好きなのはサクラ
七都あきら
アイドル
ナツは顔が極上に整った人で『ASKET』の中で、一番顔が良い人って呼ばれていた。
朔良が初めて彼に会ったのは大学一年生の頃。
大教室の一番後ろ、チャイムの音と同時に入って来たナツは、滑り込むように朔良の隣に座った。
すぐに講義が始まったから、芸能人のナツに気づいているのは朔良だけで、女の子たちの黄色い声が上がることはなかった。多分ナツは騒がれるのを見越して、ぎりぎりに入ってきたのだろう。
座った瞬間、目の前でレモンを切ったようなみずみずしい香りがした。変に押しつけがましい感じがなくセンスのある香水。
ただ、そのとき朔良は、とにかくお腹が空いていた。
隣にいる容姿の整ったアイドルを見て、今すぐレモンをかけた唐揚げが食べたいと、そんな失礼なことを考えていた。感性の問題かもしれないが、要は美味しそうな匂いの男だと思った。
前の席から回って来た出席票は、朔良が最後で自分の机の前に置いてあった。何も言わずに、そっと隣に出席票を回したら「ナツ」に春の日差しのように微笑まれた。
彼のファンなら講義の中、気もそぞろになっただろう。あいにく朔良は身内に芸能人がいる関係で、綺麗な顔も芸能人も見慣れていた。
(――
出席票に書かれた学籍番号を見て、一学年上の二年生だと、そのときに知った。
午後一の気だるい空気が大教室の中に満たされていた。
昼に演劇サークルの部室に顔を出していたせいで昼食を食べ損ね、今にもお腹が鳴りそうだった。朔良の周りにはナツが来るまで誰も座っていなかった。
誰だって身内以外に腹の音を聞かれたら恥ずかしい。
ぐーとか、もっと分かりやすく鳴ってくれればよかったのに。キュルルルルなんて、小動物の鳴き声みたいな微妙な音が鳴ってしまった。
聞かなかったことにして欲しいという朔良の願いは叶わず、隣から、ふふっと小さく笑う声が聞こえてくる。
ナツは笑いのツボに入ったのか机に伏して小刻みに震えて笑っていた。
――あの、よかったら、チョコどうぞ。サンプル品だけど。今度CM出るんだ。あ、でもまだ秘密ね。
鼓膜をくすぐるような声で、こそこそ耳元で囁かれた。これがアイドルのナツとの恥ずかしい感じの出会いで、朔良は人気アイドルに腹を空かせた男として認識された。彼が放つ微かな空気の振動を朔良が独り占めしていた。
手渡されたオシャレなクラフト素材の袋には、小さな板チョコが数枚入っていた。
顔がいい人に耐性があったはずなのに、ナツに耳元で囁かれた瞬間、ただのどこにでもいるファンに成り下がっていた。
辿々しく小声でお礼を言って口の中に入れたチョコレートの味はしなかった。舞い上がって味が分からないなんて、人生で初めての経験だった。
その講義の間は、ずっと英語のプリントに目を通しながら横目でナツを観察していた。
顎のラインがシャープで、首までスッキリしている。普通の大学生が髪の色を脱色したら、ボロボロにするのが関の山なのに、赤茶色に染めた色はツヤツヤと発光していた。マッシュヘアーにニュアンスパーマ。オシャレに興味のある男子大学生なら一度はチャレンジする。ただ理想とかけ離れた出来や、スタイル維持の難しさから、人を選ぶ。
朔良は自分でメンテナンス出来るとは思えないので、過去一度も染めた経験がなかった。それに母親譲りの光を通さない黒髪直毛は、アレンジヘアーには向かなかった。もし自分が「サクラ」という名前の通り女に生まれていたら、腰まで伸ばして黒髪ロングヘアーを楽しめただろうが男なのでその恩恵がない。清潔感以外は特にこだわりもなく、年中切りっぱなしだ。
(本当、こういう人が、芸能人なんだよな)
横目で観察しながら、思わず、ため息を漏らしていた。
ナツが学内で「神」って呼ばれているのを知っていたが、興味を持ってよくよく観察すれば、確かに、そういった選ばれた人のみに許される「何か」を感じた。
白のデザインカットソーに、シンプルな黒の細身のパンツ。大容量の灰色のデイバッグ。どこにでもいる量産型の大学生の格好なのに、彼が着れば全部が特別に見える。
「――まぁ見た目と本当の中身は、全然違うんだろうけど」
その日の帰り道、朔良は薄く雲がかかった空に向かって呟いた。春の空は、ふわふわと捉えどころがなくて、何だか今の何者でもない自分を見ているみたいだった。
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