第30話 勇気


 魔法世紀99年。魔女イブが魔神イブリースとなって地獄から復活し、世界中で災いと争いが起きた。


 しかしイブリースは当時十四歳のマリア・フルルドリスによって倒されることになる。


 静かな凪の海の浜辺でイブは満点の星空を見上げていた。現世で活動するための人形の器はマリアとの戦いでボロボロになり、もう動けない。


 白いベールを被り、三つ編みのおさげを一房首横から垂らした少女が哀れな魔女の顔を覗き込んでくる。

 信じられないことに少女は魔女を優しく抱きしめて、その最期を看取った。


 再び死んだイブの魂はあてもなく彷徨う。人間を滅ぼしてやりたい怒りと憎しみはマリアに抱きしめられたせいで薄れてしまい、自分が何をしたいのかわからなくなっていた。


 イブは自分の願いが本当に間違っていたのか、答えが欲しくて、『人類が魔法を獲得しなかった並行世界』に猫の姿で転生した。

 

 魔法のない世界でも、変わらず人間は愚かで、絶え間なく争いは続いていた。イブは安堵し、同時に呆れた。やっぱり人間は滅ぶべきだ。


 魔法の無い異世界の中でも、平和な部類の『日本』という地域で復活のための魔力を溜めている時のこと。


 信号待ちしていたイブの隣にくせ毛の少女が立ち止まった。子供は学校に行っているはずの時間帯に彷徨いている個体をイブは憐れんだ。


 猫の脳はお粗末なもので、信号無視のトラックに気が付かず、イブは横断歩道を渡り始めた。それに気がついた少女は咄嗟にイブを助けると無惨に散らばって死んだ。


 ただの畜生を助けるために死ぬ意味が、磨耗した精神では理解できなくて、もう動かない少女だったもののを猫は精一杯舐めた。


 巫術に長けるイブは血を通して少女の記憶を見た。

 気が弱くて、いじめられて、人間が怖くなって不登校になった虚弱で無価値な生き物。少女はこの世界にいてもいなくても変わらない、何も為すことのない、無意味な個体だった。


 納得できなかった。許せなかった。見ず知らずの猫を助けるために、命を差し出せる勇気を持つこの少女が、ただ不幸なまま死んだことが、イブには我慢できなかった。


 イブは自分が復活するための魔力を使って、少女を魔法のある世界に転生させることにした。もう、人間を滅ぼすことなどどうでもいいほどに、少女の行動がイブに鮮烈な衝撃を与えていた。


 イブは新しい少女の肉体を創り出して、マリア・フルルドリスに預けた。その際、世界を滅ぼさないこと、人間のために力を貸すことを契約した。


 これが、アンナの知らなかったイブの記憶だ。

 彼女の記憶を追体験したアンナは暗闇の中で放心していた。そこにイブの意識体が現れる。


「アンナちゃん、わかってくれた? 私はアンナちゃんにこの世界で幸せに生きて欲しいの。だから、戦って傷ついたり、怖い思いをして欲しくない」


 それは、人間に裏切られ、願いを踏み躙られた魔神が抱いた、純粋な愛だった。母が我が子に抱く当然で奇跡のような感情だ。


「だからもう戦わないでいい。このまま眠っていればいい。あなたは災いを過ぎ越せるのだから」


 母に慰められて、もう怖い思いをしなくていいんだとアンナは安心した。

 そして、心に引っ掛かる異物感に気がついてしまった。


 外から、友人たちが必死に戦う声が聞こえてくる。命懸けで、友人と学舎を守るために戦っている。


 アンナは気がついた。この異物感の正体は『勇気』だった。


 反射的に自分の命を投げ捨てて猫を助ける魂を待つ少女が、誰かに死が迫るこの状況から逃げるなんてできるはずがなかった。


 魂の奥底、勇気の炎が再燃する。

 恐怖というしがらみが解けていく。


「だめ、行かないで」


 イブが手を掴んで制止する。その目は愛故に冷たく重い。アンナはイブと向き合って、手を握り返した。


「イブ、わたしと契約して。みんなを助けるための、ヨシュア先生を止めるための力が欲しい」


 力強い意志に、イブの魂が震える。静かで優しい魂の奥底に燃え盛る勇気の炎にイブの魂は惹かれたことを思い出した。


「アンナちゃんから、何も奪いたくない」


「わたしの全部はイブがくれたものだから、返すだけだよ」


 アンナの肉体は全てイブの魔力で創られたものだ。その一部を返還すれば、イブの魔力は強まり、結果的にそれを使役するアンナも強くなる。


 このまま万全ではない状態で戦いに戻られたらそれこそ危険だ。仕方なくイブは折れた。


「わかったよ、契約しよう。もう、アンナちゃん、強引なんだから」


 ぷくぷく頬を膨らませて怒りつつもすぐにイブの表情は曇る。


「女性の肉体で最も強い魔力を持ち、最も価値のある代償は子宮なの。ヨシュア・リベロードよりも強くなるにはその代償が必要」


 聞いても、アンナが怯むことはない。


「いいよ、あげる」


「アンナちゃんはお母さんになれないんだよ?」


 人間の普遍的な幸福の一つとして子供を産み、育てるというものがある。アンナはその幸福の選択肢を失うことになる。


「魔法学校の子供たちの未来を守るためなら、それでも構わない」


 覚悟と決意で満たされた戦う者の眼差し。その視点は十六歳の少女のものではない。アンナは前世と合わせて二回目の十六歳を迎えている。子供であると同時に、その精神は成熟していた。

 アンナは自分の進路を『戦う者』に定めたのだ。奇しくもそれはかつて世界を救った聖女イブと同じ道だった。


 覚悟を聞き届けたイブはアンナの腹部に優しく触れる。


「承諾しました。あなたの願いを叶えます」


 イブの声が夢の世界に反響し、アンナの視界は光に包まれて真っ白になる。気がつくと現実で覚醒していた。


 アンナはドラゴン寮の医務室のベッドに寝かされているようで、周囲では怪我をしたり、ショックで動けなくなった生徒たちが休んでいた。


 医務室ではアリスを筆頭に医療魔法に長けた生徒たちが忙しなく動き回っている。アンナが目覚めたことに気がついたアリスが駆け寄って来た。


「よかった、アンナちゃん───」


 アリスはアンナを見たまま呆然と立ち尽くしてしまった。すぐにはっと我に帰ったかと思えば、涙を流し始めた。


 アリスはアンナの心を読んでしまったのだ。

 アンナには前世の記憶があることは最初の読心で知っていた。イブが聖女イブであり魔神イブリースであることもマリアから聞いて知っていた。

 アリスが泣いたのは、アンナが大きな代償を払ったことを知ったからだ。


「ごめんなさいアンナちゃん。私がプレッシャーを与えたせいです。そのせいでアンナちゃんは───」


 アンナはアリスを抱き寄せた。


「アリスちゃんのせいじゃないよ。アリスちゃんはいつもその時の正解を当てられる。今回も正解だった。おかげで私は自分の中にある答えを思い出せた。だから、ありがとう」


 本心からの感謝に、アリスは自分を責めることをやめた。


「あ、あとね、アリスちゃん」


 どこか達観していたアンナの雰囲気が普段通りに戻る。


「私の前世のこと知っちゃったんだよね。は、恥ずかしいな」


 暗い前世の記憶。拭えない過去。死んだからといって、記憶がある以上、アンナは一生前世に付き纏われる。


 弱った顔をするアンナを見て、アリスはいつものようにサディスティックな表情を取り戻して笑った。


「それなら最初に会った時の読心で知っていました。それでアンナちゃんが優しくて勇気がある強い子だと知ったから友達になったんです」


 アリスはアンナの過去を笑わない。彼女の笑顔は友達の勇気への賛美だ。アリスはアンナの前世を肯定してくれた。


「それと前世のことは誰にもお話ししませんのでご安心ください。私はアンナちゃんの味方ですから」


 味方という言葉にアンナの前世が報われた気がした。あの人生を肯定してくれる人が二人もいることが、嬉しくてこそばゆかった。


「さあ、目が覚めたのでしたら戦いに行ってください。先程、第二波を退けましたが、次の第三波が間も無く来そうです」


「了解」


 立ち上がり、戦闘のために式札や呪符の確認を行う。アンナは自分の魔法が強くなっていることに気がついた。子宮の機能を失ったため、アンナの本人の魔力量は大きく減少したが、元から少なかったためデメリットではない。アンナの中のイブの魔力が激増していることが肝心だ。アンナはイブの魔力を代わりに使うことができるからだ。


「蝗の魔物をそれなりにやっつけたら、そのままヨシュア先生を止めに行くよ」


「任せましたよ、アンナちゃん」


「任せて」


 ドラゴン寮の外に出る。上空には未だに蠢き群れる蝗の大群。今一斉にドラゴン寮に向かって落下を始めた。


「いくよ、イブ」


 巫女アンナは掌を合わせ、祈るように目を瞑る。


「憑依、伊吹大明神」


 少女の身体を黒い魔力が纏う。開かれる瞳の色は赤。その手に神器『草薙剣』を憑依した日本刀が出現する。


 鍔から切先に向かって刀身を素早く撫でる。


「灯れ、草薙剣」


 刀身を赤炎が纏い、ゆらゆらと燃え上がる。巫女は火剣を空に向かって振り、炎を放った。炎は空中に巨大な灼熱の壁を作り出し、魔物の大群の侵攻を阻みながら同時に焼き尽くした。


 復帰したアンナの元にユニコーン寮の面々が駆けつける。いの一番にルーナが突っかかって来た。

 

「漸く復活しやがった。サボってた分、しっかりやってもらうかんね〜」


 アンナにはルーナ流の気遣いだとわかった。それが嬉しくて、少しだけ泣いてしまった。ルーナが慌てて心配する。


「あ、あれ、大丈夫? ごめんて、ルーナが土下座するから、泣かないでよ、ね?」


 その慌てぶりにアンナは小さく吹き出してしまう。


「うん。ルーナちゃん、この前は守ってくれてありがとう。みんな、心配かけてごめんなさい。もう大丈夫」


「も〜、心配して損したんですけど」


 呆れたふりをしつつ、ルーナは安心していた。

 そんなルーナを押し退けてエミリアがアンナの前に来た。


「アンナさん、ヨシュア先生をお願いしますわ。あの根暗メガネのお眼鏡でしたら一つ二つ割ってしまって構いませんので、少し懲らしめてやってくださいませ」


「了解しました、エミリア先輩」

 

 みんなと別れ、アンナは中央の礼拝堂へと向かう。その途中、目印として常に見ていた鐘塔の鐘が動いた。


───カーン、───カーン


 九度、鐘が鳴った。

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