第1章 根拠のない期待

第1話

昔の母は明るくて優しい人だった。

そしてとても美しい人だった。

その美しさは全く遺伝せず、私は平々凡々な容姿をしているけれど。


父親については何も知らなかった。

母は断固として口にしようとしなかったし、私もそれほど気になったわけではなかったからだ。

それに私達の暮らしていた街は場所は貧民街で、片親のいない子は当たり前だった。

母が初めて隣町に連れて行ってくれた時に、賑やかな街を見て多くの子に両親がいるものだと知った。


母は料理屋で働いていたが、給料はとても安かった。

だからまともな家に住めず、毎日の食事にも困るような生活をしていた。


けれど母は毎日必ず、私に食べるものを持って帰ってきた。


その持ち前の明るさと優れた容姿を存分に発揮して、値段をまけてもらったり、只で食材を貰ったりしていたらしい。

よく、母と1つのパンを分け合ったものだ。

最初は私だけにパンを食べさせようとするものだから、慌てて半分に割って母に渡すと


「アグネスは本当にいい子ね。きっと誰よりも優しい素敵な女性になるわ」


と言って、眩しい太陽のような笑顔で頭を撫でてくれた。

寂れた街で母娘だけで生活していくのは決して楽ではなかったが、それでも私は間違いなく幸せだった。


けれどそんな日常は長くは続かなかった。


私の7歳の誕生日、それが不幸の始まりだった。

母は毎年私の誕生日には、なんとか給料を貯めて、国で3つ目に栄えた隣町でプレゼントを買って渡してくれていた。


私は例年と同じように、わくわくしながら家で母の帰りを待っていた。

毎年必ず日が暮れる前に帰ってくるのに、その年は日が落ちて窓の外が暗くなっても帰ってこなかった。


夜が更けて睡魔に襲われ始めたとき、家にひとつだけの扉が静かに開いた。

覚束ない足取りで入ってきたのは、帰りを待ち望んでいた母だった。

いつもは帰ってくるとにっこりと笑顔を見せて「ただいま」と言ってくれるのに、その日は一言も喋らず、俯いていて顔も見えなかった。


明らかに異常な様子の母に戸惑い、母に駆け寄りスカートの裾を掴んで話しかけようとしたその時、頰に衝撃が走った。


気がついたら視界には黄ばんだ天井しか映っておらず、何が起きたのか確認する前に、聞いたことのない母の罵声が部屋に響いた。


「触るんじゃないわよ!汚らしい!!」


驚いてじんじんと痛む頰を押さえてなんとか起き上がり、声の方に顔を向けると憎悪で顔を歪ませた母と目があった。


「え…、お…かあさん…?」


何が起きているのか理解できず、ただただ呆然と母を見つめることしか出来なかった。


「あんたさえいなければ...!私が…!!」


母の言っていることの意味は全くわからなかった。

その日は日が明けるまでずっと、意味の分からないことを言われて殴られ続けた。

意識が遠のいて死んでしまうような気がしたけれど、抵抗することができなかった。

私を殴りながら、母は泣いていたから。


その日は初めて暴力を受けた日だった。

そして、優しい母と話した最後の日。

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