第4話 幻想は解ける
それから春音ちゃんは確実に僕がいる日に現れるようになった。本当にいつの間にか後ろに現れる。
ホラーゲームのようだ。
僕が驚く様子を少し楽しんでいる様子もある。
僕は次第に、この時間が好きになっていったような気がする。自分の気持ちもよく分からない。
どんな弾き方をしても、春音ちゃんはすごいすごいと拍手をしてくれる。それで僕の自己肯定感は本当に上がって仕方がない。
それと同時に、僕の冷静な精神はそれを危ぶむ。
――――お前が巧い訳がない。子供だから分かっていないんだ。耳がまだ肥えてないんだ。
そんな言葉が脳裏にちらつき、思わず浮かべていた笑みを絶やしてしまいそうになった。
出来れば、この夢を見ている少女には、僕は現実を見せたくなかった。
僕が落ちこぼれである、という現実を。
僕が下手な奏者である、という事実を。
僕は、純粋無垢な子供の夢を壊す様な真似をする、弱い人間になりたくなかった。
だから、虚勢を張る。
内心ではいつバレるか、ビクビクと怯えながら。
結局のところ、僕は弱かった。
それでも、僕はあの子の前に出る。
灯慧は僕の様子が少しずつ変っていってることに気付いているようだった。
灯慧はよく人を見てる。
今日も、春音ちゃんの所に訪れる日だった。
放課後、ぼーっとしながら窓の外を眺めていると、目の前の机に座った灯慧が話し掛けてきた。
「今日、行くのか?」
「……そりゃもちろん行くよ。約束だからね」
「お前の判断なら、別に俺は止めねぇ。だけども、それはお前の意志ではねぇだろ」
灯慧は冷ややかに僕を見つめる。
それは僕の心を透かして見ているようで、まさに的確だった。
灯慧には何でもお見通しだった。
長い付き合いをこれほど憎みたい時はない。
ただでさえ、灯慧のような人をよく見るような人が、幼馴染で親友だと。
僕は頬骨の辺りを指先で掻く。
灯慧は僕を見て溜息を吐くと、机から立ち上がった。
「それじゃあ行くぞ」
「……うん」
本当に、僕を見過ぎてる。
僕はその背中を追った。
もう五月も終わりに近い。
五月病はそろそろ卒業の時期なのだ。
少しだけ、僕の足は地面から跳ね上がったような気がした。
僕たちが毎度恒例と言わんばかりに、ストリートピアノへと歩んでいると、遠くから既に春音ちゃんがイスに座って、何か弾いているのが見えた。
珍しく既にいた事に驚きながらも、僕は春音ちゃんに近づく。
弾いている曲は、キラキラ星だった。
変奏曲が弾けるようになったら、どんな風に弾くんだろうな。
今の音は、やっぱり拙いと思う。
でも、子供らしい明るい音だった。
聴く人を笑顔にする力を持った、明瞭な音。
これに実力がついていけば、きっと僕なんかよりも遥かに上手なピアニストの誕生だった。
僕は直ぐ様その思考を追い出し、いつもの春音ちゃんがやるように後ろから声を掛けた。
「やっほー、春音ちゃん」
「うわっ!! えっ?! おにいちゃんか、びっくりした!」
春音ちゃんはイスから跳び上がりながら、僕の方を振り向いた。本当に驚いていた。
むしろ僕の方が驚いてしまった。
まさかここまで驚かれるとは……。
なんか……慌ててる? いや、気のせいか。
「そんな驚く?」
「びっくりしたよ!」
「そっか。ごめんね。珍しいね、こんなに早く来るなんて。一人だと危ないよ?」
「……だいじょうぶだよ!」
「そう? でも気を付けてね」
「うん!」
僕からの注意の言葉に、春音ちゃんは力強く頷いていた。
そのお母さんからは丁度連絡が来た。
内容としては、こっちに春音ちゃんが来ていないか、ということだった。
下の弟の面倒を見ていたら、いつの間にか抜け出していたらしい。春音ちゃん……本当にやんちゃだな。それともワンパクっていうのかな?
お母さんも大変だ。
簡単に抜け出せる状況にも色々と問題があるのかもしれないけど。もしくは、春音ちゃんの脱出能力が高過ぎるのか。
僕の役目は、春音ちゃんのお母さんが来るまで、ピアノを弾いて春音ちゃんをその場に引き留めること。まぁ……僕のピアノを聴きに来てるから、どちらかといえば春音ちゃんが脱出してるのは僕が原因みたいなところはあるけど。
それを黙っているのは、少し卑怯だろうか。
なんとなく――――というか普通に申し訳ない。娘が勝手に外に出て、親はとても心配するだろうな。普通はきっとそうなんだろうな。
そう思うと、春音ちゃんの姿は僕の目には尚更輝いて見えた。
春音ちゃんはじっと見つめてくる僕を不思議そうに眺め、やがてそれにも飽きたのかイスから下りて僕に近寄った。
「ねぇねぇ、ピアノはやく弾いてよ」
学ランの裾を引っ張られた。
僕は笑って春音ちゃんの顔を見た。
「いいよ」
そうして、僕はスマホを操作して春音ちゃんの母親に連絡した。
こちらにいるので大丈夫です。来るまで僕が見ておきます、ということを伝えた。
了解です、という返事が返ってきたのを確認すると、僕はイスに座った。
なにを弾いたものかと、僕は手を組んで裏返しながら腕を伸ばす。指の関節をパキパキと鳴らし、不意に思い付いた曲を僕は弾き始めた。
ショパン作曲、エチュードOp.10 No.5。通称、黒鍵のエチュード。
華やかなメロディと美しい旋律が奏でる世界は、まるで庭園にいるかのような雰囲気に聴く人を陥れる。僕としては、本当にこれが黒鍵だけで奏でられているのが甚だ不思議だ。
でも、実際に弾くと本当に黒鍵のみ。
本当に凄い曲だと、僕は思う。
だからこそ、僕なんかが弾いても、これの凄さが伝わらないような気がする。それこそ、天羽くんのような素晴らしいピアニストでなければ。
僕では表現し切れない。僕自身を。
僕が薄っぺらで何も表現するところがない、というのもあるけれど。
本当に――――僕は何にも持てない。
そんなだから、暗闇から抜け出せない。新月の夜に囚われるんだ。
僕が考え事をしながら弾くには、短過ぎる曲を僕は弾き切った。まともなことは考えていなかった。
それでも、ピアノを弾けたことは嬉しかった。
僕はいつも通りの明る過ぎる光を宿した瞳を見るために振り向いた。
しかし、その顔はいつもの明るさではなかった。むしろ暗かった。
僕ははっとした。
遂にもう僕の演奏を凄いと感じなくなったのか。
いつの間にか僕の演奏がつまらないことに気付いたのか。
僕の演奏はいらないのではないか。
そんな思考が渦巻いた。
おかしいな。そんなのはもうとっくに諦めたはずなのに。なんでまだこんな小さい子供に縋ってまでしがみついてるんだろう。
そんな僕の顔を見たのか、顔を上げた春音ちゃんは驚いたように口を開き、自分が何かしでかしたのかとこちらを勘繰るような目で見ていた。
「どうかしたの……?」
「……いや、なんでもないよ。今回の曲はあんまり気に入らなかったのかと思って」
「あっ、そんなことないよ! すごかった!」
「…………そう」
取り繕うような言葉に、僕は喉の奥から絞り出したような声しか出せなかった。
やっぱり、もう僕はダメだった。
見えていた光が急速に萎んでいくのを感じた。
まるで真っ暗な部屋のドアが開いて光が射し込んでいたのが、閉められて再び暗闇に戻ったようだった。
いや、それは違う。
きっとこれまでが幻想だったんだ。
僕のピアノなんかでこれだけ興奮してくれて、喜んでくれてたのがおかしかったんだ。
幻想が、解けたんだ。
そんな時、春音ちゃんのお母さんがやって来た。
「すみません! 今日もこの子を見てもらってて。いつの間にか脱走してて。どうやって出てるの?!」
「……ふん!」
「春音!」
「まぁまぁ。もしかしたら寂しかったのかもしれませんし、僕もピアノを聴いてもらえて良かったですよ」
「本当にすみません。何故か、この子はあなたが来る日しか出て行かないんですよね」
「あはは……なんででしょうね」
「本当に……」
そっぽを向いてしまった春音ちゃんを見ながら、春音ちゃんのお母さんは首を傾げる。
僕は愛想笑いをするしかなかった。
もう春音ちゃんは脱走することはないかもしれない。そうしたら、このお母さんもきっと少しは楽になるだろう。
たとえ、僕の光が失くなっても誰も困らないんだ。
僕は鼻から空気を外に出した。
いつも通り、春音ちゃんはこっそりと言えるかどうか微妙なラインで僕に近付いて尋ねる。
「つぎはいつ?」
「えっと……」
「木曜とかだ」
「じゃあ木曜だね」
「わかった!」
春音ちゃんはそう言って頷く。
僕も頷き返す。
やがて二人は手を繋いで向こうへと歩いて行った。それはそれは仲良さそうに。
僕はそれを手を振って見送った。
その手を下ろすと、僕は灯慧の方を向いた。
「さ、帰ろっか」
「そうだな」
僕の掛け声のようなものに、灯慧は首肯で返す。
五月末の空は既に暗くなっており、月が昇っていた。それは半月。
明るさは半分。暗さも半分。
これがどちらに転がるのか、僕には分からなかった。
きっと、僕の光は失われる。
なら、僕の行き先は決まっていた。
――――誰か僕を救ってくれないのだろうか。この
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
僕は家に着いた。
すっかり暗くなっている。家の中は暗かった。そして、息を吐けば白くなるのではないかと思う程、寒かった。
いや、これも幻想だ。
ただ僕がこの家を良く思っていないだけの話だ。
僕はさっさと上の階に上がる。
こんな暗闇にいては、僕の精神までおかしくなってしまう。おかしいのはピアノの前だけで良い。
静かな所では、闇夜を真昼に変えてしまう程の明るさを持ったあのピアノが聴こえてくる。かといって、僕はそれを自分のピアノで掻き消すことが出来ない。
――騒音が欲しい。
――光が欲しい。
僕は何も見えない。何も聴こえない。
新月の夜には、希望が見えない。
それは僕だけだろう。
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