9.共鳴

「あんな脳筋バカ、まともに相手していられるかっての」


 クルーデーリスから逃れたヘルメスは、シルフの補助で白い箱のような家々の上を軽々と駆け抜ける。

 リコリスが連れていかれてからまだ精々十分程度。充分追いつける範囲内だと判断したヘルメスは、クルーデーリスが追いつく前にリコリスを奪還してしまおうと最短距離でリコリスを追っていた。


「ヘルメス、こっちよ」


 シルフはヘルメスの補助に回っているので、先導するのはウンディーネ。彼女が近隣の精霊たちの情報網を使ってリコリスの居場所を教えてくれる。


「いた!」


 入り組んだ裏路地を走る三人の男。うち一人は大きな麻袋を背負っていた。


「ザラマンデル、お願い」


 ヘルメスの呼びかけに、柘榴石ガーネットの首飾りの中からザラマンデルが飛び出した。ザラマンデルは男たちの前に躍り出ると、挨拶とばかりに軽く火を噴く。


「うわっ!」

「熱っ! 魔術師か⁉」


 精霊が見えない男たちには、何もない空間から突然炎が出現したように見えていた。魔術師の攻撃かと慌てて立ち止まり、ビクビクとあたりを窺う男たち。しかしいくら目を凝らそうとも、ただの人間である彼らには目の前で浮遊するザラマンデルを見ることはできない。

 ヘルメスは気味悪そうに周囲を見回す男たちの背後に降り立つ。


「ねえ、おじさんたち。リコリス、返してくんない?」


 忽然こつぜんと姿を現したヘルメスに、振り返った男たちの肩が一斉にびくりと揺れた。

 クルーデーリスをどうにかしてここへ来たという事実に、ヘルメスを見る六つの瞳には驚愕と恐怖が浮かんでいた。この男たちはあくまで運び役で、クルーデーリスのような戦闘力は持っていない。だから、ヘルメスに恐れを抱いた。

 そんな彼らに向かって、ヘルメスはにっこりと微笑む。


「ねえ。リコリス、返して」


 とどめの演出とばかりに、ヘルメスはザラマンデルの炎を自分の周りに散らすと、一歩、また一歩と男たちに近づいていった。微笑みは絶やさず、しかし、「動いたら炭にするぞ」と無言の圧力をかけながら。

 けれど、男たちも簡単には引かない。というより、引けなかった。もしここで職務を放棄してしまえば、後でクルーデーリスに何をされるかわからない。最悪、殺される。


「お前は行け。ここは俺たちが食い止める」


 麻袋を担いだ男をかばうように二人の男が前へ出た。それを受け、麻袋をかついだ男が走り出す。


「逃がさない、ザラマンデル!」


 逃げる男にザラマンデルを差し向け、炎で押しとどめる。

 その一瞬、逃げる男に気を取られた一瞬の隙をつき、二人の男がヘルメスに飛びかかってきた。クルーデーリスほどの戦闘力があるわけではないが、アワリティアの私兵である以上、少なくとも一般人よりは訓練されている。そんな二人に同時に攻撃され、ヘルメスは内心焦っていた。


 本当はあの演出で逃げ出してほしかった。はっきり言ってヘルメスには、そんな大層な戦闘力などない。戦闘に関しては素人、残念ながらほぼ精霊頼み。

 そして、精霊を使役するのは無償むしょうではない。当たり前だが、彼らに供給する魔力が必要になる。しかし残念ながら、もともと普通の人間だったヘルメスには魔力などほとんどない。

 今、精霊たちを動かしているのは、トートから受け継いだ守護石の魔力だけだった。だからヘルメスは、戦闘でなるべく魔力を使いたくなかった。他の亜人や才能のある精霊術師、ましてや魔素を糧に生きる石人などと比べたら、元がただの人間だったヘルメスの魔力など無いに等しい。守護石に貯められていた魔力が切れたら、あっという間に無力になってしまう。

 けれど、そんな泣き言を言っている場合でもなく。二人の攻撃をシルフの補助でかわしつつ、ヘルメスはウンディーネに呼びかけた。


「ウンディーネ、お願い。でも、出来れば……」

『わかっているわ、殺さない。大丈夫、ちゃんと加減するから』


 精霊の声が聞こえない男二人には、ヘルメスが意味の分からない独り言を喋っているようにしか見えなかった。しかし何かを感じ取ったのか、二人は瞬時に間合いを取った。


『ちょっと苦しいわよ』


 ウンディーネは男たちに向かって腕をかざした。すると男たちの首から上に、どこからともなくこんこんと水が湧きだしてきて。


「な、なんだ!?」


 慌てふためき、水を取り払おうとする男たち。しかし水は男たちの顔を包み込むように、どんどんとその水位を増していく。やがて水は口もとを覆い、男たちは苦しみもがき始めた。

 呼吸できない苦しさで、逃げようとしていた男も麻袋を投げ出した。


「リコリス!」


 ヘルメスは麻袋に駆け寄ると、中からリコリスを引きずり出した。気を失っているのかぐったりとしていたが、怪我がないことに安堵する。


「あ、やば……」


 リコリスの無事を確認したその瞬間、ヘルメスの視界がぐにゃりと歪んだ。途端、男たちの顔を覆っていた水が消え失せる。彼らは咳き込みながらもゆらりと立ち上がり、真っ赤な顔でヘルメスを憎々し気ににらみつけた。


「最悪だ。あの脳筋バカのせいで……使い過ぎ、た。魔力切れ……だ」


 暗く狭くなる視界、薄れゆく意識。その中で、それでもリコリスだけは取られまいと、ヘルメスは彼女を強く抱きしめた。

 ヘルメスの突然の変調に自分たちの有利を感じ取り、一転、にやにやと嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべながら男たちが近づいてきた。魔力が切れて精霊の力を借りられないヘルメスでは、意識を失っているリコリスを抱えて逃げることなど到底できない。ヘルメスはただ悔しさに唇をかみしめながら、見下ろしてくる男たちをにらみ返すしかなかった。

 男の一人はヘルメスに見せつけるようにナイフを取り出すと、笑みを浮かべたままそれを振り下ろした。


「ぐはっ!」


 しかし、男の振り下ろしたナイフはヘルメスに届くことはなかった。それどころかヘルメスを傷つけようとした男は今、壁に叩きつけられて伸びていた。


「ヘルメス傷つける……ゆるさ、ない!」


 今にも意識が飛んでしまいそうなヘルメスの耳に飛び込んできたのは、出会ってから初めて聞くリコリスの怒りの声だった。それはヘルメスとの口論のときとは違う、鮮烈で純粋な怒りだった。


「嫌い。みんな、嫌い! 人間も、石人も、みんなみんな、大嫌い‼」


 リコリスの怒りと共に、ヘルメスの中にけつくような魔力が流れ込んできた。それはヘルメスを通して精霊たちにも注がれてしまい、瞬く間に怒りの魔力にあてられてしまった精霊たちから嵐のような激しく荒ぶる気配が伝わってきた。


「落ち着いてリコリス、みんなも! ザラマンデル、戻って。シルフもウンディーネも‼」


 しかし、暴走を始めた精霊たちにヘルメスの声は届かない。ヘルメスから伝わったリコリスの魔力を得て、精霊たちは激情のまま荒れ狂う。

 シルフの暴風とウンディーネの水で、この一帯だけ大嵐となっていた。しかもそこへザラマンデルの炎とグノームの石つぶてまで加わり、一帯は水と石の雨に炎、そしてもうもうと立ち込める水蒸気でめちゃくちゃになっていた。

 窓ガラスの割れる音に住人の悲鳴。路地裏とはいえここは町中。こんな大騒ぎが放っておかれるはずもなく、あっという間に野次馬が集まってきた。皆巻き込まれるのはごめんとばかりに遠巻きに、けれど好奇は隠すことなく眺めていた。


「リコリス! もう大丈夫だから。これ以上はだめだ」


 いくらリコリスが亜人でヘルメスより魔力を持っているとはいえ、癇癪をおこしたまま無茶な放出を続ければ遠からず魔力切れをおこす。なによりこのままではクルーデーリスに追い付かれ、魔力がきれたところでリコリスが連れていかれてしまう。


「リコリス、ごめん!」


 ヘルメスはリコリスの頭を両手で掴むと、思い切り頭突きをした。

 まぶたの裏に星が飛び、鼻の奥からじわじわとなんとも言えない痛みがわき出てくる。じんじんと痛むおでこに手を当てリコリスを見れば、彼女はぽかんとした呆け顔でヘルメスを見ていた。

 ヘルメスの予想外の行動に驚いたのか、もしくは痛みによるものなのか。とにもかくにも、リコリスの暴走は止まった。


 幸いこの一帯は今、立ち込める水蒸気でいちじるしく視界が悪くなっている。リコリスを連れ去ろうとしていた男たちもいつの間にか姿を消していて、逃げるなら今だとヘルメスはリコリスの手を取り強制的に立ち上がらせた。


「行こう、リコリス。ぐずぐずしてるとまたあの脳筋戦闘バカが来る」


 蒸し暑く息苦しい水蒸気の中、ヘルメスはリコリスを連れて走った。リコリスから流れ込んできた魔力のおかげで魔力切れの苦しさからすっかり解放されたヘルメスは、暴走状態から解放されたシルフとウンディーネの力で水蒸気の流れを調節し、姿を隠しながら路地裏を駆け抜ける。

 しばらくすると大通りが見えてきた。そこで一度立ち止まると、ヘルメスは自分のフード付きマントを脱ぎ、リコリスに着せた。そして頭巾を深くかぶらせると、人目をひく真っ白な髪を覆い隠す。


「ここまでくれば、家まであとちょっとだから。少しだけ我慢して」

「……ヘルメス、ごめんな、さい。わたしの、せい」


 真っ青な顔で謝るリコリスに、ヘルメスは笑いながら首を振った。


「リコリスのせいじゃないよ。それにそもそも、追われる原因作ったの僕だし。ほら、僕、誘拐犯だから」

「ヘルメス、悪くない。わたしが、連れてってって……」

「うん。だけど決めたのは僕だから。僕がリコリスをあそこから連れ出したいって思ったんだ。リコリスと一緒にいたいって思った。だから、誘拐しちゃった」


 悪戯っぽく笑うヘルメスに、リコリスは胸の奥がむずむずとしてきた。くすぐったいようなその感覚のせいか、鼓動がいつもより早い。そしてなぜか、ヘルメスと手を繋いでいることが急に恥ずかしくなってきた。


「さ、行こ。帰ったらすぐ出かけるから、なるべく急ごう」


 ヘルメスはもじもじするリコリスに、ことさら明るく話しかけた。それはリコリスが自分を責めないようにと気を遣ってのことだったのだが、残念ながらその気遣いは少々見当外れだった。


 大通りからは何事もなく、ヘルメスたちは無事家まで戻ってきた。

 そして家に入るなり、ヘルメスは先ほど投げ出したままだった荷物を漁ると、中から適当な服を取り出してリコリスへ渡した。


「ごめん、時間ないからなるべく急いで着替えて。で、着替え終わったら地下に来てね」


 それだけ言うと、ヘルメスはバタバタと一人先に地下の部屋へと行ってしまった。リコリスは着替えるため居間に入り、渡された服を長椅子の上に広げてみる。

 そして思わず、息をのんだ。


 木綿の真っ白なブラウスは胸元に細かくひだが寄せられシャーリング加工されていて、七分丈で絞られた袖口は刺繍レースで彩られている。胴衣ボディスの前面、紐を締める部分は深緑色で赤い花が刺繍されており、それ以外の部分は生成色ベージュの生地で、すそはぐるりとレースで飾られていた。赤いスカートはたっぷりとしたひだがとられていて、くるりと回ればふわりと花のように広がる。


 塔から出ることができなかったリコリスは、こんなに凝った服を着ることなど生まれてこのかた経験したことがなかった。あそこで着ていたのはもっと地味で、とにかく簡素で実用的なもの。

 リコリスは胸をどきどきさせながら、真新しい服に袖を通した。刹那せつな、頭をよぎったのは母の顔、そしてボロボロの指先。

 母は与えられるリコリスの服があまりに質素すぎると、だからせめてと言って、不器用だったくせに毎回毎回刺繍を入れてくれていた。それは引きつれてずいぶんと不格好だったが、リコリスは母が入れてくれるその不格好な刺繍が大好きだった。


「……おかあ、さん」


 しかしそれらの宝物は、リコリスの母が死んだときに全部処分されてしまった。すでに寸法が合わなくなっていたというのもあるが、その本当の理由は、リコリスが大切にしていたものだからだとリコリスは思っている。

 アワリティアの人々は皆、リコリスをうとんでいた。母をたぶらかした石人にそっくりなリコリスが気にくわない、白い髪が気持ち悪い、赤い目が気持ち悪い。そうやってリコリス自身にはどうすることもできない理由で、リコリスをおとしめていた。

 そのことに反抗したこともあった。けれど口答えをすればより酷い仕打ちを受けることになり、ともすれば殴られた。だからリコリスは口を閉ざすことにした。何も言わず、何も見ず、必要最低限の反応しか返さない。母が死んでから四十年、リコリスはそうやって自分を守ってきた。


 リコリスは長椅子に置いてあったレプスを抱き上げ、そっとなでる。先ほどは後先考えず飛び出してしまい、大切なレプスを置いて行ってしまった。母との思い出の品は全部処分されてしまったため、このレプスがリコリスに残された母の唯一の形見。

 リコリスはレプスをぎゅっと抱きしめると、ヘルメスの待つ地下へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る