国王ラァゴー
ルィヒは王宮に入ると、まず、
温度や湿度、それに、風通しの良さなど、人間が生きていくのに必要な環境が整っている赤竜の体内でも、さすがに自然と湯が
湯浴みを終えると、ルィヒは
〈謁見ノ間〉は、国王が各地の領主を招いて
入り口の大扉に施されている、最初の王となった始祖がこの地を見つけ、先住民族との融和や汞狼族との戦いを経てクィヤラート王国を作り上げるまでの歴史を記した彫刻を見上げてから、ルィヒは取っ手を引いた。
扉につけられた鈴がチリン……、と鳴り、部屋の奥で椅子に腰掛けていた男がゆったりと立ち上がった。
さほど大柄ではないのに、向かい合った時、思わず息をのんでしまうような静かな凄みがある。幼い頃から乗馬と武芸を好み、戦で国土を切り
この男が、現在のクィヤラート王国の頂点に君臨する国王・ラァゴーだった。
「よくぞ参られた。──〈
ルィヒはにこっと微笑み、その場にひざまずいた。
「再び、こうして殿下にまみえる栄誉をお許しいただいた
事、心よりお礼申し上げます。〈
ラァゴーは重々しく頷いた。
「ただ一人、赤竜に
ラァゴーはそこで、いかにも気恥ずかしそうに咳払いをした。
「──堅苦しい挨拶は、この辺りで。どうぞこちらへ。美味い酒を用意させていますよ」
食卓には、新鮮な魚のつくりを酸味のあるタレであえたものや、砕いた木の実で風味をつけた
ルィヒが席に着くと、二人の侍女が
透きとおった硝子の酒杯には、みずみずしい果物がしきつめられ、侍女はその上から濃い色の
「ここ数年は葡萄が豊作でしてね。ちょうど
「ありがたい事です」
ルィヒはそう答えたが、微笑んでいるのは口元だけで、顔には暗い影が
器にも中身にも
ルィヒの表情に気づいたラァゴーは、
「
「あまり、変わりはありません。医者が少なく、薬も行き渡っていない辺境では、クィヤル熱に罹る民も、それが原因で命を落とす民も多くいます」
「病に罹る者に、何か、共通点のようなものは……?」
「王がご覧になって、すぐにそれとわかるような特徴は存在しないかと」
そう言った後で、ルィヒは片手で顎をつまみ、目を細めた。
「ただ……、そう、
「なるほど……」
ラァゴーは頷き、酒を口に含んだ。
「王都だけに目を向ければ、クィヤル熱は、ほとんど終息したように見える。しかし、実際には、支援の足りていない地域がまだまだある、という事ですね」
「この国の流通の
ルィヒは酒杯を口に運ぼうとして、途中でそれを止めた。
「そう……。頭では、そうわかっていても、実際に家族を失った民の姿を目の当たりにすると、わたしは、冷静さを欠いてしまいそうになります。特に、身ごもっている間にクィヤル熱に罹ったせいで、子が流れてしまった母親を見た時など、本当に……」
ルィヒは最後まで言い終える前に目をつぶり、椅子の背もたれに体をあずけた。
そのまましばらく、何も言わずにうつむいていたが、やがてひとつ深呼吸をすると、静かなまなざしをラァゴーに向けた。
「〈ロウミの冠〉と呼ばれる者達をご存知ですか?」
ラァゴーは眉を曇らせ、きっぱりと首を振った。
「いや、きいた事がありません。ロウミというのが、〈魂滌ぎの賜餐〉で使われる薬草だという事は、もちろん知っていますが」
「〈
ルィヒは、暗い窓の外に目を向けた。
「……〈
ルィヒが話し終えると、ラァゴーは黙って立ち上がった。
そして、ゆっくりと窓際まで歩いて行き、外を眺めながら、訊ねた。
「王都で、新たな感染者がほとんど出なくなった理由を、考えた事がおありですか?」
ラァゴーは月を仰いで、ルィヒに背を向けたまま話し始めた。
「まさに、貴女のおっしゃったとおりです。王都の民は、栄養のある食事を口にし、質の良い薬も買う事が出来る。──単純な事です。何か、特別な対策を講じたわけではない。そんな事すら、辺境の街では難しいというのなら……」
ラァゴーは振り返り、鋭いまなざしでルィヒを見た。
「より多くの食糧と薬を、すみやかに、すべての領地に届ける。我らが
ラァゴーが何を言わんとしているのかを悟って、ルィヒは思わず目をそらしたが、彼は構わずにルィヒに近づいてきて食卓に手をついた。
「赤竜を軍事転用するという話、どうしても、首を縦に振ってはくださらぬか。貴女の同意なしには進められない話なのだ」
「…………」
ラク砂漠から、北の海峡を越えた先にあるダムシヴー帝国と、ラァゴーがひそかに同盟を結ぶ事を考えているという話は、前回、王都に帰還した時に聞かされていた。
まだ四十半ばの血気盛んな皇帝が治めるダムシヴー帝国は、ここの所、他国へ攻め入る事をくり返して領土を拡大している。海とラク砂漠、そして、クィヤル熱という三つの障壁に守られているクィヤラート王国は、今は蚊帳の外だが、標的になるのは時間の問題だ。
ラァゴーは、その状況を逆手にとって、攻め込まれる前に同盟を持ちかける事を思いついたのだ。
(王の言う事は、
ルィヒは、膝の上できつく手を握りしめた。
もはや、〈
病を根本から断ち切るために、今までとは違う形で赤竜を役立てたいと望むのなら、ラァゴーの求めに応じるべきだとわかっていても、心から敬愛し、慈しんでいる赤竜が、他国で戦の道具として使われる所を想像すると、吐き気がするほどの嫌悪感が体を包んだ。
「申し訳ございません。今少し、考える
震える声で答えようとした時、ふいに、稲妻のようにある考えが頭にひらめき、ルィヒは思わず勢い込んで腰を浮かせた。
「──
唐突な話に面食らったようにラァゴーは眉をひそめたが、ルィヒが続けて、
「護衛の事なら、ご心配なく。ほんの数日間であれば、代わりを務められそうな若者をラク砂漠で拾いました」
と話すと、ぎょっと目を見開いた。
「拾った? 貴女以外の人間が乗る事を、赤竜が拒まなかったというのですか?」
「はい。理由は、わかりませんが。赤竜にも、変化が訪れているのかもしれません」
ルィヒは立ち上がり、ラァゴーと向き合うと、右手を左胸に当てて深く頭を下げる正式な敬礼をした。
「彼と二人で赤竜に乗る事で、何かの災いを招いた時には、すべて、わたし一人の
ラァゴーは
「〈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます