Freewheel Burning (1)
小池さんのラーメンは今日も絶品だ。平は最近気づいたのだが、どうやら鶏ガラの他に煮干しが使われているらしい。主張は極めて控えめだが、ふとした瞬間に鼻腔を掠めるほんの微かな魚臭さ。それこそが、このラーメンの持つ中毒性の秘密なのだ。
平は豪快にスープを飲み干すと、満ち満ちた顔で溜息を漏らした。「ごちそうさまでした」と丼に向かって小さな声で呟くと、食堂の様子を窺う。昼休みは終わりかけ、生徒はまばらだ。平は軽くなった丼を持つと、カウンターへ向かった。
「小池さん、ごちそうさまでした。今日も美味かったっす」
小池さんはバットに残った食材の整理をしていたが、平の顔を見るとフフンと鼻を鳴らして得意げな顔をみせた。
「して、小池さん。ちょっと提案があるのですが」
平は丼をカウンターに置きながら、身を乗り出した。
「何だい。あたしゃ忙しいんだよ」
「僕に皿洗いをさせてくれませんか?」
唐突な提案に、小池さんは動きを止めた。
「アン? 皿洗い? いったいどういう風の吹き回しだい」
平はニコニコ顔で小池さんの顔を見つめる。
「いやいや、他意はありません。初めてここへ来たとき、大変失礼なことを申し上げたお詫びをしたいのです。それに、こぉんなに美味しいラーメンを作ってくださる小池さんにお返しがしたい。労いの気持ちを何とかして示したいのですよ」
イカガわしい笑顔の平を小池さんは怪訝な表情で見ていたが、やがてまたフンと鼻を鳴らした。
「まったく。どういう魂胆か知らねェが、手伝ってくれるのなら拒みやしないよ。あたしゃ台所には男を入れたくないなんてタチじゃないからね。それに、あたしゃラーメンを作るのが好きなのであって、洗い物は億劫で仕方ないんだ。やるんなら勝手にしな」
平は心の中でガッツポーズをすると、スルリと厨房の中へ入った。二つ並んだシンクには洗い物が山のごとく積み上げられている。恐らく今日の全食分だ。なるほど、本当に洗い物が嫌いなのだろう。平は思わず顔を引き攣らせた。
「へ、怖気づいたかい。果たしてあんたにその量が洗いきれるかな」
「フ……フフ、あまり僕のことを見くびらないでくださいよ、小池さん」
平は不敵な笑みを浮かべ、スポンジに洗剤を含ませた。
バンドマン時代、居酒屋の洗い場でバイトをしていた平にとって、この程度の洗い物など屁でもない。彼は恐るべき勢いで食器を洗い上げていく。あっというまにシンクは空になり、洗い上がった皿が積み上がった。ドヤ顔で小池さんを見た平に、寸胴鍋が飛んでくる。「ひぇ」と頓狂な悲鳴を上げながら間一髪で鍋を受け取った平は、小池さんに一つウィンクをかまして寸胴鍋も洗い上げた。
「ふーん、やるじゃねえか」
小池さんはどこか悔しそうな顔で言った。洗い上げた食器を拭き始めた平の横に並んで、いかにも面倒臭そうにダスターを手にする。
「で? どういう魂胆なんだい?」
「あはは、適いませんね、小池さんには」
平は拭いていた丼鉢を置くと、周囲をひとつ見回してから小池さんにそっと耳打ちした。途端、小池さんの眉が吊り上がる。
「フン!あんた、そりゃいくら何でも見くびりすぎだね。教頭やクズハちゃんにヨイショされて勘違いしてるのか知らないが、所詮あんたはニンゲン、あたしたちゃ妖怪なんだよ。そんなこと、たったの一度皿洗いしたくらいで教えてもらえると思っているのかい?」
小池さんは怒りを通り越し、軽蔑の目を平に向けていた。だが、平は相変わらずニコニコしていた。
「そうですか。すみません、小池さんは校内一の情報通と伺ったものですから。そりゃそうですよね。たった一度皿を洗ったくらいでねぇ、そりゃあねぇ……」
平は言いながら、鰹の枯本節を懐から取り出した。瞬間、小池さんの目がギラリと輝き、瞳孔が縦長に縮まる。
「フフフ……分かってるじゃあねぇか。チュルチュルなんて出した日にゃ八つ裂きにしてやるところだったが」
小池さんは平の手から鰹節を奪い取り、「ついてきな」と踵を返した。
※
平は再び屋上へ続く階段を上っていた。
アルファベットのテストは惨憺たる出来だった。ほとんどの生徒が奇怪な線描を豪快に四線からはみ出させていた。当然である。平とて芳しい結果が出るとは微塵も思っていなかった。むしろ、教師不在にも関わらずカンニングをしていないだけ優秀なくらいだ。返却されたテストを見てしょげ返っている生徒たちに、平は優しい口調で言った。
「どうだい?不思議だろう。みんな発音はバッチリ出来たのに、いざ書こうとすると書けない。これは別に君たちが特別にダメってわけじゃない。やったことがないことは出来ない、誰だって当たり前のことさ。発音だって、みんな最初から出来たわけじゃないだろう。君たちが何度も口に出して、自分のモノにしたから言えるようになったんだ。書くことだって同じだよ。自分で書いたことのないものは書けない。書いて書いて、自分のモノにしていかないといけないんだ」
というわけで、書き方の授業を実施し、宿題で練習をさせてきて、本日は再テストを受けさせていた。ほとんど思い付きで行動してしまった前回の反省を活かし、今回は万全を期した。ガタロウとムージーには追ってこないよう言い含め、教頭に事情を話してテスト監督を頼んでいた。
平の姿を見るなり、ワッチは憤怒の表情で立ち上がった。
「なんだァ、先公。またボコされに来たのか?」
早速拳を振り上げ、あからさまに威嚇をしてくる。平は彼に掌を向けると、冷静な口調で言った。
「ちょっと待ってくれ。この前のことは謝る。決して君たちのことを馬鹿にするつもりはなかったんだ。だが、誤解させてしまったのなら申し訳ない。僕はただ、君たちと話し合いがしたいんだよ」
思いがけない謝罪にワッチは少し戸惑った様子を見せた。が、彼の頭には平を目にした瞬間に相当量の血が昇っているようだった。
「テ、テメエと話し合うことなんか無ェ! とっとと失せやがれ!」
やはり無理か、と平は肩をすくめた。出来れば穏便に話し合いがしたかったが、少なくとも今のワッチとまともに話をするのは無理だった。そして、彼がいる限り、ヨルと話をすることもままならない。ワッチが凄むのにも構わず、平は大股に歩みを進めた。
「おい!聞いてんのかコラ! こっちに来るなって言ってんだよ」
平の足は止まらない。
「へえ、そんなにボコられたいのか。それなら望みどおりに……」
巨大な拳が、再び平の顔面を目掛けて振り下ろされた。と……次の瞬間、巨体は突然バランスを崩してよろめき、ふにゃふにゃと膝から崩れ落ちた。
「テ、テメエ……何でそんな……」
ワッチの見上げる先で、平が一枚の札を掲げていた。
※
厨房の奥には、裸電球に照らされた薄暗い部屋があった。普通に考えれば小池さんの休憩室なのだろうが、怪しげな書物や何だかよく分からない道具がひしめく室内は、さながら秘密の隠し部屋といった雰囲気を醸し出していた。小池さんは引き出しの一つを開けると、紙を一枚取り出して、平に差し出した。それはいわゆる呪符のようなもので、『此処勝母之里也』と書かれてある。首を傾げてその字を見つめる平に、小池さんが説明する。
「ワッチは、あんたらニンゲンがいうところの輪入道ってやつさ。悪趣味なことに、輪入道ってのは子攫いが大好きでね、ちょっと親が油断すると子どもを掻っ攫っちまう。ただ、どういう理屈か知らねぇし、それがどういう意味かも分からないが、奴ァその字面を見るとどうにも腑抜けて何も出来なくなっちまうらしい。だから昔のニンゲンは軒先にそういうもんを貼ってたそうだよ」
平は小池さんの蘊蓄に感心していたが、同時に不安にもなった。彼は飽くまでも話し合いの障壁になっているワッチの短気を何とかしたいだけなのだが、これではワッチに対して危害を加えることになるのではないか。それでは話し合いどころか、彼の心が余計に離れてしまう。そんな平の心情を察したのか、小池さんは幾分か穏やかな口調になって続けた。
「まあ、飽くまでそいつァあくまで奴を倒すためのものではないからね。無抵抗にしたあとでどう説得を進めるかは、あんた次第だよ。ああ、あと、分かっていると思うが、ヨルの方にはそんなもの効かないからね。奴はあんた如きの手に負える相手じゃないんだ」
平は頷くと、札を懐にしまった。
※
呻き声を上げて蹲るワッチに、平はかがみこんで目線を合わせた。
「手荒な真似をして済まない。だが、こうでもしないと君は話を聞いてくれないだろう。頼む。僕の話を聞いてくれないか」
ワッチは何も答えなかった。ただ肩を上下させ、ゼエゼエと荒い息をしている。平はその様子にいささか不安を覚えたが、今は小池さんの言を信じるしかなかった。そして、慎重に言葉を選んで説得を始めようとしたとき、ヨルが横から口を挟んだ。
「あーあー、やっちまったな」
冷笑混じりの声に、平はハッとヨルの顔を見た。蔑みと憐憫の混じった、何ともいえない表情だった。
「や、やっちまったって、いったい何のこと……」
言い終わらぬうちに、地面が鳴動を始める。しばらくすると、蹲ったままのワッチに異変が起きた。
「テメエ……センコウノ……センコウノ、クセニイィ……」
それは実にグロテスクな光景だった。隆々とした肩の筋肉が、グネグネと波打ちながらさらに肥大化していく。大男の耳朶に揺れる車輪のイヤリングがみるみる巨大化していく。一双の車輪はゆっくりと回転し、未だ隆起を続ける両の肩へめり込んでいく。ググゥ……という苦悶の声を音頭に、皮と肉と骨と車輪が一体化していく。車軸がみるみるうちに胸、腰、足と全身の肉を巻き込んでいく。
目を覆うほどのグロテスクな光景の末、ワッチは自身の背丈ほどもある巨大な車輪へと変貌した。
車軸と一体化したワッチの顔が咆哮する。それは先ほどまでの憤怒に燃えた叫びではなく、どこか狂気じみた歓喜の雄叫びに感じられた。輪入道となった彼の目はギラギラと燃え上がり、唇はヌラヌラといやらしく光っている。平はワッチの拳が飛んできたときとは全く別種の、皮下に毛虫の這うような恐怖を覚えた。
長い長い咆哮が途切れると同時に車輪は猛烈な初速で回転を始め、輪入道となったワッチは屋上の柵を突き破って飛び出していった。
平はしばらく屋上の床に深々と刻み込まれた轍を呆けたように見つめていたが、ハッと我に返った。
「お、おい、ヨル。ワッチはいったい何処へ行くつもりなんだ?」
平の質問に、ヨルは呆れた顔で答えた。
「決まってんだろ。外だよ」
「外?外って、まさか境の外か?」
「そうだよ。他にどの外があるんだよ。つーか、マジで知らねーぞ。奴が外に出たら、ただじゃ済まないからな」
「た、ただじゃ済まないって……?」
「そうだなァ。カアイソウなガキどもがわんさか行方不明リストに載っちまうんだろうなァ」
「そ、そんな。大変だァッ!」
平は慌てて駆け出した。
ヨルは屋上から走り去る平の背中を白けた顔で眺めていたが、ふと地面に落ちている紙切れに気が付いた。先ほど平がワッチに突き付けた『此処勝母之里』の呪符。アホだな……そう呟いたあと、ヨルは自らの額に呪符を貼り付け、高笑いを上げた。
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