紘一も街中の小さな仕事を探し回った。配送のアルバイトや、日雇いの仕事をいくつか見つけては働いたが、収入は不安定で生活の足しにはならなかった。

ある日、綾子が病院での業務を終えて帰宅すると、家のポストに分厚い封筒が入っていた。開けてみると、それは未払いの光熱費の請求書だった。支払期限が迫っており、早急に対応しなければならなかった。

「またか…」綾子は頭を抱えた。「どうすればいいの…?」

その夜、家族会議を開いた。子供たちにも事情を説明し、無駄遣いをしないようにと頼んだ。子供たちは理解を示したが、その顔には不安が浮かんでいた。

「お母さん、お父さん、僕たちも頑張るから…」長男の健太が言った。

「ありがとう、健太。でも、君たちには無理をさせたくないの」綾子は涙をこらえながら答えた。

その翌日、綾子は決意を胸に病院に向かった。病院では、同僚の鈴本が彼女に声をかけた。

「綾子さん、大丈夫?最近、すごく疲れてるみたいだけど…」

「ありがとう、鈴本さん。でも、どうにかやり過ごさないといけないから…」綾子は無理に笑顔を作った。

その時、病院の廊下を急ぎ足で歩いてくる院長の姿が見えた。院長は綾子に気づき、立ち止まって彼女に話しかけた。

「山本さん、少し話があるんだが、いいかな?」

「はい、院長先生」綾子は不安を抱きながらも、院長の後について行った。

院長室に入ると、院長は深刻な表情で口を開いた。「実は、病院の経営状況がさらに悪化していて、追加のリストラが必要になったんだ。申し訳ないが、君もその対象になってしまった…」

綾子の頭が真っ白になった。「そんな…私、どうすれば…」

「本当に申し訳ない。病院としても苦渋の決断なんだ。退職金はできるだけ早く支払うようにするから…」

院長の言葉は綾子にとって、これまでの努力が全て無駄になるように感じられた。彼女は涙をこらえながら院長室を後にし、どうにか立ち直る方法を考えようとした。

家に帰ると、紘一と子供たちが待っていた。彼らに知らせるべきかどうか迷ったが、隠し通すことはできなかった。

「今日、病院でリストラの通知を受けたの…」綾子は静かに言った。

家族全員が言葉を失った。紘一はしばらく沈黙した後、重い口調で言った。

「最近、政府が解雇規制を緩和したってニュースを見たけど、まさかこんな形で影響を受けるとは思わなかったな…」

「そうね。企業が経営を維持するために、簡単に解雇できるようになった。でも、そのせいで私たちみたいな家庭が直面する現実は厳しすぎるわ…」綾子は悲しげに答えた。

「僕も、同僚が次々と解雇されていくのを見ていたけど、自分がその一人になるとは思わなかった」と紘一が続けた。「どれだけ努力しても、状況が改善しなければ意味がない…」

「でも、諦めるわけにはいかない。子供たちの未来のために、どうにかして乗り越えないと」綾子は決意を新たにした。「家族が一つになれば、きっと乗り越えられるはず」

その晩、家族全員がテーブルを囲んで今後の計画を話し合った。どんなに厳しい状況でも、家族が協力し合い、支え合うことが重要だという結論に至った。

「お母さん、お父さん、僕たちもできることを手伝うよ」と長男の健太が言った。

「そうだね。みんなで力を合わせて、この困難を乗り越えよう」と紘一が力強く言った。

次の日から、綾子と紘一は新しい仕事を探すために奔走し始めた。インターネットでの副業や、地域のアルバイト情報を片っ端からチェックし、少しでも収入を増やす方法を見つけ出した。子供たちも家の手伝いを積極的に行い、家計を支えようと頑張った。

綾子は毎朝早く起き、求人サイトをチェックしながらコーヒーをすするのが日課になった。朝の静けさの中で、彼女は新しい仕事の可能性を探し続けた。病院での経験を活かせる在宅の医療関係の仕事や、データ入力の仕事に応募し続けたが、返事はなかなか来なかった。

一方、紘一は地域のスーパーやコンビニでのバイト、日雇いの仕事などを続けていた。しかし、長時間働いても収入は限られており、生活は厳しいままだった。

ある日、綾子はふとしたきっかけで、地元の介護施設がパートタイムのスタッフを募集していることを知った。求人票には「経験者優遇」と書かれており、綾子はすぐに応募した。

数日後、介護施設から面接の連絡が来た。綾子は緊張しながらも面接に向かい、自分の経験や熱意を伝えた。その結果、無事に採用されることになった。新しい職場は忙しかったが、仲間たちと助け合いながら仕事をこなしていくうちに、少しずつ自信を取り戻していった。

新しい仕事に慣れてきた綾子だったが、家庭の状況は依然として厳しかった。紘一もまた、日々の仕事の疲れからか、表情には疲労が滲んでいた。

「紘一、今日はどうだった?」綾子が夕食の準備をしながら尋ねた。

「今日も色々な仕事を回ったよ。体は疲れるけど、少しでも収入を得るためには仕方ないよな」と紘一は微笑んだが、その笑顔はどこか痛々しかった。

「私も、新しい職場で頑張ってるけど、思ったよりも大変。でも、お互いに頑張ろうね」と綾子は力強く言った。

「そうだな。子供たちも頑張ってくれてるし、家族で力を合わせて乗り越えよう」と紘一は頷いた。

子供たちも、学校から帰るとすぐに宿題を済ませ、家の手伝いをするようになった。健太はゴミ出しを担当し、妹の美咲は食器洗いを手伝った。家族全員が一丸となって生活を支え合っていた。

そんな日々が続く中、綾子は少しずつではあるが、未来への希望を見出し始めた。新しい職場での経験や、家族との絆が彼女に力を与えていた。

ある日の夕方、綾子が帰宅すると、リビングに嬉しい知らせが待っていた。紘一がついに安定した職を見つけたのだ。地域の企業でのフルタイムの仕事であり、収入も今までよりも安定しているという。

「紘一、おめでとう!」綾子は涙を浮かべながら彼を抱きしめた。「本当に良かった…」

「ありがとう、綾子。これからも頑張るよ」と紘一も感動していた。

家族全員が喜びに包まれ、その日の夕食は久しぶりに笑顔が絶えなかった。厳しい日々が続いたが、その中で家族の絆はさらに強くなり、共に困難を乗り越える力を見つけたのだった。

生活はまだ完全に安定したわけではなかったが、希望の光が見え始めていた。綾子は新しい職場での経験を積みながら、将来の目標に向けて努力を続けた。紘一も新しい仕事に全力を注ぎ、家族のために頑張り続けた。

ある日、綾子は子供たちと公園に出かけた。青空の下で遊ぶ子供たちの笑顔を見ながら、彼女は心の中で静かに誓った。「どんな困難が待っていようと、家族のために頑張り続ける。私たちには、共に乗り越える力があるから。」

その言葉を胸に、綾子は未来に向けて一歩一歩進んでいった。解雇規制の緩和や消費税の増税など、厳しい現実に直面しながらも、家族の絆を信じて前に進むことで、彼女たちは新たな希望を見出していくのだった。


官僚の三浦光太郎は汗にまみれながら、激怒した市民の声に耳を疑った。

「子供たちが学校で食べ物を口にできなくなるなんて有り得ない!誰が責任を取るっつう話だ!」

群衆からマイクを突きつけられ、三浦は言葉を失った。周りの視線が剣のように身体を刺す。今にも暴徒と化しかねない空気に怖気づいていた。

これまでデスクワークが中心だった三浦にとって、フィールドでの激しい抗議は未経験の出来事だった。消費税100%導入は確かに困難を伴うが、経済対策の一環として財政健全化は避けられないと繰り返し説明してきた。しかし、いまや群衆の前に立つと、口から出る言葉は全て虚しく感じられた。

この日の朝、家を出る際に妻が心配そうに言った言葉が頭によぎる。

「多くの人が可処分所得の激減で生活に支障が出るわ。騒ぎになりそうだけど、無事でいてね」

街頭で暴徒化する市民らに囲まれ、三浦は己の体験から遠く離れた、重大な改革への懸念を胸に抱いていた。「私たち国民の声に耳を傾けているのか!?」

さらなる罵声が飛び交う中、三浦は冷や汗を垂らした。事態を沈静化させるべく何か言わねばならないが、状況把握さえままならぬ有様だ。

突如、群衆の中から小さな手が挙がり、子供の声が響いた。

「お父さん、家でパンが食べられなくなるって本当ですか?」

その問いに、一瞬場内が静まり返った。

重たい空気の中、三浦は困惑しながらもその子供に向かって答えた。

「確かに商品価格は高くなる。しかし、国民の皆さんの生活を守るため、政府は対策を講じている。価格高騰分を補うための給付金の支給や、生活必需品の一部免税化なども検討中だ」

しかしその言葉に群衆は大声で食ってかかった。

「でまかせじゃねえんだ!それに、対策なんてまだ具体的になってないだろう!」

「価格高騰分を補うって、いくら払えっていうんだ!」

「そもそも増税そのものが間違っている!」

三浦は冷や汗を拭いながら、もはや沈黙を守るしかなかった。今の僅かな説明ですら、かえってデモ隊の火に油を注ぐ結果となってしまったのだ。

さらなる制止の声が響く中、三浦は自らが関与した増税導入の是非を問い直さずにはいられなくなっていた。消費税100%導入から半年が経過した。三浦光太郎は厚労省の一役人にすぎず、法案の策定には直接関与していなかった。しかし、飲食料品を除く全ての商品で価格が倍増する事態は、三浦をも驚かせるものだった。

街頭では増税に反対するデモが熱を帯びていた。三浦はたまたま通りがかり、デモ隊から取り囲まれてしまう。

「お前ら官僚がブラックボックスの中で決めたんだろ!国民の命潰してんじゃねえか!」

老齢の男性から突き付けられたマイクに三浦は冷や汗をかいた。増税の是非を説く前に、この高まる怒りをどう収めるべきかを優先せねばならない。

「申し訳ありません。私自身は法案の立案には関わっておらず…」

するとさらなる罵声が飛んだ。

「関係ねえんだよ!お上の体質が問題なんだ!」

「うちの息子が学校でパンも買えなくなった!子供に罪はないんだぞ!」

妻の子供の姿が頭をよぎる。庶民のこのようなつぶやきに、三浦の心は痛んだ。増税は景気対策の一環とされていたが、実際には困窮層を直撃する深刻な打撃となっていた。

群衆の一人が突如、倒れてしまった。救急隊を呼ぶ声と共に、周りの人々から詳しい状況が語られた。

「あの人は年金生活者で、高血圧をこじらせていた。増税で薬代が払えず、体調を崩したみたいです」

「医療費の負担増は目に見えていたはずなのに、政府の対策は怠りすぎです」

「これからどれだけの高齢者が、命を落とすことになるんでしょう…」

老人の痙攣する姿に、三浦の目から熱い涙が零れ落ちた。机上の数字とはかけ離れた、この凄惨な現実。増税の責任を全うすることができなかった多くの官僚たちへの、痛烈な批判だと感じた。

老人を乗せた救急車が去っても、群衆の怒りは収まる気配がなかった。

「こんな暮らしが続けば、年を取ったら餓死するしかない!」

「働けども働けども、食っていけない。これが日本の現実だ!」

「政府は何を考えているんだ!増税なんかで国民を殺すつもりか!」

デモ隊の叫びは次第にエスカレートし、暴徒化の様相を呈してきた。三浦はすっかり青ざめた顔で言い逃れの言葉を探した。

「申し訳ありません。確かに政府の対策は十分でなかったようです。しかし、財政を立て直さずには国そのものが危うくなります。増税は避けられない選択だったのです」

するとさらなる怒号が飛び交った。

「いくら財政が大事だって、国民の命は守れねえのかよ!」

「そもそも財政赤字の大半は無駄な支出のたまものだろ!」

「お上の都合だけで増税を決めるな!国民の意見を聞け!」

三浦は口をつぐむしかなかった。確かに財政健全化は重要だったが、その過程で国民の生活を直撃してしまったことは重大な過ちだった。

ある老婦人が三浦に近づき、嗚咽を漏らした。

「私の夫はこの増税で薬が買えず、亡くなってしまいました。でも、政府は一向に対策をとってくれません。これ以上、同じ目に遭う人を出したくありません」

老婦人の眼からは、困窮に喘ぐ国民の切実な想いが滲み出ていた。三浦は今更ながら、机上の理論と現場での実態にあまりにもかけ離れがあったことを痛感させられた。

この日を境に、三浦は増税の成り行きに対し、自らの無力さを強く自覚するようになった。暴徒化する市民の声に耳を傾け、何か建設的な対話を起こせないものかと、日々を過ごすようになっていった。


幾月月が過ぎても、増税をめぐる混乱は一向に収束する気配を見せなかった。

街頭でのデモはいつしか常態化し、労働者や学生、主婦らが広く参加するようになっていった。三浦が出勤する度に、役所前で怒号が飛び交うのが日常風景となった。

時折頭を垂れるしかない出来事もあった。高齢の難民がテントで行う簡素な調理の際、隣接する路上で徘徊していた老人が食べ残しのパン屑を拾って口にしている悲惨な光景に出くわしたこともあった。

三浦は夜々、仕事場で遅くまで机に向かい、改善策を検討するのが日課となっていた。支払い能力に応じた減免制度の導入や、ボーダーレス化する物流の課税など、アイデアはひとつひとつ潰されていった。

やがて三浦の髪は白くなり、険しい表情に憔悴しはじめていった。当初は机上の理論に過ぎなかった増税が、どれほど国民生活を蝕んでいるのかを、目の当たりにしている毎日だった。

こうした混乱は三浦の退職を待たずして続いていった。新型の官僚が配置され、さらなる改革案が提出されるごとに、街路は新たな脅威に包まれていった。

国は回復の兆しを見せぬまま、時代は重たく流れ続けていく。三浦が最後に目にしたのは、親子連れで道端に座り込んだ母子の姿だった。やつれた母親が子に向かって呟いていた。

「もうしばらくの辛抱よ、ごめんね…」

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