16.自覚
ミオソティスは己の先ほどまでの無神経な言動を思い返し、今更ながら反省していた。
ロートゥスの気持ちも考えず、好き勝手勢いで喚き散らした挙げ句、泣かせてしまったと。
「ごめんなさい。私、その……」
謝罪の言葉を口にしたミオソティスに、ロートゥスが不思議そうな顔を向ける。
「なぜ、謝るの?」
「ロートゥス様のお気持ちも考えず、私、自分のことばかり……」
「それを聞いたのはわたくしよ。あなたはそれに答えただけ。それを、なぜ謝るの?」
「それは……」
口ごもるミオソティスを見ていたロートゥスの顔から、ふっと表情が消えた。
「もしかして、オルロフ様を奪ったなどと考え、わたくしを憐れんでいらっしゃるのかしら?」
ミオソティスはとっさに「そんなことはない」と言おうとしたが、厳しいロートゥスの表情に思わず言葉をつまらせる。
「ミオソティス様、それは思い上がりというものです。わたくしはあなたに同情される
「も、申し訳ございません」
すっかり委縮してしまったミオソティスに、なおも冷たい視線を突き刺すロートゥス。彼女は一度目を閉じると深呼吸し、姿勢を正すと再びミオソティスを見据えた。
「いいですか? まだ行動さえ起こしていないあなたには、わたくしに同情する資格はありません。どうしてもわたくしを憐れみたいと仰るのでしたら、まずはその思いの丈をぶつけて、オルロフ様のお気持ちを手に入れてからにしてください」
ロートゥスはそこまで一気に言い切ると、最後に「もしも玉砕してしまったその時は、このわたくしが慰めてあげますわ」と言うと悪戯っぽく微笑んだ。
「ありがとう、ございます。……私も、きちんと伝えます。伝えて、でもだめだったら、その時はお願いします」
ミオソティスは一礼して顔を上げた。するとそこには、今さっきまであったはずの日向のような微笑みは消え失せ、あの歪な笑顔があった。
まるで人が違ってしまったようなロートゥスの変化に、ミオソティスはなんとも言えない違和感に襲われる。しかし、そんなミオソティスの動揺など気にすることなく、ロートゥスは
「ここ最近ね、会う度にオルロフ様があなたのことを愚痴っていらっしゃったので、一度本人にお会いしてみたいと思っていたの」
目は笑っていないのに、口はこれでもかと笑みの形を作っている。見ていると、とても不安になってくるような笑みを浮かべるロートゥス。つい先ほどまで友好的だったロートゥスの急な態度の変化に、ミオソティスの笑顔が引きつる。
「申し訳、ございません。その、ロートゥス様にそのようなご迷惑をおかけしていたなんて」
「そうね、とても不快だったわ。だって、何とかして気を引こうとしていたわたくしの目の前で、オルロフ様ったらとても楽しそうにあなたのことを話すのだもの」
ロートゥスの笑顔が怖い。
ミオソティスは今、今日一番の恐怖を感じていた。ロートゥスは一体自分をどうしたいのか、何の目的でここへ呼んだのか。ころころ変わる彼女の考えていることが全く読めず、次にどう動いたらいいのかがわからない。
「だからね、一度その者をわたくし自身の目で見てみたかったの。そして、それがオルロフ様に害なすような者であれば排除も
薔薇色の
ミオソティスは情緒不安定なロートゥスの様子にどう対応すればよいかわからず、ただ困ったように眺めていた。しかし何がツボにはまったのか一向に笑い止まないロートゥスに、もしかしたら自分はからかわれていただけなのではないか、という可能性に思い当たる。するとそうとしか思えなくなってきて、ミオソティスは頬を膨らませると、不服の表情でロートゥスを見上げた。
「ごめんなさい、そんなに怒らないで。だから、ね? その
「……怒ってなどいません。ええ、例え子栗鼠などと子供扱いされてからかわれたのだとしても、実際ロートゥス様の方が私より大人ですから」
よくわからない恐怖を押しやって、なんとか冗談だということにしたくて、ミオソティスはロートゥスにわざと拗ねた口調で返した。するとその台詞に、ロートゥスがにっこりと笑みを深める。
「あら、それは私のことをおばさんだと言っているのかしら?」
「ち、違います! そういう意味では――」
にわかに慌てだしたミオソティスを見て、ロートゥスはまたもや吹き出す。どうやら本当にからかわれていただけのように思え、そうなるとミオソティスは怒ればいいのか謝ればいいのか、わからなくなってしまった。しかし、今の雰囲気は先ほどの居心地の悪いものよりはずっといいと思った。
ひとしきり笑い、ようやく落ち着きを取り戻したロートゥスが居住まいを正す。
「ミオソティス様。本日はわたくしのわがままにお付き合いくださり、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ色々お話しさせていただき、ありがとうございました」
それきり、二人の間にしばしの沈黙が降りる。
その沈黙にいたたまれなくなったミオソティスが口を開こうとしたその時、ロートゥスが口を開いた。
「わたくしは、あなたがとてもうらやましかった。かつてわたくしが持っていたものを
うらやみこそすれ、うらやまれる覚えのない相手からの思いもよらない言葉に、ミオソティスは思わず目を見張った。ミオソティスから見れば、ロートゥスの方こそたくさんのものを持っていると思っていたからだ。しかし強い
「かつて、わたくしがまだ無邪気にオルロフ様をお慕いしていた頃は……少なからず、オルロフ様もわたくしを愛してくださっておりました。」
――愛してくださっておりました
その言葉を聞いた瞬間、ミオソティスの胸に鈍い痛みが走った。思わず胸を押さえるミオソティス。
しかしロートゥスはそんなミオソティスを一瞥すると、そのまま独白めいた言葉を続けた。
「いえ、今も確かに愛してはくださっているのでしょう。……それが、家族へ向ける親愛だったのだとしても、わたくしは満足しておりした」
『家族へ向ける親愛』という言葉を聞いた瞬間、ミオソティスの胸の痛みは嘘のようにひいた。そして代わりに胸を占めるのは、じわじわとした歓喜。そんな自分の心の変化に、ミオソティスは愕然とした。
自分のために誰かの不幸を望み、それが叶った時には喜びを感じる。そう、それはまるで……
――まるで、嫉妬。
どろどろとした汚泥のような気持ち。これは――嫉妬――だ。
自覚した途端、ミオソティスは今までの自分の気持ちと行動がようやく理解できた。オルロフやロートゥスに感じていたもやもやとした気持ちや痛み、些細なことに感じた怒り、ロートゥスの失恋に感じた仄昏い喜び。
そう。それらは全て、嫉妬からくる気持ちだったのだ。
今まで家族以外の他人との関わりが希薄すぎて、あまり感じたことがなかった感情。本で読んだ時、なんて恐ろしいのかと思っていた感情。それがいつの間にか自分の心の中に芽生えていて、しかもこんなにも大きくなってしまっていたことに、ミオソティスは
「……あら? ミオソティス様、お顔が真っ青だわ」
ロートゥスはミオソティスを再び椅子に座らせると、その背をゆっくりとさする。しかし、ミオソティスは両手で顔を覆うと自分の膝に頭を乗せ、そのまま動かなくなってしまった。
しばらく重苦しい沈黙が続いた後、やっと顔を上げたミオソティスが震える声で話し始める。
「私、ロートゥス様の話を聞いて……喜んだんです。オルロフ様がロートゥス様に向けていたのが家族への愛情だと聞いて、よかった……って」
しかしうつむきながら話していたミオソティスは彼女のそんな表情に気づくことなく、そのまま
「私はいつの間にか、自分のために他人の不幸を願うようになっていました。……怖いんです。いつかこの感情で、大切な人をも傷つけてしまうんじゃないかって」
思いつめた顔で語るミオソティスを見つめ、ますます嬉しそうな笑顔を浮かべるロートゥス。
顔を上げたミオソティスはそこでやっとロートゥスの笑みを目の当たりにし、初めて会ったとき彼女に感じた不安を思い出した。その怯えが伝わったのか、ロートゥスは慌てて表情を取り繕うと、気まずげな微笑みを浮かべる。
そして彼女は一度深呼吸をすると、少し間をおいてから話し始めた。
「確かに嫉妬は怖い感情だと思います。過ぎれば悲劇を生むこともあるでしょう。けれど、同時に不可欠な感情でもある。わたくしは、そう思うのです」
あの歪な笑みはすっかり消え失せ、理知的な瞳で語るロートゥス。そんな彼女の姿に、ミオソティスはさっきのは自分の見間違いだったのではないかとさえ思えてきた。そして、家族以外の意見も聞いてみたいという好奇心から、つい質問を重ねてしまう。
「でも、私が読んだ本では、主人公は嫉妬の末に想い人を殺してしまいました。だったらそんな感情、持たない方が幸せなのではないでしょうか? 現に私はついこの間まで、こんな強い感情など知らずに過ごしてきました」
するとロートゥスは、穏やかとも虚ろとも見える凪いだ瞳でミオソティスに問うた。
「では、あなたは何も知らなかった頃の自分に戻りたいの?」
その言葉に、ミオソティスは反射的に首を横に振っていた。
確かにオルロフと出会う前のミオソティスの毎日は平穏だった。しかしそれは言い換えれば、変化のない退屈な日々だったということだ。幸せだけど何かが足りない、凪のような毎日。
「……戻りたく、ないです。嫉妬みたいな感情、ない方がいいと思ったのに。なのに、あの頃に戻りたいとは思えない。誰かを傷つけるかもしれない感情なのに。とても怖いのに。それでも、忘れてしまいたいとは思えない。痛くて苦しいけど、でも…………」
途切れ途切れのそれを、だた黙って聞くロートゥス。
そしてミオソティスの言葉が完全に途切れた時、一人の侍女がロートゥスに呼ばれてその傍らに
侍女と一言、二言、言葉を交わした後、ロートゥスは固く組まれたミオソティスの指を解きほぐし、その手に何かを握らせた。
真っ赤な、日輪のような花が、ミオソティスの手の中にあった。
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