Dear agony (2)

 男はいつもそこにいた。ぼんやりと、ただ何をするでもなく。ただ、自分の最期の場所を眺めていた。


 高校を卒業して、地元の工場に就職した。

 結婚して、子どもが産まれた。工場の給料ではやっていけないと、慣れない営業の仕事に転職した。遅い結婚だったから、転職が決まった時にはいい年になっていた。

 年下上司の厭味にも大卒社員の冷笑にも耐え、休みもなく、早朝から深夜まで、ただ我武者羅に働いて、何とか二人の娘を育て上げた。

 ひたすらに、愛する家族のために働いてきたつもりだった。娘の学校行事に顔を出せないのも、旅行に連れて行ってやれないのも、女房に気の利いた贈り物をしてやれないのも、家族を支えるためには仕方がなかった。

 定年を迎えた後も、彼は会社の頼みで延長雇用を引き受けた。だが、六十四のときに体を壊し、急遽会社を去ることになった。

 食べていけるだけの貯蓄はあったし、多いとは言えないが退職金も出た。娘たちは既に独立し、夫婦水入らずの余生が始まるはずだった。女房を温泉にでも連れて行ってやろう、何か美味いものでも食いに行こう、いや、いずれ孫も出来るだろうから、あまり無駄遣いはいけないな……病床でそんな考えを巡らせていた。

 退院してしばらくすると、同僚たちがささやかな送別会を開いてくれた。病み上がりということもあって、久々に呑んだ酒が回った。

 千鳥足で帰った家は真っ暗だった。「ただいま」の声に返事は無かった。

 

 ただ、畳の上に、緑色の書類が打ち捨てられていた。


 不思議と、恨む気持ちにはなれなかった。

 ただただ、骨の髄から実感しただけだった。

 自分の人生には、何の意味もなかったのだ、と。

 

 それから、毎日のように酒を呑んだ。生まれて初めてのヤケ酒だった。

 日暮れごろに起きてはまた酒を飲む。そんな生活をしたのも初めてだった。 


 ある日、彼は珍しく早朝に目を覚ました。

 そして気が付くと、陸橋に立っていた。

 多分、出勤でもする勢いで逝きたかったのだろう。

 朝焼けが美しかったのを覚えている。


 だから、彼は日の出の時間だけその場を離れるのだった。

 その光は、あまりにも生々しく自分の最期を思い起こさせるから。

 本当にこれで良かったのだろうかなどと、くだらない自問をしてしまうから。

 本当は恨んでいるのだと、認めたくないから……


 ある時から、陸橋に若い女が来るようになった。年の頃は二十代後半だろうか。上の娘と同じくらいだった。日が沈んでしばらくすると決まって現れる。彼女は欄干から身を乗り出しては、しばらく何か逡巡して去っていった。男はいつも胸騒ぎを覚えながら見ていたが、彼女が身を起こして去っていくたびに、ほっと胸を撫で下ろすのだった。

 ところが、その日は様子が違っていた。彼女はいつもより深く身を乗り出し、いつもより長い間道路を見つめていた。男は焦った。だが、彼はすでに彷徨うだけの存在になっていたから、どうすることも出来なかった。ただただ、決して届かぬ「やめなさい」を投げかけるだけだった。

 しばらくして、女は突然笑い声を上げた。そして、もぞもぞと身を起こし始める。男は安堵して、その様子を見守っていた。自分の声が届いたような気がして、どこか嬉しかった。

 だが、すぐに男は気付いた。七体の黒い影が列をなし、女に近づいていく。男は直感した。あれは自分と同じ部類のものだ。だが、もっともっと邪悪なものだ。

 未だ体勢を立て直すのに苦戦している女の背後で、影が止まる。先頭の一体が、ゆっくりと腕を上げる。

「やめろ!」

 男が力の限り叫んだ瞬間、女はよろめいて落下した。強烈なクラクションとハレーションの中、彼女の体は四散した。


 それからしばらくして、女は陸橋の周辺を彷徨うようになった。ときおり、彼女は繁華街の方へ行ったり、恨みがましい目で道行く人々を睨んだりしていたが、その度に首を振って姿を消すのだった。恐らく、彼女に死を考えさせた憎い相手がいるのだろう。男は自分に似たものを彼女に感じ取っていた。


 人のことを恨めない、上手く恨み切ることのできない、優しい半端者。


 そしてある日、奴らが再びやってきた。七人だった影は六人に減っていた。彼らが何やら女に話すと、彼女は頷いて最後尾に並んだ。

 男は彼女についていくことを決めた。

 そうしなければならないような気がしていた。


   ※


 あれから、ずっとこの子を見守ってきた。


 一人、また一人……恨みを晴らしたり、無関係な人間をやり場のない呪詛の犠牲にしたりして、順繰りに列を抜けていく。そしてそのたび、新しい者が入ってくる。やがて女の番が巡ってきた。しかし、彼女にはどうしても出来なかった。彼女はどうしようもなく臆病で、どうしようもなく優しかった。無関係な一般人はおろか、憎くて仕方がないはずのあの社長さえ、ついに殺めることができなかった。後続の六人は怒りを通り越して、最近は呆れ果てている様子だった。もはや姿を見せないところを見ると、先ほどの襲撃を機に彼女を見限ったのだろう。


 そんな彼女が、人を恨むこともロクに出来なかった優しい子が、目の前で獣と化している。


 もう、たくさんだ。


   ※


 篠田は男の顔を見て少しの間考えていたが、ふと思い出した。

――ああ、この人、僕がミサキさんから詰められていたときに……

 なかなか立ち上がろうとしない少年に痺れを切らし、男が叫ぶ。

「早くしてくれ。私の力では到底抑えられない」

「でも良いの? おじさん、ずっとミサキさんを見守ってきたんでしょ?」

 男は驚いた顔で篠田を見たが、すぐに頭を振った。

「大丈夫。この子はもう、一人でも大丈夫だよ。いや、というより……」

 男はヨルとワッチ、そしてクズハのことを順に見た。

「この子はもう、一人じゃない」

 篠田は頷いて立ち上がると、ミサキに歩み寄る。呪詛や穢れを人から人へ移す呪法はある。だが、もちろん篠田に実践経験は無かったし、まして幽霊から幽霊に呪詛を移すなど前代未聞のことなのだ。

――だけど、やるしかないよな……

 男の肩に右手を、ミサキの肩に左手を当てがうと、篠田は呪を唱え始めた。

 ミサキの体から少しずつ瘴気が滲出し、男の体へと吸いよせられていく。ミサキの口から発せられる唸り声が少しずつ弱まっていく。それに従って、男が呻吟し始める。その呻きは次第に苦痛の色を増し、相貌が歪み始める。

――頼む。もってくれよ、オジサン……

 男は目を見開き、喉の奥から漏れ出る獣の唸りを噛み潰すように歯を食いしばる。篠田も脂汗を滲ませ、必死に呪を唱える。そして……

 術式は完了した。

 崩れ落ちるミサキの体を、傍に控えていたワッチが抱きかかえる。

 だが、篠田にはやることが残っていた。全身をブルブルと震わせ、低い唸りを上げる男に対峙し、懐から形代を取り出す。少年の手は微かに震えていた。

「……何を……してるんだ。……分かって……だろう? 早く……」

 男が声を振り絞る。

 そう、分かっている。普通の撫で物が通用しないと分かっている以上、もう男から犬神の呪詛を取り去ることは出来ない。

 だから、決着をつけるには、そうするしかないのだ。

 撫で物に使った形代は、水に流すか火にくべなければならない。

 彼もそれを分かっていて、自らそうなることを買って出たのだ。


 でも……


「早く……」

 俯いて躊躇っていた篠田はハッと顔を上げる。男の声は極めて弱弱しくなり、代わりに喉の奥から出る低い唸りと犬の臭いが強くなりつつあった。

「頼む……早くしてくれ。私は情けない人間だ。でもね、私はそんな私のまま消えたいんだよ」

 篠田は唇を噛むと、男に向かって頷いた。呪を形代に吹き込み、今度こそ躊躇なく男へと飛ばす。瞬間、閃光が保健室を包んだ。


 男は光の中、笑みを浮かべていた。


 やっと……


 これで、私の人生はようやく意味を得る……

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