第23話
体は疲れているはずなのに、二人はしばらく眠りにつけなかった。
同じベッドで寝ているのがまだ気まずいこともあって、バルドルはディアナに背を向けていた。
「……バルドル、寝た?」
「いや、まだ」
「そう。……ねえ、聞いていい?」
「うん」
「記憶の欠落が起こりはじめたのは、いつからなの?」
バルドルは少し間を置いてから、
「明らかに長い時間、記憶を失ったことを自覚したのは十五歳のあるときがはじめてだったな……。それまではごくたまに少しだけ時間が飛ぶっていうことしかなかったよ」
「十五歳のときに何かあったの?」
少し沈黙したのち、バルドルは答えた。
「姉が亡くなった」
重い空気にならないよう、バルドルはあえて淡々と言う。
「姉の葬儀の最中、その遺体を見た直後からの記憶がないんだ」
「……ごめんなさい、嫌なことを聞いてしまって」
ディアナは本当に申し訳なさそうに言った。
「いや、いいんだ」
ここで会話を切ると再び気まずい空気が流れそうなので、バルドルは話を続けた。
「多分、動揺したりすると記憶を失うんだと思う。動揺の程度にもよるんだろうけど。姉が死んだのは僕の人生で最も衝撃的なことだったから」
母も他界しているが、それはバルドルが幼い頃であり、死という概念があまり形成されていない頃のことだった。むろんその後、母がいないことで悲しい気持ちになることはあったが、衝撃でいえば、死がどういうものか完全に理解していて、なおかつ、ずっと一緒だった姉が亡くなったときのほうが大きかったのである。
「つらい現実から自分を守るために、心の防衛機能が働いて記憶が遮断されたのかしら」
「医師もそんなようなことを言ってたよ」
「とてもつらかったのね……。これから何か私にできることある?」
「今日のように記憶を失うことがあるっていうのを信じてくれれば、それでいいよ」
「わかった。信じるわ」
「ありがとう。……悪かったね、暗い話を聞かせて」
「いいのよ」
それから少しの間、二人は何も喋らなかったが、眠ってはいなかった。
ふいにディアナが、どこか儚げな声で口を開いた。
「――バルドル、あなたがつらい過去を話してくれたから、私も打ち明けてみようかしら」
「うん?」
「今日、私の異母兄の話をしたの覚えてる?」
「……ごめん、覚えてない。でも、ロアン王子とは別にもう一人お兄さんがいるのは知ってるよ。ライナス王子だよね?」
「ええ。そのとき、ライナスのことが苦手だって言ったんだけど、実際はさらに複雑で忌まわしい関係なの」
「忌まわしい関係……?」
バルドルは体をディアナのほうへ向けた。仰向けになっているディアナは視線を宙にすえていた。
「私がライナスを忌まわしく感じているって言ったほうがいいかな。ロアンとは違ってライナスは残忍だし、もともとあまり好きではなかったけど、それでも兄だから、仲良くしようとはしてたの。でも……」
彼女は一旦言葉を切り、ささやくような声で続けた。
「三年前――私が十四歳のとき、夜、私の部屋にライナスが急に入ってきて、寝ている私に迫ってきた」
まさか……。どくん、とバルドルの心臓が大きく鳴った。
「それから、私の服を無理やり脱がせて――あとは……わかるわよね?」
バルドルは思わず身を起こしていた。ディアナが何をされたのかはわかるが、何と答えたらいいのかはわからなかった。すぐには言葉が見つからなかった。あまりの恐ろしい話に、バルドルはただただ愕然とするばかりだった。
「もちろん嫌だったし抵抗はしたけど、十四歳だった私が、ブリタニアでも指折りの戦士のライナスに抗えるはずもなくて……」
ディアナの目は複雑な何かをたたえていたが、涙は流していなかった。
「……そのとき、助けは呼べなかったの?」
そう聞いてからバルドルは、自分をふがいなく感じた。もっと気の利いたことを言えないのか、と。
「ライナスが言ったの。助けを呼んだら、そいつを殺すって。それが侍女でも衛兵でも誰であろうと、助けに入ってきた奴の首をへし折るって……。ライナスは強くて、そして……とても残忍なのよ」
様々な思いがバルドルの胸中を満たした。ライナスに対する嫌悪感と恐怖。そして彼女をいたわしく思う気持ち。
「そのことは誰かに話したの?」
「父上だけにはね。ライナスの顔はもう見たくなかったから、父上に相談するしかなかった。当然、父上は激しくお怒りになったけど、ライナスは息子だし王都から追放する程度に留めるしかなかった。それも表向きは別の理由でね。ひとまずは、ライナスと顔を合わせずに済むようになっただけで、私は安心したわ」
ディアナも体を起こした。
「でも……ライナスとのことがあってから、男の人と触れるのが怖くなった。どうしても体が拒絶して震えることがあるの」
バルドルは思い当たる節があった。
「もしかして、ドラゴシュでの飛行中に体が震えていたのは、男の僕と密着してたからっていうのもあるのかな?」
彼女は遠慮がちにうなずいた。
「でも、バルドルが嫌だったっていうわけじゃないのよ? そこは誤解しないでね。空の怖さと寒さもあったからね」
バルドルはかすかに微笑んだ。それから気づかわしげに提案した。
「ライナスとのつらい経験のせいで、僕と同じベッドで寝るのが無理なら、僕は外に出ようか? ドラゴシュの翼にくるまったら僕は外でも眠れるだろうし……」
ディアナは片手をあげて首を振った。
「いえ、そうしてほしいから今の話をしたんじゃないのよ。なぜか話を聞いてほしかったというのもあるけど……そのう……」
彼女は珍しくわずかに口ごもり、そして顔をふせながら言った。
「ねえ……バルドル、私には本当の家族はもういないのよ……。ライナスとは確かに血はつながってるけど、今は兄とは思ってない。だから、ライナスには助けなんて求められない。ハーバートのところに行っても安心はできない。ノースモアランドのいとこのもとにたどり着くまではずっと不安だと思う……」
彼女は顔をあげてバルドルを見つめた。その緑色の瞳からは今や悲痛の光がもれていた。
「だから……バルドル、ノースモアランドに着くまで、そして叔父との戦いが終わるまで、ずっと私のそばにいてよ……。こうしてお願いするわ」
その目に見つめられて、その過去を知って、断れるはずがなかった。
「……わかった。そこまで言ってくれるんなら、君が王位につくまで僕はそばにいさせてもらうよ」
「本当に? 約束してくれる?」
「ああ、約束する」
「……ありがとう」
ディアナはこれまでで一番喜びに満ちた表情をバルドルに見せた。
それから二人は横になり、そろそろ眠りにつこうとした。
「本当に僕が同じベッドで寝ても大丈夫なの?」
「ええ、心配しなくても平気よ」
ディアナは優しい笑みを浮かべてつけ加えた。
「といっても、変な気を起こして私に抱きついてきたら、即座に部屋から追い出すけどね」
「……肝に銘じるよ」
そうして何ごともなく二人は眠りについたのだった。
……その夜、バルドルは夢を見た。胸騒ぎのする夢だった。
森が燃えていた。その森の中にバルドルはいる。あたりには兵士と思われる死体がいくつも転がっていた。
バルドルはその森を走っている。それが、自分であるのに自分ではない誰かのように思えた。
起きたあともバルドルはその夢のことを覚えていた。だが、ただの夢だったのか、本当にあった光景なのか、それが何を意味するのか、バルドルには判然としなかったのである。
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