煙草、吸いますか。ちょっと泣いてもいいですか。

 空き店舗と廃墟の中間くらいに傷んだ回転寿司チェーンに人の気配はもちろんなかった。店の周囲をぐるりと回るあいだ、きこえるのは遠い波音と潮風とカモメの鳴き声ばかりだった。

 ひび割れたアスファルトの駐車場の向こうに夏の夕焼けに染まる海が見える。みだれた髪をかつてはパーカーの紐だったもので結い直しながら、わたしは一瞬だけその光景に心をもっていかれた。なんて無駄なうつくしさだろう。

 頭を軽くふって、従業員用の裏口のそばに放置された錆まみれの赤いスタンド灰皿に歩み寄る。まだ新しい吸殻が押し込んであるのが意外だ。最後に人を見かけたのはいつだったっけ。言葉を交わしたのは?

 うっかり屋の宇宙人たちが地球に向けて放ってしまったというなんとかビームが到達するまで、私の数えかたが合っていればあと七日。

 かれらは大慌てでワープ航法を使ってビームを追い越し、一年くらいまえに地球に到着してシェルターを用意してくれた。とはいえ地球人すべてを収容するにはまったく足りない。わたしの同胞たちは生存をかけて醜い争いを繰り広げた。宇宙人たちはたいそうあきれたに違いないが、粛々と決められた数のヒトをシェルターに迎えつつ、地球上のあらゆる生命を拾いあげては保護していった。

 地上に残った人間は、生きることを諦めたか、誰かに機会を譲ることを最後の美徳としたか、闘いに負けたかのどれかだ。

 ぼろっちいライターで煙草に火をつけた。肺の底まで息を吸う。最初は咳き込んでしまったものだけれど、いまはもう、ただの空気よりも気持ちよくふかぶかと煙で胸を満たすことができる。世界が終わるまえに死んでもいいつもりであてもなく歩いてきた。でも、ここまできたら最後の瞬間を見届けたい気もしてくる。

 砂っぽいアスファルトを踏む音が聞こえた。男のものに思えた。わたしは警戒しつつ顔をそちらに向ける。

 建物の陰から現れた相手と目が合った。わりとたくましい体つきのおじさんだった。汗のしみたTシャツにさめた色のジーンズ。靴は使い古したスポーツメーカーのスニーカー。真っ黒に日焼けしていても案外肌はきれいで、若干白いものが混じる無精髭は数ミリの長さにとどまっている。余裕があるときは剃るようにしているのだろう。

 その人は、あぁ、と言って気まずそうに中途半端に伸びた前髪をかきあげる。もう片方の手には、ひしゃげた煙草の箱と安っぽいライター。

「ここ、使います?」

「や……」

 渋っているおじさんに構わず、私は灰皿を半分ゆずるように体をずらす。

「もしかしていつもここで煙草吸ってるんですか」

 灰皿のなかにある新しい吸殻をちらっと見て言うと、彼はじりじりと距離をつめて、それでも私にはふれられそうにないところで止まった。下心がなさそうでよかったと思って、こんな世界で相手にまともさを期待する自分がおかしくなった。煙草を吸うときは喫煙所を探すなんていうまっとうな行動ですら、あらためて考えるとこっけいだ。そこらへんに灰を捨てたって、回収されない灰皿に捨てたって、もはやわたしの気分以上の差はないはずなのだ。

「おじさんはなんで残ったんですか」

「疲れたんだよ」

「闘って命を勝ち取ることに?」

「それ以前に、もう生きるのに疲れてた」

「なのに今日までちゃんと生きてたんですね」

 静かに煙を吐いているおじさんは、壊れた世界なりにちゃんと暮らしてきた人に見えた。顔つきも、服装も、雰囲気も。

「そうでもない。が、期限が決まったとたんに気が楽になったというのはあるかもしれない」

「……わたしも、そうかも。この世界がいつまでも続くと思っていたころは、このまま死にたいって願いながら眠る日もたくさんあったんだけど、いまは、生きられるぶんは、生きたい」

 わたしは吸いさしを灰皿に突っ込んで煙草をもう一本出した。拾い物のライターは機嫌を損ねたようでなかなか点かない。おじさんが自分のライターに火をともして差し出してくる。短い爪に入り込んだ土が見えた。おじさんの火で新しい煙を吸う。なんでか涙が出てきて、わたしは裏口の扉に背をつけてしゃがんだ。

「すいません、ちょっと泣いていいですか。ほっといてくれていいんで」

 おじさんは黙ったまま、でも落ち着かなさそうにこちらを気にしていて、だからわたしは煙草をぐずぐずと灰に変えながらしばらく泣いていられた。


(南雲さんの#匿名短文プチ企画〜無精髭のぶっきらぼうオッサン編〜に参加したものです。https://x.com/nagumo_kikaku/status/1817580327898153000?s=46)

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