第13話 対峙

 翌日、俺たちは入念に準備をした上で、例の老婆の家に向かっていた。

 結局、昨晩は影も悪夢も現れず、快適に過ごせたが、目覚めが良いとは言えない。今朝の食事はあまり喉を通らなかった。御子がいるとはいえ、あの老婆と直接対峙するというのは恐ろしい。何をされるのか、まったく予想が付かない。

 念のために、護身用の武器は鞄に潜ませているが──こんな物が役に立つとはとても思えない。


「あそこだ……」


 坂を登り切り、俺は昨日見たあの家を指差す。


「……なるほど、ね。あれなら蓮くんが見つけなくても、私が近くを通りかかっただけで、すぐ気付いたかも」

「ど、どういうことだ?」

「あそこ、だいぶ他とは雰囲気が違うよ。写真で見た以上に、嫌な気配が漂ってる」

「嫌な……気配か」


 何となくだが、俺にも分かる気がする。明らかにあの家は住宅街にあるにもかかわらず、周囲には馴染んでいないように見える。何というか──影がかかっている、って感じだ。

 立地的に、陽の光があまり当たらないというのもあるのだろうが、原因はそれだけじゃない。「陰鬱」──真っ先に脳内に浮かんだイメージはこれだった。


「じゃ、行こうか。蓮くん」

「今更、聞くのも何だが、どうするんだ?」

「どうするも何も、直接あの婆さんに呪いを止めろって直談判するだけだよ?」

「──ほ、本当にそれだけでいいのか?」

「どういう意味? それ?」

「い、いや……相手は何人も呪いで殺人をしてきたやつなんだろ? 警察とかにも行った方が……」


 直接、手を下しているわけではないかもしれないが、あの老婆が殺人犯という事実には変わりない。

 ふと、俺は考えてしまった。誰かが、公平な裁きを下すべきなのではないか、と。あまり、本当に俺たちで終わらせていい問題なのだろうか。

 殺された人たちには家族や親しい友人がいたはずだ。無念を感じたのは本人だけではなく、その人たちは今でも被害者のことを忘れられないはず。

 もし素直に、俺への呪いを解除したとして──果たしてそれで本当に許していいのか。然るべき報いというやつを、受けさせるべきではないだろうか。


「……そう。蓮くんはあいつのこと、許せない? 何人も殺してるもんね」

「──っ。普通は……そう考えるんじゃないか」

「確かに、野放しにしておくのは危険かもね。でも、法律じゃあいつを裁けないよ。日本の法律は呪殺なんて証明できないし、認められない」


 俺は言葉に詰まる。

 御子の言う通りだ。警察に突き出したとして、どうやって説明するんだ。あの老婆はこれまで呪いで何人も殺しています、証拠はありません。なんて話を──誰が信じる。門前払いされて、まともに聞き入れるはずがない。


「まあでも、蓮くんが望むなら、一つだけ方法はあるよ。そんなに許せないって言うなら、私が殺してあげる」


 御子は半笑いを浮かべながら、俺に視線を向けた。

 あの眼は──冗談じゃない。本気だ。きっと、俺が命令すれば、御子は何の躊躇もなく、老婆を殺すだろう。


「……いや、いいよ。そこまでしなくても。あんなやつの為に、御子が手を汚す必要なんてない」


 本心から出た言葉だった。

 確かに、老婆の行為は許せないが、それを清算するために、御子が手を汚す必要はどこにもない。あの老婆は現代社会では誰も裁くことができない。ある意味、無敵の存在なのかもしれない。唯一、その罪を問い質せる存在がいるとすれば──しかいないだろう。

 俺は──閻魔様に任せることにした。今はとにかくこの呪いを解除してもらうのが先だ。


「……そう。蓮くんがいいなら、私もいいよ。じゃあ、行こうか」

「……あぁ、そうだな」


 一歩、一歩、あの家に近付くにつれて、重力が増しているような感覚を覚える。いや、重力が増しているのではなく、俺の足が重くなっているのか、これは。

 とうとう、家の前に立つ。

 一軒家、二階建ての、とても立派な家だ。ちょうど、俺の背丈と同じ大きさの門はまるで外部の者を閉ざしているように見えた。全身から妙な圧迫感のようなものを感じる──吐き気まで感じてきたぞ。


「インターホン、押すよ?」

「……頼む」


 唾をゴクンと飲み込み、吐き気を抑える。ついに、ついに、この瞬間がやって来た。


 ピンポーン


 呼び鈴が鳴る。奇しくも、その音程は俺の心臓の鼓動と一致しているように聴こえた。


「…………」

「……出ない、な」


 一分程が過ぎただろうか。応答の声が聞こえることはなかった。

 居留守を使っているのか、本当に留守なのか。


「まっ、こうなるよね。素直に出てくれるとはこっちも思ってないよ」


 そう言うと、御子は──門を開けた。


「お、おい! 御子!」


 小声で彼女を制止する。


「どうしたの? 蓮くん、まさか……不法侵入だ、って言わないよね? こっちだって散々家の中に無断で入られたり、監視されたりしたんだからお互い様でしょ」

「……そ、それはそうだが」


 妙な説得力があった。御子はそのまま正面から堂々と侵入し、扉の前に立つ。仕方なく、俺も後を追った。


「……っ」

「ど、どうした?」


 扉の取っ手を握った御子は急に動きを止めた。


「……鍵、かかってないみたい」


 ガチャリ──と、老婆の家の扉が開かれた。


「……うっ⁉」


 扉を開いた際、最初に感じたのは──「臭い」だった。酷い腐敗臭のような香りが家の内部に充満しており、ブンブンと蠅が飛ぶ音がどこからか聴こえる。

 微弱だった吐き気が何十倍にも増幅され、体内から溢れかける。それは喉の寸前のところで止まり、俺は大きく息を呑む──酸っぱい風味が、口内に広がった。


「み、御子……これは……」


 御子の方を見ると、さすがの彼女でも耐えられない臭いなのか、大きく顔を歪ませて、家の中を睨んでいた。

 あのスーパーで嗅いだ臭いはこの残り香だったのか。しかし、何を腐らせたらこんな酷い臭いになるんだ。恐らく、俺の嗅覚は一生この臭いを忘れることはないだろう。間違いなく、生涯でこれを超える異臭の持ち主は現れることはないと確信できる。


「……行くよ。蓮くん」


 御子は鼻と口にハンカチを当て、玄関への侵入を開始した。

 お、おいおい、マジか。マジで、行くつもりか。この臭いの中を。正気の沙汰とは思えないが、そうこう言っている場合ではないのも確かだ。覚悟を──決めるしかない。


「うっ……ク、クソ」


 御子の後を追うように、口元にハンカチを当て、俺も玄関へと足を踏み入れた。

 一歩踏み入れただけで、臭いはより凝縮され、濃いものへと変化する。これ、有毒なガスが発生しているんじゃないか。聞いたことあるぞ。死体をそのままに置いておくと、そんなガスが出るって話。つまり、この家の中には──ッ。

 したくもない想像をしてしまい、俺の吐き気は限界を超え、耐えられなくなってしまった。


「うっ、お、おえっ」


 ビシャビシャと、口から嘔吐物が零れ落ちる。ちょ、朝食を控えたのは正解だった。あれ以上食べていたら、もっと酷い事になっていた。


「……大丈夫? 蓮くん」

「あ、あぁ……行こう」


 口元を拭い、俺は歩みを進める。

 胃酸の味が口中に広がる。臭いも合わさり、最悪な気分だ。

 その時、足元に何かが当たった。なんだ、何か──柔らかい感触がした。下を見てみると、スーパーの袋が目に入った。蠅が大量に止まっており、どうやらそれが、臭いの元であるということはすぐに察しが付いた。

 興味本位で、俺はその袋を足で少し蹴る。ガサリと、袋は大きく動き、その中身が露出した。


「……っ!」


 その正体は〝肉〟だった。

赤黒く変色し、カビがびっしりと生えていたが、間違いなくこれは肉だ。見渡すと、同じような袋がいくつも確認できる。

 これだけの生肉を腐らせたら、悪臭が発生するわけだ。ただ、これは──何の肉なのだろうか。スーパーでは鶏肉を大量に買っていたが、果たして、本当に、これは鶏肉なのか。

 一瞬、そんな思考が頭を過ったが、これ以上は考えないことにした。止めておこう。もう吐くのは御免だ。


「蓮くん、一階にはいないみたい」


 先に部屋を探索し終えた御子は階段の前で止まっている俺に報告する。


「後は……二階だね」


 そうか。俺は──てっきりあの老婆は今留守にしていると思っていたが、そうではない。まだ、この家に潜んでいるかもしれないのだ。

どこからか襲って来るかもしれない。ここは敵地だ。最大限の警戒をしないと。


 ギシッ

 ギシッ


 階段を上るたびに、木が軋むような音が響く。

 二階に到達すると、御子がピクリと肩を震わせた。


「ど、どうした?」

「──


 ぼそりと、御子は呟いた。

 その一言に、心臓が締め付けられるような感触を味わう。


「あそこに……いる」


 御子は奥の部屋を指差す。

よく見ると、その部屋は戸が半分開いており──人の声のような音が僅かに漏れている。それを見るや否や、御子は走り出し、一直線にその部屋へと向かった。

 御子は勢い良く引き戸を開いた。俺も急いで後を追い、御子の背中から、中を確認する。


 ──


「アァァァァァァッ……」


 あの老婆だ。戸が開けられたにもかかわらず、背を向き、俺たちの方には目もくれていない。

 老婆は──目の前にある神棚に手を合わせていた。妙な奇声を発しながら、腕を上下に振り、ただひたすらに祈りの動作をしている。

 な、なんなんだ。この光景は。不気味──としか言いようがない。家に漂っている悪臭すらも忘れてしまうような、奇妙な光景がそこに広がっていた。

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