第4話 物凄い人

 そうして、天羽くんからピアノを教わる日々が始まった。

 天羽くんの教え方はなんというか…………的確というか、上手というか。私はただその指示に従えば、あっという間に解決してしまいそうな気がする教え方だった。


 多分、弾けない人の気持ちを分かっているのかもしれない。

 その教えを聞いて、弾けるかどうかは別の問題で、私の手があまりにも硬くて動かなかった。


 運指が難しかった。

 なんで簡単に指を入れ替えたり出来るんだろう。

 絶対私がやったら詰まっちゃうのに。


 それでも、上手くいった時は楽しいし、少しずつ弾けるようになるのも嬉しかった。


 私と天羽くんの練習の日々は少しずつ重ねられていった。一ヶ月が過ぎている。

 どうやら私は一向に上達しないらしく、呆れられていたけれど、天羽くんはそれでも付き合ってくれるみたいだった。


 やっぱり、優しい人だった。


 そんな風に一ヶ月が過ぎた頃。

 天羽くんから突然尋ねられた。


「なぁ、なんでお前はそんなに第九を弾きたいんだ? 曲なら他にも色々あると思うが」


 私は普通の顔が出来ているだろうか。

 鏡が無ければ私の顔を私が見ることは叶わない。いつだって私とおんなじ思考回路で、おんなじ見た目の人がいれば良いのに。

 そうすれば、全てが半減されるのに。


 私は言葉を詰まらせてしまったけれど、なんとか返答することが出来た。


「母が、よく弾いてたんです。これを弾くと元気が出るから、って。その時、母はこの曲を『よろこびの歌』と」


 決してきちんと説明したわけではない。むしろぼかしてる割合の方が高い。

 私は、心の扉を閉ざす。


 お母さんのことを話すのは、まだ少し、ダメージが大きい。


「何か嬉しいことや楽しいことがあった時に絶対に弾くって笑いながら言ってました。『渦綾が生まれた時にも弾いたんだよ』って」


 大丈夫。何もおかしな話し方はしてない。

 同情もされてないはず。天羽くんにだけは、されたくない。

 だけど、天羽くんの顔を、見れない。


 どんな顔をしてるのだろう。

 そんなことすら確認も出来ず、私は俯いていた。


「――そうか」

「はい」


 ぶっきらぼうな返事に、私はただ頷いて返した。

 返答に困った雰囲気が感じられて、彼の心根の優しさを私は受けてばかりだった。


 私はピアノを練習する。

 またミスをする。

 天羽くんの方を見た。


「もう俺を頼るのか?」

「……まだやります」


 挑戦的な言い方に、私は少しムッとした顔で返して、ピアノに向き直った。


 また練習に戻った。


 曲のメロディらしきものを感じられない、音の羅列を私は弾き続ける。

 これが私のよろこびに繋がっているのか、私は知らない。お母さんの言葉を信じるなら、これが繋がっているのではなく、この道の途中によろこびはあるはず。


 私はまだそれを一向に感じられない。

 私の頑張りが足りないのかもしれない。


 でも、ピアノの音に触れていると、何か別のものを想ったりする。


 音楽は良いものだ。

 誰にだって出来て、その技術さえ学べば自分を相手に表現出来る。ひょっとしたら言語なんかよりも優れたものかもしれない。


 思わずピアノを弾く手の力が強くなってしまった。

 下手なピアノの音が、より下手に響く。


 上手く弾けない人が大きな音を出そうとしても、ただの騒音にしかならない。

 それでもきっと、何かを伝えることが出来る――と思う。私なんかが言っても、説得力は無いけれど。


 そんなことをなんとなく、天羽くんに言ってみたくなった。だから、私は口に出した。


「音楽って良いですよね」

「……急にどうした」

「だって、今私が弾く側に立ってわかりますが、誰だってやろうと思えばやれるんですよ? これって凄いことだと思うんです! 音楽なら、言語の壁だって文化の壁だって超えられる。人と人との間の溝なんてほんのちょっとですよ」


 大して弾けもしない私が何を語ってるんだろうと、私はピアノを弾きながら笑ってしまった。


 天羽くんはそれきり少しの間黙ってしまった。


 私が休憩をしようと思って、そちらを振り向いても黙っていた。


「天羽君は逆に、なんでピアノを弾きたいくないんですか?」


 私は気になっていたことを尋ねた。

 正直、踏み込み過ぎている気がする。

 いつもの私ならしないことだ。


 きっと、舞い上がっているんだ。ピアノを優しく、私をバカにしないで教えてくれる天羽くんに出会えて。

 運命にしてしまって――――巻き込んでしまって申し訳ない気持ちと、関わりを持てて嬉しい気持ちが混ざり合って、よく分からなかった。


 そんな私の質問に対して、天羽くんは答えてくれた。


「正確には、俺はピアノを人前で弾きたくない――というか、弾けないんだ」


 恥ずかしそうに、けれど顔を赤く染めることなく、そう言い切った。よく、分からなかった。

 私は首を傾げた。


「えっと……ピアノが下手とか?」

「お前に下手とか言われたくないな。お前よりもよっぽど俺の方が巧いわ」


 口から出た言葉に、驚いて口を手で塞いでいると、呆れた口調であっさりと返された。

 そんな問題ではないようだった。


 というか、ピアノを人前で弾けないって……どういうことなんだろう。


「え、じゃあどういうことですか?」

「俺の場合、人前で弾くと吐き気がする。冗談抜きでな。人に聞かれてると分かった瞬間だな。親でもこれはダメだった。だから基本的に俺は一人で家の部屋で弾いてる」


 眉をしかめながら、困ったような笑顔で天羽くんはそう言った。いつもよりも柔らかい表情のはずなのに、少しも私は緊張が解けなかった。

 多分だけど、天羽くんは怒ってるのかもしれない。


 ピアノを弾く人にとって、人前で弾けないということは絶対的にあってはならないことだと思う。

 人前で弾けないということは、人に聴いてもらえない。

 つまり、批評をもらえない。


 自分の成長に繋げられない。


 そんな情けない――私からしてみれば立派も立派だけれど――自分に対して、怒りを抱いているんだと私は思った。

 ピアノと関わりを持つことが苦しそうにも見えた。


「天羽くんは、結局ピアノは好きなんですか?」

「……もう分からなくなったな。そんなのはとっくに置いてきたかもしれない」


 自重するような、そんな笑顔だった。

 苦しみをなんとか隠そうとする、私のお父さんのような笑みだった。


 なんとなく明るく見えていたこの部屋が、隅からジリジリと暗くなっていく雰囲気を感じてしまった。

 よろこびが遠のく。


 私は、よろこびの歌を弾かなきゃいけない。申し訳ないけれど、やっぱり天羽くんとの関わりを絶つわけにはいかなかった。


「もったいないですね。ピアノって楽しいじゃないですか。楽しいものを楽しまないのは、それはとても残念なことだと私は思います。


 私としては、楽しめるものは楽しみたいですし、やりたいことはやりたいです。だからこそ、今は天羽君にピアノの指導をお願いしてます。


 私は、この『よろこびの歌』だけはいつまでも弾けるような自分でありたいんです。その為にも、どうか協力して下さい」


 私がそう言うと、天羽くんは何故か一瞬だけ身を固めたかと思うと、首の後ろを触って口を開いた。


「……あぁ、良いぞ」


 その表情は、少なくともさっきの笑みよりも良いものと判断した私は、ピアノの方に向き直った。


 また弾き始める。

 すると、すぐに詰まる。


「お前、どれだけ運指が下手なんだ?」

「しょうがないじゃないですか! 難しいんですよ! これ!」


 呆れ切った顔が頭に浮かぶような声が後ろから飛んできて、私は思わず言い返した。

 顔は見てないけれど。


 きっとこの言葉を、彼は許してくれる。

 優しいからだ。


 この私の罪は、消えない。

 私のよろこびと共に、確実に存在を示してくる。


 私はズルい人間だった。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 ――――それから数日後。

 たまたま私は旧校舎を離れていた。


 事情は――――保健室登校を無理やりあの部屋に変えてしまっている私には、多少の義務ができてしまうよね。

 先生には、とても迷惑を掛けていると思う。


 私は、周りの人に迷惑を掛けて生きている。

 こんな私は到底この先生きていけるとは思えない。社会に出て行けるとは思えない。


 端的に言えば、私の担任の先生と話してきていた。

 調子はどうかと聞かれたり、教室はまだ怖いかと顔色を窺われ、いじめてた子と会っていないかと心配された。

 担任の先生はやっぱり優しかった。


 白髪交じりのおじさんの先生だけれど、中学の頃の先生よりかは良い人……だと思う。

 私のことを考えてくれる。

 お父さんとも、たまに電話で話したりしているらしいけれど、私はお父さんと会話が出来てない。


 やっぱりよろこびの歌が必要だった。


 旧校舎に戻っていると、ピアノの音が聴こえてきていた。

 どこから――――というか、旧校舎の方向から聴こえてきている。


 旧校舎にピアノがあるのは、あの部屋だけだった。

 多分、天羽くんが弾いている。


 本気で弾いてはいないのだと思う。

 ただ目の前にピアノがあったから、少し鳴らしてみただけ、みたいな雰囲気がある。

 何の曲かは分からない。


 だけれど、それを聴いた私の脚は止まってしまった。動かなかった。

 巧いなんてものじゃない。

 聴いている人をどこか別の世界に飛ばしてしまうような。これがこの曲の世界観なのか、それとも天羽くんの自己表現なのか、と考えてしまう。


 明るい陽だまりのような、そんな場所が脳裏に浮かんだ。草原みたいな、晴れ渡った空が印象的で、太陽が眩しくて。

 いつも眉間にシワを寄せている人が弾いているとは、到底思えない情景で、私は動けなかった。


 エネルギーに溢れたメロディで、圧倒されてしまう。遠くから声が聞こえる。このピアノへの歓声だった。

 グラウンドにまで届いてしまう、ピアノの音だ。


 そんなことを考えていると、音が止まった。

 どうやら終わったらしい。


 歩き始めると、音が再び鳴り出した。

 さっきとは打って変わって、静かな旋律だった。


 それでも、私の情景が一向に変わらない。

 暖かい空気さえ感じられた。


 抑えられたエネルギーは、大地に空に内包されていた。物凄いエネルギーが中でうねりを上げているのが分かる。

 抑えて、抑えて、抑えて――――


 徐々に音が小さくなっている。これがデクレシェンドというものなのかも。こんなに長く弾けるなんて、楽譜を見ているのかな。

 いつの間にかまた、曲が止まっていた。


 私はもう動くこともしないで、次の音を待った。


 予想通り、再び鳴り始める。

 さっき溜められたエネルギーを完全に爆発させるように、ピアノが鳴いていた。


 本当に、音の一つ一つが目の前で炸裂して、目がチカチカするような幻覚を見た。

 強烈な音の連打を食らって、私はよろめく。立っていられないほどの迫力で、私の手は震えてしまっていた。

 熱風が巻き起こって、渦巻いて、彼の音を中心に回っている。


 でも、暖かな空気を感じられる。決して穏やかな風景が踏みにじられたわけじゃない。むしろ、それを前提に置いたからこそ、この炎が強く、大きくなっていた。

 ゆったりとした光景にも、激しい熱情を抱いている人は必ずいる。

 きっとそれが天羽くんで、私は偶然その熱量を垣間見て、全身に浴びてしまっただけ。


 自然と、私の息が上がっていた。

 呼吸の回数が増えている。多分だけど。


 分かるだけで、本当は解ってない。

 この音に魅せられているから。


 この音から、目を――――耳を離すことなんか出来ない。してしまったら、一生後悔してしまう。


 こんなにも凄い人を、私は無理やり巻き込んでしまったのか。

 こんなに凄い人に、ピアノを教えてもらっていたのか。


 熱すぎてクラクラとしてしまうような、そんな空気がこの場を漂って、私に纏わりついて離れない。熱気が、肌を刺してきている。


 私を責めているのかもしれない。

 私を倒れさせようとしているのかもしれない。


 ――――お前のせいで、この才能が壊れたらどうする。壊れたら――――


 私を苛む。


 でも、これに負けたら、私はきっと起き上がれない。よろこびが分からなくなる。


 なんとかその場に立っていると、音が止んだ。


 天羽くんの言葉を思い出して、私は逃げなければいけないと思った。

 聴いていたことを知られてしまえば、もう二度と来てもらえないかもしれない。嫌な気持ちにさせてしまったらいけない。


 急いで身を翻して、来た道を戻った。


 適当な物陰に隠れて、じっとうずくまった。

 心臓が早鐘を打って、落ち着かなかった。


 息が荒くなってる。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」


 私は目を閉じた。

 何も入れないように。

 何かに謝り続けた。


 私の口は止まらなかった。私も分からないまま呟き続けてる。

 何分ここにいたんだろうか。

 分からない。


 分からないことだらけで、私は何も出来なくて、迷惑ばかりをかけていて。

 本当に――――




 私はゆっくりと立ち上がった。

 誰も通りかからなかったことが幸運で、ふらふらと歩いていく。

 傍から見たら、体調の悪い人で、保健室に連行されていただろうな。


 こんな調子じゃ、私の元に来なくなってしまう。


 深呼吸はしないで、天井を見上げた。

 ホコリにまみれていた。汚れもたくさん貼り付いている。

 どこからどう見ても汚い天井で、なんとなく心が落ち着いた。


 ここも、汚い。


 旧校舎に入って、ドアの前に立つ。


 まだ熱狂の余韻が漂っていて、梅雨にだって入ってないのに蒸し暑かった。

 私の頬を汗が伝い、顎へと降りて、足元に落ちた。


 それはもう蒸発してしまったかもしれない。

 息を吸った。

 熱くない。私は大丈夫。


 私は音を聴いていなかったふりをしなきゃいけない。


 あれだけのものを食らっておきながら、平然と失敗をさらせという恐ろしい行為をしなきゃいけない。


 私が一回も間違わずに、一つの練習用の楽譜を弾ききれと言われた方がまだマシだと思う。

 自らに勝手に課した試練で、自らで勝手に苦しんでる。


 きっと私はバカだ。

 バカはバカなりに、思考を巡らせなきゃいけない。


 だから、私はドアを開けた。

 中に天羽くんがいたのを見て、驚いたふりをする。


「あ、あれ、もういたんですか」

「……あぁ」

「珍しいですね」

「珍しいのはお前の方だろ。どこ行ってたんだ?」

「……ちょっと先生と話しに」

「あぁ……そういうことか。それで……ここに来るまででなんか聴こえたか?」


 天羽くんはこちらを向く。

 それは、確実にこちらを見定めていた。


 強者から見つめられた弱者に出来ることは、逃げ出すか、見栄を張るか。それとも、自分を偽るか。


 私に許されているのは、最後の選択のみだった。


「何かって、何ですか?」

「いや、別に何でもない」


 天羽くんは目を逸らし、イスから立ち上がった。

 私に座らせるためだ。


 後ろで組んだ手を、私は握り締めた。絶対に開かないように、戒めを込めて。


 私は素直にピアノの前のイスに座った。

 ピアノに触ると、まだ熱が籠もっているような気がした。表面はひんやりとしてるくせに、きっと中は私が溶けてしまうくらい熱いんだ。


 楽譜を開いた。

 付箋を貼っていたところを見つけて、楽譜を睨みつける。

 音符の場所を把握して、ピアノの鍵盤に手を置い

た。

 そして、弾き始める。


 天羽くんはきっと、いつもの顔をして立ってる。

 私も多分、いつもの顔をして弾けている。


 でも、内心はヒヤヒヤしてる。

 バレてないか。


 それでも、私と天羽くんを比べれば、私の方が罪深くて、救えない。

 私はこのまま、罪を抱いて生きていく。


 それが、私なりの私への罰の与え方だ。

 絶対に、私の中身を晒してはいけない。


 天羽くんを利用している私は、天羽くんのピアノで心を動かされてはいけない。天羽くんを傷付けても、才能を壊してもいけない。


 それでもなんとか、ピアノと天羽くんを繋げたい。

 そして、私は救われたい。


 強欲すぎて、目も当てられない。


 私は音を外した。

 また、間違えた。










――――――――――――

〈補足〉

 天羽が弾いていた曲は、ベートーヴェン作曲のピアノ・ソナタ第23番ヘ短調Op.57『熱情』です。

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