腹の中

 粥を食べ始めると、じんわりと汗が浮き出てきたが、その後はまだるっこい熱が引いていく感覚とともに心地よい眠気が体を包み、ユージンは日が暮れ落ちて、夕餉の支度が整った事を知らせにルィヒが部屋を訪れるまでぐっすり眠っていた。

 粥に入っていたロウミが疲れを癒やしたのか、目覚めた後はすっきりと頭が冴えて、相変わらず揺れている『船』の中でもふらつかずに歩く事が出来た。

 ルィヒに続いて廊下を進み、食堂のような広い部屋に出たユージンは、ぎょっとして立ち止まった。

 机の上に黙々と料理を運んでいるのが、狼の頭部を持つ大男だったからだ。

 射貫いぬくようなまなざしがユージンをとらえ、一瞬、何かを探るような色が浮かんだが、彼はすぐに目を伏せてうやうやしく礼をした。

 首から下だけを見れば人間とまったく変わらない。まとっている服も、ルィヒとよく似た意匠のいかめしい黒服だった。

 青ざめた顔で固まっているユージンを見て、ルィヒが苦笑した。

汞狼族こうろうぞくを見てそんなに驚くとは、やはり、君はクィヤラート王国の者ではないようだな」

 ユージンは、ぐっと顎を引いてルィヒを睨みながら下座の椅子に座った。

「クィヤラートって所じゃ、これが普通の事なのか?」

「そんな事はない。汞狼族は、ユィトカ峡谷という深い谷の底に棲む希少な種族だ。滅多に地上には姿を現さない。だが、クィヤラートの建国史を知っていれば、その存在を知らぬ者はいないよ」

 ルィヒが奥に歩いて行くと、汞狼族の男が椅子を引き、自然な仕草で彼女が座るのを手伝った。

「それに、畏敬に端を欲する驚きと、まったけき未知との遭遇による驚きとの間には明らかな差がある。君の場合は明らかに後者だ。──カルヴァート、紹介を」

 ルィヒが手を差し向けると、カルヴァートと呼ばれた男が頷き、口を開いた。鋭い歯並びも、たくましい顎も狼そのものだったが、声は低く、歯切れの良い男のものだった。

「ルィヒ様の側仕そばづかえを務めております、カルヴァートと申します。ルィヒ様は高貴なご身分であらせられるため、ここではわたしが炊事などの雑事を担っております」

 そう言うと、カルヴァートはおもむろに両手を広げてみせた。

「この料理もすべて、下ごしらえから私が手がけました。このとおり、頭から下はほとんど貴方あなたがたと変わりませんが、気になるようであれば、違う物をご用意いたします」

「あ、いや……」ユージンは慌てて、首を振った。「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃない。──悪かった。食べて良いなら、頂くよ」

「カルヴァートの料理は美味いぞ」ルィヒは楽しそうに頬杖をついてカルヴァートを見上げた。「今日は肉料理か?」

「はい。脂身の少ない羊肉をとろ火で煮込みました。風味を良くする香草を使いましたので、ユージン様にも召し上がって頂きやすいかと」

 様々な野菜がごろっと入っている具沢山の煮込み料理を目にした途端、猛烈な空腹感に襲われて、ユージンは驚いた。──自分はもう、そんな感覚とは無縁だと思っていたからだ。

 しかし、なぜそんな風に感じたのか、はっきりと思い出す事は出来なかった。

「普通の隊商と比べて、わたし達の旅には余裕があるんだ」ルィヒが片手を広げて食事をすすめる。「さ、遠慮せずに食べなさい」

 言われるがまま、ユージンは匙を手に取った。

 初めはこわごわと、ほんのわずかな量を口にするだけだったが、一口、二口と食べ進めるうちに、ほろほろと崩れる肉の食感とよく味の染みた野菜の旨味が空きっ腹にこたえられなくなり、途中からはルィヒ達の存在も忘れて無我夢中でかき込んだ。

 汁まで残さずに平らげた所で、はたと我に返ると、いつの間に用意されていたのか、酒のような褐色の液体で満ちた硝子の杯を揺らしながら、ルィヒが面白そうにこちらを見つめていた。

「顔色が良くなったな」

 そう言うとルィヒはひと息に杯をあおり、ユージンを見すえた。

「さて。それでは、君の質問に答えよう。訊きたい事が山ほどあるだろう?」

 ユージンは、使い終えた食器をカルヴァートが厨房に運んでいくのを待って、口を開いた。

「一番気になるのは、何で俺を拾ったのか、って事だけど」

 ルィヒは微笑んだが、かすかに首をかしげた姿勢で黙っていた。今は、その質問に答える気はないようだ。

「これは何を運ぶ船だ?」ユージンは質問を変えた。「他の乗組員はどこにいる? こんなにでかい船なのに、まさか、たった二人だなんて言わないよな」

「ふうん……」ルィヒの双眸が細くなった。「君、本当にクィヤラート王国の事を知らないんだな」

 ルィヒはゆっくりと椅子の背もたれに体をあずけた。

「君には、少し嘘を教えた。我々はあきないのために旅をする一行ではない。──王族だ。今、君が向かい合っているのは、奔放ほんぽうな豪商の娘でも、若くして隊商のおさに命じられた才ある若者でもなく、れっきとした王家の一族なのだよ。といっても、王位の継承権を持たないはぐれ者だがね」

 ユージンが鼻で笑うと、ルィヒは片方の眉を上げた。

「信じないか?」

「別に。ただ、今はもっと信じられない事態に遭遇しているんでね」

 その事についてルィヒが尋ねる前に、ユージンはきついまなざしでルィヒを睨んだ。

「もう一度訊く。そんなおいさんが、なんで俺みたいな行きずりの余所よそものを拾った? 俺はあんた達に対して、どう振る舞えば良い?」

 ルィヒは頷いて、立ち上がった。

「よろしい。では、二つ目の質問から答えよう」

 ルィヒは机を回ってユージンの左側へやって来た。そちらの壁には、何色もの糸が複雑に交差したつづれおりの布が掛けられている。遠目から見ると、それは巨大な地図のような模様を描いていた。

「我々は今、ここ……、クィヤラート王国北部のラク砂漠を、東に向かって進んでいる」

 ルィヒは、布の左上に広がる麦わら色の部分を指さした。

「一年中、灼熱しゃくねつの日射しが照りつける厳しい気候で、水を得る手段もない。そんな土地で拾ったからには、人が生活している街まで、責任を持って連れて行くつもりだ」

 ルィヒは腰に手を当て、不敵な笑みを浮かべた。

「君は、クィヤラート王国民ではない。したがって、我らの王に忠誠を示すも示さないも、君の自由だ。わたし達に敬意を持って接しろといるつもりもない。わたしとカルヴァートの事は、そうだな……、同じ『船』で働く仲間とでも思ってくれれば構わないのだが、どうだ?」

 ユージンが頷くのを見て、ルィヒは続けた。

「そして、もう一つの質問。君を拾った理由についてだが、それは、ちゃんと存在する。とても個人的な事だがね。ただ、それをつまびらかにするのはもう少し待ってほしい。君がわたし達の元を去るまでには必ず教えると約束しよう。……そして」

 ルィヒは人差し指を立て、その手をくるっと返してユージンの方に向けた。

「君に訊かれた事ではないけれど、早い段階で訂正するのが望ましいと判断して話す。

 ここは船の中ではない。竜の体内だ」

 これには、さすがにユージンも耳を疑った。

「なんだって?」

「我々は、その体色から『赤竜』と呼んでいる。クィヤラート王国の至宝ともいえる特別な存在だ。ひと所には留まらず、その足で大地を踏みしめて、クィヤラート王国のあらゆる場所を巡っている」

 ルィヒは、自分の胸に手を当てた。

「わたしにつけられた、もう一つの名は〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉。竜の旅に同行し、竜とともに生き、死ぬ定めだ」

「俺みたいな素性の知れない男まで招き入れるとは、ずいぶん、おおらかな竜のようで」

 ユージンが皮肉を口にすると、ルィヒは「あ……」と言って唇を噛んだ。

「先に言われてしまったな。そう、君を拾ったと言ったけれど、それは本来、わたし一人の意思でどうこう出来る事じゃないんだ。赤竜は、乗せる者を選ぶ。──カルヴァートも含めてね。彼には汞狼族の戦士として、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉を護衛するという、建国以来続いてきた使命があるから……。ただ、君が選ばれた理由が、どうもなあ」

「そんなの訊かれたって知るかよ」

 ユージンは肩をすくめた。

「俺は、今すぐにでも逃げ出したい気分になったけどな。いくらうまい飯が食えるっていったって、手前が竜の腹に収まってるって聞かされたんじゃ、気が気じゃねえや」

「それについては心配いらない」

 ルィヒは、足元を指さした。

「我々が見ている、この部分は表皮ひょうひだ。ここから真皮しんぴと厚い脂肪の層をへだてて、もっと下にはらわたがある。だから、部屋で眠っている間に酸でとろかされてしまうような事はないよ。ま、さばいて確かめたわけではないから、約束は出来ないがね」

「姫様」

 低い声でたしなめられて、ルィヒが、ぎくっと飛び上がった。

 いつの間にか、片付けを終えたカルヴァートが厨房からこちらへ顔を覗かせて、王族らしからぬ言葉遣いをしたルィヒを目顔でいさめている。

 ルィヒはちろっと舌を出して、食堂を出て行きざま、ユージンの肩を軽く叩いた。

「すぐに信じられないのも無理はない。朝になったら、外から全貌を見せてあげよう」

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