第一章 賀大司空の勧め

「本当にこれで良かったのか?賀景がけい

皇帝、凌炎りょうえん冬官とうかんの長、大司空だいしくうである賀景にあることを問う。この問いに対し、賀景は微笑した。

「冬官に勤めているわたくしめがこのようなことをさせていただけるとは、夢にも思いませんでした。ええ、宜しゅうございますよ?」

冬官は国の土木工作を司っている。冬官以外にも、国政を総轄する天官てんかんや地方行政、教育、人事などを司る地官ちかん、皇帝の補佐をして祭典や礼法を司る春官しゅんかん、軍政を司る夏官かかんや訴訟、刑罰を司る秋官しゅうかんが存在する。この六つの官を合わせて六官りっかんと呼ぶ。

「だが、あの者は普通の幸せを掴みたいのではないか?官吏にならずとも、嫁に行き、子を作り、幸せな家庭を築くことができるはずだ。それが女の幸せだと、亡き母皇ははうえは仰っておられた…」

「それができない者も、この世にはいるのですよ。あの者の家に生まれてしまったからには、たとえ女でも避けられない義務がございます。それはこの国の官吏となり、この国の王になること。あなた様の知っての通り、これは避けても避けられない運命なのです」

運命だとしても、これはあまりにも悲惨すぎる。はるか昔、夏の姓を持つもうひとつの皇族が存在した。だがその者たちはある事件をきっかけに皇族の権利を全て奪われたのだ。その罪は重く、流刑るけいとなったあとでも中央からの激しい追跡は終わらなかった。流刑にいたのはいいが、その翌年、大きな水害が起こる。民は口を大きくして言う。この水害は夏家を失ったからなのではないか、と。民の指示をなんとか得ようとした凌家は夏家を戻そうとしたが、夏家の当主が直々に断った為、復位はなかったこととなり、今は凌家が実権を握っている状態だ。

「いくら凌家当主が天から認められていようと、夏家がなければこの国は滅びる。けれど…調べさせたところ、今の夏家当主は女であった。女は王にはなれない。…またなかったことになるのか…?」

もう懲り懲りだ。また人を傷つけ、無理やり即位さそうとすることが。他の誰かがすればいい。自分ではなく、他の誰かに任せて自分はー

「いいえ、今回はなかったことでしょう。何故ならその者はもう決意ができておりますゆえ」

なかったことにはできない。この言葉は誠か偽りか。まだこの時点では、完全に判断することは難しい。賀景か自分。どちらを信じればいいのかも判断することができなかった。

「難しいですか?では直接逢われてみては?」

「いや、良い。その者が決意したのであれば、それで」

「話を進めておきます」

賀景はにやりと笑らう。何か企んでいるに違いないが、夏家が復活するのであればどんなことでもする。そう昔から決めていたから。




緑翠は家に帰り、夕餉ゆうげを作り始めた。夕餉といっても雑穀ざっこくを茹でてまだ食べれる、と思う味にするだけだが、今日は麦を買うことができたのでその麦を洗う。

「姉ちゃん、手伝おっか?」

と、弟の夏良かりょうが言う。それは妙に愛らしく、ずっと聞いていたいくらいだ。けれどこの家で料理を作れるのも最後だから、今回は自分でする。

「ありがとう。でも、今日は私がやる。また明日あしたからお願いね」

穏やかな口調でそう言うと、夏良は頷き、母のところへ元気良く走って行った。

(良、母さん…。ごめんなさい…)

緑翠は汚れがついた手で顔を拭うと、また麦を洗い始めた。明日は山唐州の役人が来る日だ。その者に緑翠は拾ってもらい、太学たいがくに入学する為の勉強を始める。

「緑翠…、ちょっといいかい…?」

「…母さん…」

夏良に支えられて来た母が緑翠に支えられる。その声はどこか頼りなく、今にも逝ってしまいそうな声だ。

「あの人があの世へ逝ってから、お前には苦労かけるねえ…。良から聞いたよ。行くんだって?あの地獄のような場所に」

事情を話そうと思ったのだが、弟が全て話してしまっていたそうだ。それに驚き、緑翠は目を丸くした。

「そうだったの…。うん、行くよ。たとえどんなに地獄のような場所でも、家を裕福にする為なら」

緑翠は信じられないくらいきりっ、とした表情を見せ、母を抱きしめる。

「…行ってきます!」

掠れた声と今にも涙が溢れ出そうな目。本当は緑翠だって怖い。けれど、これは夏家当主に課せられた唯一の義務であり、逆らうことは到底できない。

「良、母さんを任せたぞ!」

緑翠は夏良に向かって拳を作り、木で作られた天井を見上げる。

「ま、任された!」

知っている言葉を必死に探して使う夏良は本当に愛らしい。口が悪くなってしまったのも自分の責任だ。だがそのことを父や母は、何もなかったかのように接してくれているのだ。

(良かった…。この家に生まれて…)

夏家に生まれたことは後悔しているが、この家族でここに暮らしていることは一度も後悔したことがない。これから、緑翠にとって地獄が始まろうとしていた。



ー地獄と思って覚悟しているのは緑翠だけだと気づくのは、もう少し先の話である。凌夏国歴史上最も寵愛ちょうあいされたらといわれた官吏がたった今官吏になる、という覚悟を決めた。

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