第1章 影を征く者たち
第1話 魂の死
母は二年前に若い男を作って蒸発した。つい昨日まで笑顔で振る舞っていたのに、作り置きのカレーライスをテーブルに置いて、「さようなら」という書き置きを残して去っていった。
その理由は多分、父の女ぐせの悪さが原因だろうと、
今日も、昨日も、多分明日も、父は仕事が終わったら風俗通いだ。
「やだぁパパ〜。僕そんなおもちゃ入らないよぉ」
薄い壁の向こうから、弟の媚びたメスの声が響いてくる。
弟は一個下の高校一年生だ。食っていくために、元々の容姿の良さを武器に女装して、パパ活をしている。程なくして媚びた声は本格的な喘ぎ声に変わり、汚らしいおっさんが「パパのをこんなに美味しそうに咥え込んで、こんな悪い子には孕んでもらわなきゃなあ!」とか、「おらイけ、メスイキしろクソガキ!」とかいう声をあげ、腰を打ちつける音を響かせる。その都度弟は、獣のように声をあげ、よがっていた。
嶺慈は耐えられなかった。
母も父も、こうじゃなかった。弟だって、一年前までは嶺慈の後ろをついて歩いてくる純粋な子だった。
何かが、——歪めてしまった。この家を、嶺慈の世界を。
弟の「イクっ、イクッ……」という声が引き金になり、嶺慈は胃液を吐いた。血が混じっていて、胃がキリキリ痛む。
耐えられない。
嶺慈は財布とスマホをポケットにねじ込み、部屋を出た。
玄関には靴がいくつもあり、弟が乱交して荒稼ぎしているのだと悟った。
もう、嫌だ。
なにが、とか、どうとか……そういうことじゃない。もう自分には、この世界で生きていく勇気がどうしようもなくない。
午前一時半の街には雨が降っていた。嶺慈は傘も差さず家を飛び出し、国道沿いを歩く。
車のヘッドライトが嶺慈の憔悴しきった、死人のような顔を照らしていく。
自分が悪かったのだろうか。人並みにいい子だったはずだ。両親の拠り所にはなれなかったのだろうか。弟は、自分が頼りなかったのだろうか。
考えて、頭痛を感じてふらりをビルに寄りかかった。そのビルの路地から、若い女の声と肉を打ちつける音が聞こえてきて、気が狂いそうになった。
歪んで狂ったのは、うちだけじゃない。世界が、おかしくなっている。
畜生。
畜生……。
こんな世界、いっそ——。
強い灯りが、視界に差し込んできた。嶺慈は顔を上げる。コンビニだ。
何か甘いものでも買って、気分を落ち着けよう。気休めにしかならないだろうが、このままでいるよりずっとマシだ。
濡れ鼠の嶺慈がコンビニに入ると、店員は引き攣った声で「……いらっしゃいませ」と言った。掃除の手間を増やすなよ、と顔が苛立っている。
それを無視してスイーツコーナーに向かった。客は自分以外にドリンクコーナーの酒を選ぶサラリーマンと、同じくスイーツコーナーを物色する闇色の長い髪をした少女が一人。やけに大きなバックパックを背負っている。
嶺慈はもちもち生地を喧伝しているどら焼きを手にとって、戻した。その隣のティラミスを手に、ぼんやりとこれにしようと思ってレジに行こうと、
「あなたも〈
闇色の髪を腰のあたりまで伸ばしている少女が、こちらの顔を覗き込んでそう言った。その目は、瞳孔の周りに同心円状に黒いリングが走っている。リングの内側は青く、外側は赤く、そして白目は、黒く染まっている。……カラーコンタクトを入れて、白目には墨を流して、黒くしているのだろうか?
「なんだって?」
「ずっと……待って——」
「うわっ、うわああああああああああああ!」
店員が、急に悲鳴を上げた。嶺慈が何気にコンビニの外を見ると、コンテナを積んだトラックが突っ込んできたのだ。窓ガラスを叩き割り、本棚と日用品とお菓子が並んだ棚を巻き込み、その間にいたサラリーマンをプレスして、止まる。
嶺慈は息を呑んだ。
「来て」
「な、なに……」
「いいから、来て」
少女が嶺慈の手首を掴んで、走り出した。放心状態の店員は、少女がリュックの中に大量のお菓子やらを詰め込んで万引きしたことなど、もはや感知していない。
嶺慈は少女のものとは思えない力でコンビニから引っ張り出された。
「なんだよ、急に!」
「あなたは私といるべき。だって、ほら」
視線がトラックに向いた。コンテナから出てきた黒服が、こちらに長方形のサブマシンガンを向けて、撃ってくる。
弾丸がアスファルトを砕き、電柱に跳ねる。
「映画の撮影かよ!」
「違う」
「本物なわけない! 今令和だぞ!?」
「そんなの陰陽寮にとってはなんの理由にもならない」
陰陽寮——? 平安時代じゃないんだぞ!
少女は途中の路地に嶺慈を連れ込んだ。そこには半裸で情事に耽る男女。彼らは、何かを悟ったように道を開けた。
「あいつら、仲間か!?」
「ええ。見張りよ」
「なんなんだよ、一体……」
嶺慈は路地の奥、ビルとビルの間にできた小さな空間に連れ込まれた。
急に全力疾走した体は、酸素を求めてひどく荒ぶっている。肺が、脇腹が、ふくらはぎが痛い。
「あなたは〈
「ゴースト、ってなんだよ。俺は死んでない」
「肉体はね。でも、魂は死んでる。そういう状態の人間を、私たちは鬼に魅入られたゴーストと呼んでいる。心当たりはない?」
思い当たる節がいくつもあるだけに、反論ができなかった。
少女が嶺慈のズボンのポケットに手を突っ込み、スマホを出すと握りつぶした。
「あっ」
「位置情報がバレる。こっちに来て」
少女が嶺慈を抱き抱えて、ビルの壁を蹴った。壁から壁へ跳躍を繰り返し、屋上に上がる。
下界を一望した少女の闇色の髪がなびき、そして彼女は助走をつけて疾走。ビルの縁を蹴って、跳んだ。
「うわあああああああああああっ!」
「舌、噛むから。黙って」
隣のビルへ着地。勢いを殺さずまた走り、跳躍。それを何度も何度も繰り返した。街からはパトカーと救急車と、消防車のサイレンが響いている。
今日何度目かの、疑問符。無論、感嘆符もセットになっている。それを、少女にぶつけた。
「……一体なんなんだ。俺を、どうする気だ!?」
毒々しいネオンに照らされ、雨のノイズを浴びながら、少女はお姫様抱っこした嶺慈に、ビルの屋上でキスをした。
長太い舌に口をこじ開けられ、口の中を強姦される。歯の溝を抉るように、喉の奥を犯すように、舌を吸い出し、血と唾液が混じる糸を引かせながら口を離した。
「スカウトしにきた。私たちの仲間になってほしい。私はゴーストが適合した、〈アヤカシ〉。あなたがなるべき、力を得た生命体よ」
少女が嶺慈を下ろす。袖口で口を拭って、嶺慈は聞いた。
「アヤカシ? 仲間ってなんだよ。……夢でも見てるのか、俺……」
「家に帰してあげてもいい。今頃、とんでもない地獄になっていそうだけど」
「弟のことなら、」
「あなたのお父さんと弟さんが近親相姦してることも知ってるの?」
脳みそを直接金槌でぶん殴られたような衝撃が駆け抜けた。
「な……そんなわけ!」
少女が自分のスマホを取り出し、SNSのポストを表示した。その動画を再生し、添付されるテキストを表示する。
内容は、近親相姦を仄めかすもの。映っている少年の背格好、背中のほくろは弟と一致し、腰を振っている男は薄いモザイクがかかっているが、親子だからわかる——父だ。
「やめろ!」
嶺慈がそのスマホを振り払った。がしゃ、と屋上を滑る端末を、少女は黙って拾い、拭ってからポケットにしまった。
「この歪んだ世界を壊したいと思ったことはない?」
「…………壊したいさ。こんな、イカれた……腐れた世界なんかぶっ壊してやりたいさ!」
「私たちにはその力を与えられた。あなたにも。あとは数を揃えるだけ。罪を振り撒く悪人を——それを
少女は大仰に両手を広げた。
ゆるりと腕を下ろし、そこでようやく名乗った。
「私は
「東雲……嶺慈……」
「嶺慈、ね。……おいで。私たちの、アヤカシと美しい動植物たちの、輝ける桃源郷を作りましょう」
円禍が手を伸ばす。
この手を握れば、きっと後戻りはできない。
そこまで考えて、自分にはもう戻る場所などないことを悟った。
家も家族も、もう——あんな肥溜めなんぞ、自分がいるべき場所などではない。
嶺慈は震える手で、円禍の白い手を握った。
「ありがとう。私と、来て」
円禍が嶺慈の手を引き、そのビルの屋上の扉を開いた。
冥界に続く穴のようにぽっかりと開いた穴に、嶺慈は意を決し、踏み込んでいくのだった。
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