獣人優位の世界へと

ホノスズメ

序章

第1話 無明霞

 ぽたぽたと滴る水玉が太ももにはりついたズボンに落ちる。おもむろに顔を上げると、女子はめんどくさそうに髪先をいじっていた。

 

「ご満足いただけましたか?」


 なおも揺るがない、昔のラジオのような平坦な声に女子たちはゾッと慄いた。

 水をかけた女子はバケツを落とし、その音を皮切りに目を背けて一人二人とトイレを出ていく。出口間際でふりかえった女子の主郭は、未知のものへの恐怖をはらんだ目をむけて一言置いていった。


「っきも……」


 物言わず後ろを見やると、濡羽色のブレザーを着た少年とも少女とも判別つかない人が真っ直ぐ目線を合わせてくる。その人——小野寺奈桜は自分の性別がどちらであるか知っていた。

 鏡にうつるはとても男には見えない。一言でいうなら儚い、そう印象づけられる。

 磨き抜かれた黒曜石の瞳はしかし、ずぶ濡れた髪や服とは対照的に平静をたたえている。常人であれば彼女らの行いに怒り、嘆き恨んで毒を吐いていたことだろう。上着を脱ぎ腕にかけた奈桜は、さも当たり前のように出入口に向かった。

 驚くことはない、それこそ奈桜の日常であったから。


————————————————————————————————————————————


「くちゅん」


 水抜きがあまかった。鼻をすすった奈桜は己の額に手の甲を当て、まだ微熱程度であることに安堵して髪先を凝視する。しっとり湿気を帯びている。保健室の新品タオルでも完全には濡れ気をぬぐえなかった証左である。絹糸のごとき髪を一本、指の腹でこすっても腹の滑りが悪い。


「奈桜ちゃん、どうしたんだい?」


 しゃがれた老婆の声にはっと顔をあげる。腕にカテーテルをつながれ、真白雲のベットに横たわり、心配げにそう言う白髪の老人こそ奈桜の養母であった。

 いつから起きていた。疑問がのどから出そうになり、慌てて目をそらして抑える。代わりに膝上でほったらかしにされていた林檎をつまんだ。


 「どうもないよ.......はいウサギ林檎」


 白で染め上げられた病室はどこまでも無機質で、眼前のそれを見つめて老女は黙した。奈桜の髪に浮き上がる天使の輪がいつもより輝いている。それは単に、彼の美貌を引き立てているわけではないことにまどろむ老女は息をつく。

 季節は春、帰りに奈桜が見舞いに来るのは毎日のことにもかかわらず頭だけが濡れている。彼女は頑として話そうとしないが、察するに余りある苦痛に間違いない。

 それを受け取って口に含む老女にふっと淡く口端をゆるめた。

 

「最近の林檎は甘いわねえ」

「それとなりの志村さんにもらったものだよ。青森まで行ってりんご狩りしてきた余りをね」


 小さなうさぎを頭からかじり、瑞々しい甘味を咀嚼した。それとなく目を合わせて老女は微笑む。

 できることは少ない。しかし、奈桜が一人で抱えることを決めているならそれは無粋な横やりになろう。心苦しくも古いといわれる考え方から脱却できないことに、老女はただこの時間が奈桜の安寧としてくれることを希求するほかなかった。

 せめて、せめてと……。

 しわくちゃの細面が憂いに陰っていることを察した奈桜は手早く荷物を背負って立つと、物言わず皿を縁台に置く。

 

「おばあちゃん、また来るね」

 

 背を向けた奈桜は無感動な言葉を残して出ていってしまった。老女はそちらを一瞥もせず沈黙する。情にひたる時間はあまりにも短く感じられ、慰めのいなくなった後には重いため息が夕刻の病室に落とされた。

 

「源蔵さん……」


 差し込む赤日が昏い寂寥を焼き尽くす。


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 人が人を道具として扱う、それは歴史上幾度となく繰り返され、その多くは悲劇を生んできた。反乱、謀殺、天災……。奴隷は常に苦しい立場に立たされ、魔女とよばれたものたちは教会から被人道的な迫害を受け、黒人は近代まで人権を認められることはなかった。

 現代でも名こそ変われど実態が等しい人々はごまんといる。会社のヒラやアルバイト、もっと穿てば雇用には人を値付けする側面まで存在する。

 人を物として利用することはもはや、人間の精神に刻み込まれたひとつの業のようなものなのだろう。

 奈桜が最初に違和感を覚えたのは幼少のとき、男の子と話していると、幼馴染の少年が『俺から離れんな!』などと怒鳴り散らかしてきて喧嘩になったことだった。あまりにも脈絡がなく、読み取れたのは幼馴染の言葉が明確に奈桜に対しての独占欲を形にしていたことで、当時の奈桜は怒り狂って絶交宣言までした。以来その幼馴染と話していないのは、良くも悪くも有言実行できてしまう彼の性質と言えよう。

 齟齬が合わない感覚を初めて正確に理解できたとき、物理的に冷や水を浴びせられた。彼女らの嫉妬と憤慨が如何にして解消されていくのか、五感を研ぎ澄まし奈桜は見届けると、好悪は消え、ストンと腑に落ちた。

 その日から奈桜はになった。

 当てもなく自分の世界を理解し、自分を使ってくれる人を探している。

————————それでも————————


「……はい、ありがとうございました」


 受話器をおろし、呆然と立ち尽くす。時刻は午後七時十四分、春の終わりには相応しくない寒天の夜のことだった。


「おばあちゃん……」


 道具ではなく人として扱ってくれた最後の頼りが逝ってしまった。心構えはしていたはずで、泣き崩れることすら許せなかった。

 廊下には居間からの明かりがもれだし、固定電話の液晶から光が消える。

 これでよかったのだろうか、そうひとりごちて黙考する。養父である源蔵の他界と同時に養母は体調を崩した。次第に衰弱していく彼女のそばでなにができただろう。まつげを伏せて振り返る。両親が幼い時に亡くなり、引き取ってくれた老夫婦は不思議なことに違和感どころか嫌悪感すら感じさせず、いつも温和に人というものを語ってくれた。『人は希望がなくては生きていけないんじゃよ、それを失ってしまうことは雪山の山荘で暖を失うことに等しいからじゃ』。

 断じたことばかり言って根拠を話さない養父がその時だけは話してくれた。

 それが頭から離れない。

 なんとなく家を出て夜道に繰り出す。奈桜はまだ学生であり、明日明後日で食い扶ちが怪しくなるわけではないが、どこかの施設に預けられるのは間違いない。家は……どうなるかわからない。

 見知った道をあてもなくさまよい、いつしか公園のベンチに腰かけていた。


「おじいちゃん、おばあちゃん」


 奈桜は孤独になってしまった。うなだれて考えることを放棄する。後悔、怨恨、葛藤、不安、喪失、そのすべてが混ざり合っているようで、そのどれでもないような感覚が胸をつきあげて爆発しそうになる。だがそれは許さない、許せない。吐き出してしまえば純粋な道具になってしまう気がして、思い出を忘れ去ってしまう予感に吐き気がするほどのなにかを抑えこむ。

 気づけば、周囲は霞に覆われ一寸先の視界も奪われていた。

 

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