第2話 運命という名のこじつけ
向き直ったところで、私のコミュニケーション能力が不足していることは変わらなかった。
頭では分かっているはずなのに、身体は未だに彼に怯えて震えていた。そのせいで、質問の意図とズレた回答をしてしまう。
「え、だって……この曲好きだから」
「いや……だから授業中だって――」
「私、教室に入れないもん」
あ、マズい。上手く話せない。こんな話し方をしてしまえば、相手が不快に思ってもおかしくない。
「は?」
「私、教室に入れないんです」
予想通り、意味が分からないという顔をされた。
今度はきちんと礼儀正しい感じで返せて良かった。私はイジメられたい訳じゃない。
「そらまたどうして……?」
そんな疑問の声に、私は答えることを迷った。
初対面の人に自分の事情を明確に教えることは私に出来ないし、私だってこんなこと話したくはない。
だからといって、私にははぐらかす会話の技量もない。
残る選択肢は――――正直に頑張って話すのみだった。
「教室のドアの前に、あのガヤガヤとした空気の前のドアに立つと、どうしても足が動かなくて。何か、無理矢理何かを抑え込んでいる地獄の門みたいな感じがして、余計に怖くて……」
教室という言葉に反応して、私の身体は少しビクリと跳ねたような気がする。もしかしたら気のせいかもしれない。
少なくとも、私は教室を思い出せば思わず怯えてしまう程度には、怖がってるみたいだった。
自分のことがよく分かってないみたい。
自分がキライ。
よく知らない人に過度に怯える私も、勝手に震えてしまう身体も。
目の前の男の子は、一瞬気まずそうに視線を外すと、ぎこちなく返答を返してきた。
「――――すまんが、弾くなら放課後にしてくれ。俺はピアノの音を聴きたくないんだ。特に、ド下手くそなのはな。周りも迷惑だろう」
それだけ私に告げて、さっさと踵を返して部屋を出て行った。
その背中に、私は思わず手を伸ばした。
「あ……」
流石の私も、これで相手がわざわざ関わってきてくれるなんて考えてもない。ピアノが下手くそなのも知ってる。だから別に傷付いた訳じゃない。
でも、ピアノの音がキライってことは、何かしらピアノと関わりがないと出てこない言葉だと思う。
これは完全に自己中心的なお願い。
身勝手な要求。
ピアノと関わりがあるなら、私のピアノを――せめて聴けるくらいにまで引き揚げるのも出来るんじゃない?
あまりにも上から目線で、自分のことしか考えてない。
――――私にピアノの弾き方を教えて欲しい。
たとえ、彼がヒドい人でもそれはそれで私が傷付くだけ。他の人には何も影響は無いし、ひょっとしたらショック療法のように現状が改善するかもしれない。……流石にそうは思ってないけど。
ただ私は、私以上に沈んでしまったお父さんをせめて私と同じ位置まで引きずり上げたい。そのためには、よろこびを見せてくれるお母さんのピアノのような音が必須だった。
私の今立っている場所も、大した高さの位置じゃない。それでも、お父さんの今の立ち位置よりはまだ上のように思える。
だからせめて、立ち直るきっかけになって欲しい。
そのために、あなたを利用させて欲しい。
ここまで開けっぴろげに言うつもりはないけれど、そもそもお願いできるかも怪しいけれど、このチャンスを逃してしまえば、もしかしたらもう一生お父さんと私は笑い合えないかもしれない。
だから、これを逃す気はない。
そこまで考え切ると、私の身体は勝手に動いていた。部屋を出ると、廊下をゆっくりと歩く彼の背中が見えた。
私は急いで走って、彼の体操服の裾を引っ張った。
空気の動きで分かる。彼は私の方を向いて立ち止まってくれた。
視線を向けられると、私の身体は微弱に振動を始めてしまう。私を笑っているのではないかと、不安になる。
それでもなんとか、言わなければならない。
「なんでわざわざ追い掛けてきたんだ?」
しびれを切らしたようで、男の子の方が先に尋ねてきた。
言葉が飛んできたことで、思わず私は固まった。
考えは回るのに、身体がついていかない。
こんな私はイヤだった。
「お〜い……。返事くらいしてくれよ……頼むから。俺が困る」
数回何とか言おうと口を開いては閉じを繰り返してから、やっと喉から声が出た。
「……私にピアノを教えてください」
「へ?」
絞り出した声は、どうやら小さ過ぎたようで彼から間の抜けた返答が返ってきた。
私は今度こそ聞き逃されることのないよう、声量を上げて口から言葉を発した。
「私にピアノを教えてください!」
「な、何で俺に……?」
「……だって、あなたは私のピアノが下手って言ったから……。ピアノ、弾けるのかと思って。ピアノ弾けるなら、教えてくれるかなって。上手くなれば弾いても良いんでしょ?」
うろたえている雰囲気の男の子に、私は畳み掛けた。絶対に逃がせない。
裾を掴む手に力が入っているのが分かった。
でも、拒まれても私に引き留める力は無い。私の意志が弱いからだった。
彼をこの場に縫い止めるには、何もかも足りなかった。全ては私の弱さが原因だった。
それでも、この願いに応えてほしいと思って、男の子の顔をじっと凝視する。
そこで初めてまともに顔を見た気がした。
きっと前は笑顔が可愛い少年だったことを伺わせる顔立ちだった。その顔は、しかめっ面よりも笑顔が似合うと思った。
けれども、今は眉間にシワが寄っていた。
形のいい唇から吐息が漏れた。
「はぁ……俺はもう、弾いてない。教わるなら、吹奏楽部にでも行けよ。それじゃ」
私の手を服の裾から外すと、さっさと歩き去ってしまった。
「え、あ……」
私はさっきと同じ様に手を伸ばす。
だけれどその背中に、私の手は届かなかった。
廊下にポツンと残された私は、立ち竦むだけで何もすることが出来なかった。
私は一人だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――その日の夜。
私は自分の部屋で、ベッドの上に寝転がっていた。
自室。
机の上の写真立ては伏せられている。小学生の頃に抱いていた、常に枕元に置いていたヌイグルミはクローゼットの中。手作りのニット帽のようなものは、私の目に入らないようにコート掛けの一番上に、クリスマスツリーの頂上の星のように置かれていた。
私は全てから目を逸らし、耳を塞いでいる。
例えば、たった今開いた玄関のドアの音も。
例えば、私の部屋の扉を開けて私を窺う目も。
そして、くたびれて帰ってきたその人に労いの言葉もかけられないこの口。
言わば三猿のようなものだ。
叡智の結晶だとか、そんなウィキペディアで出てくるような大層な訳じゃない。
ただイヤなことから、受け止めたくないことから目を逸らしているだけ。
ただの逃げ。
私は未だにお父さんと向き合えていない。
お母さんが死んで悲しいのは二人とも同じなのに、二人とも立ち直れずにそのまま肩を落としてうずくまっている。
いつだって気を抜けば、冷たい空気の中のあのオルゴール調のよろこびの歌が流れてくる。
その度に、私は何もかもを諦めてしまう。
私に必要なのは、あの明るいピアノだけで、他には何もいらない。きっとそれは、お父さんもおんなじなんだと思う。
やっぱり私は、彼を諦めきれないみたい。
あの蜘蛛の糸を離せない。
真っ暗な私のいる所に垂らされた一本の糸は、私にとって救いのきっかけで、私を上まで掬い上げてくれるものなんだと思う。思ってしまう。
私はこれを、運命と呼びたい。
呼ばなければ、私はここからずっと這い上がれない。
これがきっと、最初で最後のチャンス。
そして、私が自分からアクションを起こせるようになる最大の機会。
逃せない。
私も退路を塞ぐことにした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――翌日。
私は昼休みを待った。
ホコリだらけのこの部屋は、旧校舎の端にある。
私を閉じ込める牢屋なのか、私を守るシェルターなのか、もう判らなくなった。
でもきっと、今はここが私にとっての基地であり、砦なのだと思う。
基地というのは攻撃の為の根拠地、砦とは何かを守るために置くもの。
それを併せ持ったここはきっと、私にとってそうなのだろうと勝手にだけど思ってる。
時間は刻々と過ぎる。
壁に掛かった汚れた時計と、スピーカーから流れるチャイムの音で段々と昼休みに近づくことが分かった。
それと共に、私の鼓動は速まる。
鼓膜はずっと私の心音しか聴こえない。
ピアノの練習をしようとすれば、きっと手が震えてしまう。
昨日の彼は多分、拒絶した。
私に対してではないような気がする。ピアノと関わることに対してだったと私は思う。
そこに私は今、抜け道を見つけ出そうとしている。そして、そこに踏み入ろうとしている。
この行為はおそらく、彼を深く傷付けてしまうかもしれない。でももしかしたら、私にとっての益があるかもしれない。そして、彼も何事もないかもしれない。
そんな限りなく低いであろう確率に私は賭けようとしている。ギャンブラーよりもヒドイ。
私はこの出会いを、無理矢理に運命にしようとしてる。
チャイムが鳴った。
私にとっては、その音はゴングに聞こえた。
その音と同時に、私は部屋を出た。
会いたくない人には会わない様にしなければならない。でも、彼のクラスはどこか分からない。
あ…………私は今は地獄に向かおうとしてるんだ。
そのことに気付くと、私の足は止まってしまった。
脚に何かが絡みついたように、動かなくなった。
こんな時に、私は持ち前の臆病を発揮してしまった。こんなことをしてる場合じゃないのに。
私も内心呆れているのに、何故か動かない。
動かないと、何も出来ないのに。
何も変わらないのに。
このままじゃ、今までの私とおんなじになっちゃうのに。
『焦ったらね、その時は何かしら良くないことが起こっちゃうものなの。焦らずにゆっくりと上を見上げるの。天井だったり空だったり。
天井なら、天井の汚れを見つけたり、空なら、雲の形を見たりして、心を落ち着けるの。深呼吸したら余計に焦ってることが分かっちゃうから』
昔、いつだったかお母さんが言った言葉を思い出した。
言いつけに従って、上を向く。
天井は何かニョロニョロとした線がいくつも走っていて、中々に気持ち悪い。
ホコリがついていたり、蜘蛛の巣が張ってるのをみると、何故だか落ち着いてきた。
お母さんの言ってることは本当だったみたい。
恐る恐る脚を出してみると、案外するっと前に着いた。
そんな行動を繰り返して、私は旧校舎を出た。
なんとか一年生の教室が並ぶ廊下まで来た。
あ、あの男の子が何年生か分かってない。
…………全部見ていくしかない。
おぞましい教室のドアから、中をのぞき込む。
――――そうして見て回った。
何個か教室を周ると、そこに彼はいた。
一番前の窓際の席。
イヤホンをつけて、そのまま机に突っ伏そうとしてる。
そんな彼をじっと私は見つめる。
何人かにみつめられてる。視線が私を突き刺して思わずドアにしがみついてしまった。私を見てささやく声が聞こえる。
逃げちゃダメだ、とどこかのアニメの主人公みたいに言い聞かせた。
これを逃せば、私はもうだめかもしれない。
頑張って、周りの声を耐えた。
すると、彼が身体を起こしてこちらを見た。
跳ねてしまった私の肩をなんとか押さえて、じっと見つめ返した。
彼に近付いた同じクラスの男子らしい人が彼に話し掛けた。少しだけ話すと、ため息を吐いて首の後ろを触りながらこちらに歩いてきた。
この前よりも一層険しい表情をしていて、私は思わず一歩下がった。
彼はまたムッとした顔でもう一歩踏み出す。
私もまた、一歩下がるを繰り返す。幾分彼の顔が優しくなったと思ったのは、どうやら教室から離れたからだと気が付いた。
私はいつの間にか、教室にいる人はみんな敵だと思ってしまうみたいだった。
呆れたように立ち止まった彼は、私に話し掛けた。
「おい、逃げるな。俺の睡眠時間を奪いたいのか」
「だって……教室、怖い」
本当は教室にいる人だけれど。私を見る視線だけれど。それでも、教室自体が私は怖くなってるみたい。
私は底なしの臆病で、弱かった。
もう一度彼は、ため息を吐いて首の後ろを触った。
「いいぜ。違う所でも」
「…………」
ここがいじめっ子達がいる所だということを思い出して、とにかく離れなければと思った。
とにかく頷いて、私はさっさと歩き出した。もと来た道を。
歩いている間に、私は頭の中でなんとか話したいことを整理する。
私は彼にピアノを教えてもらって、よろこびの歌を弾けるようにならなきゃいけない。
そのためにはなんとか説得して、彼を私に教える気にさせなければならない。
旧校舎に着いた。いつもの半分私の棲家になりかけているいつもの部屋だ。ピアノのイスに座る。
なんとか話さなければ…………。
ふぅ〜と吐いて、すーっと息を吸う。
それでもやっぱり彼の顔を見れなくて、私はピアノの方を向いたままで話し始めた。
「あ、あの、昨日、あなたは下手だから弾くなって言ったんじゃないんですか?」
あぁ……唐突な切り出し方だ…………。コミュニケーションを取るのが下手だな。
少し、空気が動いたような気がする。多分、驚かれたんだろうな。
きっとこのあとには、私の発言に対する肯定の意を示す言葉が続くはず。
そこから私はどうやって――――
「――はぁ……。やっぱり分かってなかったな。俺はピアノの音を聞きたくないって言ったんだ」
もはや下を向きすぎて、猫背の域を超えていた私の上体が、それを聞いて跳ね上がった。
それと同時に、半身だけ振り返る。
彼は半歩下がって、不審そうな目で私を見ていた。
またやってしまった……。
でも、会話を続けなければ。
「なんで、ピアノの音、聞きたくないんですか?」
私の質問に対して、彼は一瞬だけ苦しそうに顔をゆがめた。
しくじったと思った。彼がこのまま踵を返してしまいそうな気がした。
それでも、私に向き合ってくれた。優しい人だったみたい。
眉間にシワを寄せながら、彼は私に語ってくれた。
「……俺のピアノじゃ、誰も感動しない。心を動かせないんだ。それに、俺なんかよりも遥かに上手い奴がいたんだ。それ聞いたら、ピアノも楽しめなくなった。だからだよ。
ピアノはもう、嫌いだ」
吐き捨てるようにそう言った。私の後ろのピアノを睨みつけながら。
でもそれは、何か違っているような気がした。
何が違うのかと聞かれても、よく分からないと答えてしまうけれど、それでも私は彼が言葉通りにピアノを嫌ってるとは思えなかった。
思わず質問が口をついて出た。
「それで、なんでピアノが嫌いになるんですか?」
私はしまったと思って、口を手で覆った。
彼の視線の矛先が私を向いたからだ。
「いや、だから――だから言ってるだろ! 俺のピアノは何処までも下手なんだよ! それこそ、楽譜に逆らって暗い雰囲気を塗り替えてしまうぐらいに! だから上手く弾けない俺が嫌なんだよ!」
なんとしてでもこう言わなければ、こう思わなければいけないと思ってるような発言だった。
その迫力に驚いて、私は怯んだ。肩を丸めて、身を守ろうとした。
そんな私を見て、彼は何か諦めた顔をして息を吐いていた。
なんとか引き止めたい。なんとか繋ぎ止めたい。なんとしてでも、この人はピアノと関わらなければいけない。
私はそう思って、振り向いて部屋を出ていこうとする彼のブレザーの裾を掴んだ。
「なんだ? どうせお前、俺が怖いんじゃないのか? 怖いならわざわざ近づかなくても――」
頭上からそんな声が聞こえる。頭だけこちらを向いているんだと思う。目を合わせることが出来ない。
でも、話さなきゃいけない。
「私に、ピアノを教えてください。あなたが嫌いなのは、あなたのピアノですよね? なら、私のピアノとは違います」
強気に出た雰囲気になってしまった……。でも、まだ押さなきゃいけない。
「なら、私のピアノを巧くさせてくださいよ。そうしたって、別にあなたの嫌いなものとは関係がないでしょう?」
お願いします。
私を――私達を助けてください。
笑うことを忘れてしまった私達を。死と向き合うことも出来ない臆病な私達を。
そのきっかけとして、お母さんのよろこびの歌を弾かせて下さい。
だから――――
「だから、私にピアノを教えてください」
私は顔を上げた。
今度こそ、彼の目を見た。
瞳孔が開いているように思えた。
しばらくして、彼は息を吐いて私から目を逸らした。そのまま気まずそうに頭を搔いていた。
「――――なんで俺なんだよ。もうちょっとあるだろ、なんか」
「いません。私は、運命というものを信じてみたいお年頃なんです」
私は呆れた様子の彼をじっと見つめる。
そう、これは運命。
彼の中で運命になってくれれば、きっと私に教えてくれるはず。
全ては私のため。
彼をなんとしてでもピアノ繋ぎ留めなければならないなんて、その場での勝手な思い付きだ。
思ったことは否定しない。
けれどもそれは弱い。
誰が何と言おうと、私のためで、私の欲だ。
見つめていると、彼は諦めたようだった。
「――――良いぞ。やってやる。俺がきちんと教えられるか分からないぞ」
「それでも良いです。あなたは少なくとも、私よりも上手そうですから」
了承してくれた……!
胸の中でずっと燻っていた何かが、完全に昇華したように晴れやかになった気がした。
これで音を届けられる。よろこびをお父さんに渡せるかもしれない。
嬉しさに浸るのも束の間、私は彼の名前すら知らなかった。もしかしたらこれから結構関わるかもしれないのに。
「あ、これから会うんだったら、名前、教えてくださいよ」
私がそう言い切ると、彼は頷いてすぐに答えた。
「俺は、
顎で指された質問に、私もすぐに返した。
「私は、
私はそう言って頭を下げた。謝罪も兼ねて。
これか自分のためにらあなたの時間を奪ってしまう私をどうか、許して下さい。
そしてもし、神様がいるとしたら私は今頼みたいことがあります。
――――私がこじつけたこの運命を本当にしてくれないでしょうか。
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