第31話 スペースエッグの開発と打上塔構築
31-1.スペースエッグと打上塔
平和25年12月
極楽グループは、平和25年の売り上げ予想は2兆4000億円、翌年の売り上げ予想は4兆9000億円、80%の営業利益、50%の純利益を目指していた。その純利益のほとんどを再投資しようとしていた。外部からの借り入れは一切期待していなかった。
リニアエッグ建設や高速道路建設、スペースエッグや電子虫、リニアエレベータ、eegg、人口筋肉多肢型組立ロボットなどの研究開発に資金を投入するなか、他に回す資金の余裕などなかった。
スペースエッグは、真空の物流リニアエッグの完全な延長上にあった。
スペースエッグは、直径5m、長さ15mの流線形のカプセル状の形状で、真空型物流用のリニアエッグよりは一回り小さくなっていた。
物流用リニアエッグのスピード時速1,200km(約0.33km/秒)を遥かにスピードアップし、円周3kmの真空加速器と直線1kmの塔誘導用真空加速ラインで秒速7kmまで加速し、10kmの垂直の塔の真空加速ラインで「第1宇宙速度」秒速8kmの人工衛星の速度にして宇宙空間へ打ち上げようとするものであった。
円形の真空加速器は加速部分が真空で、スペースエッグが何周かして秒速7kmの速度に達した時にシャッターが開いてスペースエッグが直線の塔誘導用真空加速ラインに飛びだす方式であった。
直線の塔誘導用真空加速ラインと垂直の塔の真空加速ラインは、1km毎にシャッターで区切られていた。真空度は、0.1Pa(パスカル)で、地上90km程の気圧になっている。
この中でスペースエッグはさらで加速され、「第1宇宙速度」秒速8kmに達した。
スペースエッグがシャッターに近づくと瞬時にシャッターが開き、スペースエッグが通過していく。
加速は、強力な超伝導磁石でおこない、潤沢な電力がそれを支えた。
また、加速器や加速ラインの建築方法も、リニアモータカーのものを流用した。ただし、精度ははるかに精密に作られた。
スペースエッグは、推進用の強力な超電導磁石と軌道調整用の噴出装置以外に推進装置を持っていなかった。
まるで卵(エッグ)か石ころみたいなものであった。
勿論内部には、マイクロ波の送受信装置や強力な蓄電池eegg、通信機器、コンピュータ装置、超電導磁石、万一の場合の自爆装置等が格納されていたが、まるで滑らかな表面を持つエッグを打ち上げるようなものであった。
スペースエッグの打上は、塔の先端から高度11km(塔の高さ10km+山の高さ1km)の成層圏に放り出されるように発射され、数秒後に軌道調整用の噴出装置により次第に東の方向に変えられ、日向市の上空を超えて太平洋を通過して行くコースであった。
予定高度は、400kmであった。
スペースエッグの製造価格は量産に伴い急激に低下して1億円以下になることが予定されていた。
打ち上げ費用は、事実上ただにまで抑えることが可能だった。
従来のロケット方式とは比較にならない安い費用であった。
問題は、スペースエッグ打上塔の建設であった。
東京タワーの場合は、高さが333mで鉄骨量が3,600トン、1年半の工期であった。
サンの基本設計では、スペースエッグ打上塔は、高さが10,000mで塔の重量が100,000トン、1年7カ月の工期であった。
塔の高さが10km=10,000mのものは、人類が構築した建設物としては空前絶後の高さのものであった。
話は約2年前に戻る、平和24年1月5日、サンとゲン、啓、シュン、マコト、ハジメが会議室に集まっていた。
皆の前の空間に資料の一部が表示されていた。
サンが口火を切った。
「既に資料は全員に配布済みで、既に読んでもらっていると思うが、リニアエッグ、スペースエッグ、スペースエッグ打上塔の開発を行いたい」
直ぐにゲンが発言を開始した。
「サン! リニアエッグ、スペースエッグについては後で話すとして、スペースエッグ打上塔はいかん。
俺も建築屋の片割れだ。高さが10,000mで塔の重量が100,000トンの塔など作れん」
ゲンの語気は強くなっていた。ゲンは続けた。
「しかも普通の鉄鋼では到底自分の重さを支えきれん。しかも今年は昨年の倍の忙しさだ」
「そうだ。今でさえ、無茶苦茶忙しいぞ」
シュン、マコト、ハジメ達も、口々に忙しいと発言した。
「兄さん、リニアエッグ、スペースエッグは何とか出来るでしょうが、スペースエッグ打上塔の建設は困難だと思います」
啓も困難と主張した。
皆の反応は、サンの予想通りだった。
「皆の言う事はその通りだ。リニアエッグ、スペースエッグは基本設計書通りに行っていけば必ず予定通りに開発できる。
しかし、スペースエッグ打上塔の建設には、軽量で鉄鋼をはるかに超える高強度の新素材を開発するしかない。幸い6月には鉄鋼会社を買収することになっているので、そこに極楽学園の卒園者1名を派遣し、そこの技術者と一緒に新素材を開発してもらおう。当然量子コンピュータは利用してもらう。それに湯川先生の極楽大学の支援も受けよう。それと極楽ロボットの組立ロボットで出来るだけ建築工事を自動化しよう。
打上塔専用の組立ロボットは、極楽ロボットの電子虫チームにも設計してもらっている。特に筋肉工学のエキスパートの堺さんには、全身が人工筋肉の『人工筋肉多肢型ロボット』になるよう依頼している。
通称タコ型ロボットだが、自分を支える足が4本、塔の機材を支える足が4本、組立用の足が4本で、合計12本だ。タコより足の数が多い。
それと極楽建設の技術部門に依頼して、自重を十分に支え、耐震・免震構造を持った世界一高い塔を設計してもらおう。皆で協力して頑張れば必ず実現できる」
ゲンの瞳が光った。
「サン、これは良いぞ。世界一高い塔を皆で作ろうぜ」
ゲンが賛成に廻った。
「兄さん、やりましょう。私たちも頑張ります」
啓も同調した。
「サン、俺たちも頑張るぜ」
シュン、マコト、ハジメ達も賛同した。
こうしてサンの基本計画通り、平和25年末にスペースエッグ打上塔の建設を開始し、平和27年6月末に完成させ、平和27年9月にスペースエッグを打ち上げることが、サン、ゲン、啓、シュン、マコト、ハジメの会議で決定された。
打上塔と付帯設備の建設は、ゲンが総責任者になり、スペースエッグの開発と打上は啓が総責任者となった。
その完成の為にサンは、平和24年の初めに極楽建設の技術部門に量子コンピュータを利用したスペースエッグ打上塔の設計とシミュレーションを指示した。
高さが10,000mの塔を塔重量が100,000トンで建設する事は、鉄鋼をはるかに超える高強度で軽量の新素材を開発するしかない。
サンは、平和24年6月に買収した極楽鉄鋼の技術部門にハイエントロピー合金や炭素系鉄鋼の改良を開発することを命じた。
極楽鉄鋼の技術部門は量子コンピュータを利用して、元素の最適な組み合わせを選び出し、そのテストをシミュレーションで徹底的に行った結果、1年以内に炭素系鉄鋼をはるかに超える強度で軽量なハイエントロピー合金の材料を開発した。
特に、塔の上部は炭素繊維複合材料で大幅な軽量化を実現可能となった。
平和25年9月。天国村と小国見岳(こぐるみだけ)付近の峰との間に物流用リニアモーターカーの地下トンネルが完成した。
天国村で作成した塔のパーツを運ぶためのものだ。
ゆっくりとスペースエッグ打上台の建設準備が始まった。
勿論、塔の設計と建設工事を請け負ったのは極楽建設だ。
さらに極楽鉄鋼、極楽発電、極楽電池、極楽宇宙技研、極楽ロボット、極楽ソフト、極楽半導体等々、極楽グループの総力が投入された。
12月になると、宮崎県と熊本県の県境の国見岳の南の小国見岳(こぐるみだけ)の宮崎県側が整備され、平坦な地面が切りだされた。そしてスペースエッグの塔の建設が着手された。
スペースエッグの塔は、大きく分けて3つの部分から構成された。
塔全体を支える「地下部」、塔を支える「土台」、スペースエッグを打ち上げる「タワー」だ。
建造される塔を支える「土台」は、超高強度コンクリートと超高強度の超高純度鉄により作られた。土台の形状は、4個の巨大な円錐状の粽が束ねられたような形だった。それは、昔のロシアの宇宙ロケットの形にも似ていた。
束ねた円錐状の土台は、地下300mまで拡がり塔全体の重みを支えていた。
「土台」からは、打ち上げ用タワーが、タケノコのように飛び出していた。
スペースエッグ打ち上げ塔は、下の方は、カーボンナノチューブとハイエントロピー合金の格子で網の目状で構成され、5kmから10kmまでは、カーボンナノチューブと炭素繊維強化炭素複合材料(炭素繊維と強化プラスチック)の格子で構成されることになっていた。大気中の強風や温度変化、気圧の変動などに対処する為に極限まで軽量化し、風を逃がし、かつ十分な強度を保つように設計された。
地震への対応も十分に設計に組み込まれた。
塔の最先端部は、直径が5m強であった。
打上げ塔内側には炭素繊維と強化プラスチックで作られた円筒状の打上用加速器があり、円筒の内側には一定間隔で超伝導磁石の軽量の加速器が配置された。円筒部分は真空状態になっていた。
加速器への電力供給は、無線で行われ、1つの加速器から次々に別の加速器に強力な電力が伝達されていき配線の重さを無くす事ができた。
「地下部」の途中から、スペースエッグの円形加速器とを結ぶ打上用加速器が接続された。
スペースエッグが打ち上げ塔の先端を通過する瞬間に先端のシャッターが解放された。
スペースエッグが打ち上げられた直後に直ちにシャッターは閉じられ、打ち上げ塔の真空度を保持した。
打ち上げ塔は、まず「地下部分」が作られた。
天国村からは、物流用リニアモーターカーを人向けに改良した乗り物で、毎日多数の労働者が来た。
6時間交代体制で、24時間毎日連続でその建設に従事した。
天国村は、熊本県八代市の山間部に労働者宿泊所と極楽建設の施設が集まった地域を示す極楽グループで使用されている通称の名前だった。
サンとゲンが「天国と極楽」で酒を飲んでいる時に、命名したのが天国村だった。
天国村には、高額の労賃に吸い寄せれて来た日本人と外国人の労働者が住んでいた。
やがて外国人労働者は、本国から家族を呼び寄せたので天国村の人口が急激に増加していた。それと共に商店やコンビニなどの店ができ始めた。
「地下部分」と「土台」が完成すると、いよいよ「タワー」の組み立てが始まった。
建築のピース化と建築の連続の作業は、極楽建設のノウハウになっていた。
天国村には、巨大な建設パーツの製造施設が作られた。
例によって地上部は、数十m程で、地下部分が300m程であった。
そこではカーボンナノチューブと強化プラスチックとハイエントロピー合金で構成された超強度・超軽量材の打上塔のパーツが作られた。
スペースエッグ加速用の超伝導磁石や超伝導電線もパーツとして作成された。
それらは、建築素材運搬用リニアエッグに載せられた。
建築素材運搬用リニアエッグは、直径5m、長さは15mで物流用リニアエッグを小さくしたような形をしていた。
運搬用超伝導レールは、2本並列に伸び、巨大なパーツの場合は、2つの運搬用リニアエッグで同時に運搬した。
この時は、ゆっくりと時速60kmで烏帽子岳の下まで走行した。
小さなパーツの場合は、1つの運搬用リニアエッグで、時速120kmで烏帽子岳の下まで走行した。
パーツを積み込む運ラインは、10ライン以上あり、並行してパーツが搭載されていった。
搭載が完了すると、運搬用リニアエッグはラインをゆっくり移動して行き、物流用リニアエッグの走行路へ合流し、烏帽子岳の下まで走行した。
運搬用リニアエッグが烏帽子岳の下に到着すると、そこから垂直に未完成の打上台の中を加速されながら登っていった。
やがて制動がかかり減速し、組立中の最上部のすぐ下に到着すると、そこで停止した。
ちょうどリニアエレベータのようである。
やがて物流用リニアエッグの先端が開口した。
4匹のタコ型組立ロボットがやって来て、物流用リニアエッグの中からパーツを取り出す。
全て取り出すと運搬用リニアエッグは直ぐに降下していった。
パーツの組立は、人を介せずタコ型組立ロボット達が行った。高さ数キロ上での組み立ては人間が行うことは不可能だ。
組立ロボットは、組立終わると打上塔のパーツの接続状態をチェックし、必要なら微調整を行った。
通信系と電力系は全て無線システムで画期的な軽量化を実現した。
パーツ製造段階で厳密なチェックを受け、自動連結器が接続状態をチェックし、組立ロボットがサブシステムをチェックし、世界ソフトが全体システムの中で状態をチェックした。
非常に複雑で、精度の高い構造物が、厳密に高速に建設されていった。
一連の作業は、全てタコ型組立ロボットが正確無比で高速に行った。
タコ型組立ロボットは1日23時間連続でパーツを運び、組立てていった。一日の最後の1時間は、作業がストップした。スペースエッグの運転試験用の実験の時間だった。
スペースエッグの試験の時は、円形の真空加速器の全線と直線の真空加速ラインの半分までは、本番と同じスピードで加速し、後半の直線部分と10kmの垂直の塔の真空加速ラインで減速して完成済みの最高高度部分でスペースエッグを停止させた。
垂直の塔の上部で停止したスペースエッグは逆方向に加速され、円形の真空加速器まで戻された。
こうして塔は順調に空に伸びていった。
平行して打ち上げ塔の直ぐ近くに、衛星発射センターの建物が作られた。
衛星発射センターはスペースエッグと管理を担った。
衛星発射センター長には一期生の山田 麗が任命された。
山田 麗には、衛星発射の打上の許可の最終権限が与えられた。
同じ頃、椎葉の時雨岳付近の山頂に、スペースエッグに電磁波で電力を送る巨大な電力送信装置の建設も始まった。
大岩屋谷の発電システムから超伝導ケーブルで送られてきた電力は、いったん大規模なeeggの集積体である電力蓄電システムに蓄電された。このシステムが8システム作られ分散配置された。
電力蓄電システムから取り出された電力は、電力送信装置で電磁波に変換され、8個の送信装置から宇宙の8個のスペースエッグに送られ、さらに他のスペースエッグに転送され、世界を取り巻くスペースエッグに送られる仕組みだ。
スペースエッグからは、逆に地上のあらゆる場所の受信装置のアンテナに向けて、電磁波が照射され、電力変換装置により、電磁波から電気に変換される方式であった。
スペースエッグからは、岡田光が作成した電力送受信ソフトにより、受信装置を的確に検出し強力な電磁波をスポット状に送信した。
受信装置も、スペースエッグからの電磁波を検出すると、最適の方向にアンテナの指向を定めた。
スペースエッグと受信装置は、電磁波を介して、情報の交換を行うことができた。
この時は、まだ固定の蓄電システムとのやり取りであったが、蓄電池eegg(イーグ)を搭載した船舶や自動車等の移動体への送電も予定されていた。
岡田光が作成した電力送受信ソフトは、既にmm単位の3次元座標での位置特定を確立していた。
これらの電力送信システムは、他とは独立して動作した。
たとえ自己以外の送信装置システムが停止しても残った1システムだけでも、世界に給電することが可能だった。
その意味で、電力送信装置は八つの多重システムでもあった。
しかし、課題はまだまだたくさんあった。地下や倉庫、駐車場での自動車への送電は、一度蓄電装置へ蓄えてから、再度室内の電磁波発信装置から送電する必要があった。
31-2.高速道路が完成。運用開始
平和25年12月末、西部日本電力への売電、年間2000億。中日本電力にも年間3000億。帝国電力に年間3000億円。北日本電力に年間1000億円。電量直販1000億円。金融 500億円。極楽建設 3000億円。極楽商事 3000億円。極楽マート 2000億円。極楽製鉄 1000億円。売上合計、2兆4000億円を突破した。
粗利は、1.5兆円となった。
極楽グループの従業員は、6,000名を超えた。これをサン達と極楽学園出身者の40名でコントロールしていた。
極楽グループは、極めて危うい運営を続けていた。
平和26年1月4日
高速道路が完成した。西国原知事が椎葉町でテープカットした。これで大量の資材の輸送と車の走行が可能になった。
最高時速180kmの高速道路は、宮崎市と椎葉町とをわずか25分で結んだ。
そのほとんどの区間が、地下トンネルだった。
佐土原付近から西都市を通り、一直線に椎葉町まで地下トンネルが通じていた。
西都市、一ツ瀬ダムに、インターチェンジ(IC)が設けられ、接続道路が地上に顔を出し、既存の道路に接続した。
バス路線も開通した。バスは、無人運転だった。当然運転手はいない。
バスは、指定されたルートを高速かつ安全に運航された。
バスの運行は、運行管理センターで少数の者で管理された。
こうして当初は人口の少ない地域でも、非常に安い料金で提供することが可能となった。
西都市IC、一ツ瀬ダムICの付近には、再開発が開始され、急速な発展を遂げることになる。
とにかく土地はいくらでもあった。しかしそのほとんどは山地だった。
4月1日、広範囲の先進科学および医学を研究し、広範囲の人文経済法学分野の人材を養成する為の、「極楽大学」が宮崎市に設立された。学長には湯川秀一郎が就任した。
理工学部、医学部、経済学部、法学部 、医学部、文学部 、農学部があった。
さらに1,000床を越す大型の付属の極楽病院が開院した。
規模の大きさよりその施設や医師や医療スタッフの豪華さが注目された。医師は、海外からも招集された。同様に極楽中研にノーベル賞級の科学者や高級技術者が集められた。
31-3.宮崎国際空港
3月5日、宮崎空港が、宮崎国際空港になった。
海岸に沿って4,000mの滑走路が極楽建設により新設された。
また従来の滑走路が、海側に1,000m伸びて、3,500mになった。空港ターミナルも大幅に拡充された。
西国原知事がテープカットした。
知事は、テープカット後の挨拶で次のように語った。
「皆さん、本日からこの宮崎空港が、宮崎国際空港となりました。まったく夢のようです。
かつては陸の孤島と呼ばれた我が宮崎県が、いまや日本いや世界で最もホットな地域になったのであります。
宮崎には、自然もあり、リゾート地もあり、工場もあり、研究施設、まだまだ土地も沢山残っちょります。
これからは、世界中から、この宮崎に観光やビジネスで沢山の人々が集まってくることでしょう。
現在の滑走路2本では足りません。今後、さらに海岸を埋め立て4,000m の滑走路をもう1本増設します。
私も2期目に入り、ますます宮崎の発展の為に、全力を挙げて頑張ってまいりまーす。
以上で私の挨拶といたします。ありがとう」
話終わった西国原知事の顔は高揚していた。
31-4.リニアモーターカー(人)が完成。運用開始
4月1日、地下リニアモーターカー(人)が完成し運用が開始された。
椎葉町の極楽駅で、西国原知事を中心に、極楽町長の那須 富一郎、極楽電鉄社長の啓と極楽建設社長のゲンが開通式のテープカットした。
駅は、地下にあり、ホームは横幅が30mほどもあり、広いスペースが確保されていた。
ホームの両側に円形のリニアエッグの超伝導トンネルが通過し、ホームの部分だけが、4分の1ほど、開口していた。
そこにリニアエッグが停車していた。
運転手はいない。完全無人運転だった。
リニアエッグの運転状況は、中央指令室で列車運行管理ステムにより監視される。
リニアエッグは、自動列車停止装置により、停止することが可能であった。
テープカットが終わると、西国原知事が笑顔で周りに手を振り、那須 富一郎、啓、ゲンと一緒にリニアエッグに乗り込んだ。
そして、特別に作られた先頭部分のイスに座った。
「こりゃ良い。前方の風景が見えるが」
「西国原知事、この席は特別に見晴らしいが良い席です」
一緒に乗って来たゲンが、後ろから知事に言った。
リニアエッグは、先端が卵のように流線型の形をしている。
側面には、飛行機の窓のような小さな四角い窓が付いていた。
なにしろ、地下トンネルの中を通るので、広い窓は必要なかった。
リニアエッグが、スッと動き出した。
出発と停車する時はゴム製のタイヤが地面に触れていたが、直ぐにリニアエッグが空中に浮き、タイヤが胴体に格納されるとほとんど音がしなくなった。
あるのは、加速による音と、少し後方に押さえつけられるような感覚だった。
前の方からは、保安用の照明が、急速に流れてくる。ほとんど一直線だ。
押さえつけられる感覚が無くなったところで、西国原知事はゲンに聞いた。
「啓さん。今どれ位の速度かな」
「知事、上の方に速度表示があります。現在605キロです」
知事は、上の方を見た。
「なんとも信じられないスピードだな。国内線の飛行機でも800キロ位だろ。何ともすごいものだな、それに静かだ。これが福岡まで延長できれば出張が格段に楽になるな」
しばらくすると少しカーブがあり、また直線になった。
そして、減速が始まった。今度は前方に押されるような感覚があった。
『あと1分ほどで、新宮崎駅に到着いたします』
女性の声のアナウンスがあった。
リニアエッグは、静かに新宮崎駅に到着した。椎葉駅から新宮崎駅までわずか10分だった。
知事は、まだ乗っていたい気持ちがした。
ドアが開き、西国原知事や那須 富一郎、啓、ゲンが降りると、フラシュとたくさんの人々が彼らを出迎え歓迎した。
当面は4両編成で、特急と各駅停車は交互に運行されることになった。
31-5.リニアエッグ(人,物)が椎葉村と宮崎市の高速連結
リニアエッグの路線は、全て地下トンネルの上下2本の超伝導線だった。駅には停止する為のサブラインが作られた。
人用のリニアモーターカーは、時速600km。宮崎と椎葉村の60kmを10分毎で結んだ。
物流用のリニアモーターカーは、既に開通していた。
物流用のトンネルは、中真空状態で時速は1200km、宮崎と椎葉村を5分で結んだ。
これも上下2本だった。
物流カプセルは、リニアエッグより円筒状になっている。前後に丸みがあり、1個で走行する仕組みだ。まるで薬のカプセルのような形だ。
1つのトンネルの中を、時速1200kmで移動する物流カプセル(エッグ)が最短2kmの間隔で超高速で移動していた。これを全て世界ソフトがコントロールしていた。
ついに、宮崎市と椎葉町との全ての大動脈が完成した。
人と物の大移動が始まった。
椎葉町と五ヶ瀬町の農業工場や漁業工場からは、米や小麦、野菜、養殖魚が大量に宮崎市の、極楽輸送の荷物集積施設にリニアエッグで送られ、加工工場で処理されたり、高速船やトラック、飛行機で日本全国に送られた。
その中にはもちろん、極楽マートの店もあった。
極楽マートでは、新鮮で高品質で安い野菜やコメ、魚を大量に売り出した。
極楽マートは、急激に店舗を拡大していった。
また、地中深く立てられた繭状の建物の建築現場から出る大量の土砂が、物用リニアエッグで人工島に送られ、新しい土地を生み出していた。
宮崎市からは、大量のパーツやマンション、道路の建設資材やIT装置、そしてスペースエッグの塔の為の装置や機材が続々と輸送された。
椎葉町は、一大建設現場となり、建設ラッシュが起きていた。まさに世界で一番熱い「沸騰都市」になりつつあった。
宮崎市と椎葉町には、観光客も多数訪れ、リニアモーターカーに乗ったり、高級な店や土産物店巡りを楽しんだ。
椎葉町では、1戸建ての住居の新築を旧村民以外には認めていなかったが、市街化地域には、マンション建設を認可した。
1戸のマンションの広さを200平方メートル以上、1人当たりの面積を80平方メートル以上と定めていた。
この広さは、日本の平均値より広く定められた。
勿論、椎葉町に建てられるマンションはこの基準を守っていた。
宮崎市や天国町も椎葉町の余波を受けて、建設ラッシュが起きていた。
宮崎市では、椎葉町へ通勤する人の為の住宅や店舗が続々と建築されていった。
家や部屋の広さは、椎葉町に準拠していた。まさに極楽スタイルの住居や生活習慣が普及し始めていた。
天国町は、なぜかこの規制がなかった。
その為、日本中および世界中から労働者が、集まり、住み着いた。
31-6.富一郎の結婚
平和26年5月15日、那須 富一郎が、町役場に勤めていた長友理紗と結婚した。富一郎は、28歳、理紗は、24歳だった。
サンと幸の結婚式にならい、身内だけの慎ましい結婚式を行った。啓とゲンも参加した。
さすがに、村長の立場もあり、披露宴は、町の有力者を呼ばざるを得なかった。
披露宴への西国原知事の突然の出席には、皆驚いたが、3分程スピーチをすると直ぐに帰っていった。
首相や大澤議員の代理人の秘書が出席し、彼らのスピーチを代読した。
31-7.ロータス・アイランド
8月、宮崎市沖の人工島「ロータス・アイランド」の一部が完成し、販売された。
ロータスとは蓮(はす)の意味だった。つまり蓮の島だ。
全体の形も、蓮のつぼみのような少し先端がとがったような防波堤で囲まれている。
防波堤には、樹木が植えられ、自然の堤防のように見える。
人工島はマグニチュード8クラスの大地震にも耐えられるようになっていた。
高さも島の中央部分が30mを超えるようになっていた。
高い津波が予想される場合は、防波堤からさらに防潮用のフェンスが伸びて行くように設計されていた。
先端部は、通常解放されており、ヨット等の船舶が入れるようになっていた。
ただし、出入りは専門の警備員により厳重にチェックされていた。
巨大な防波堤の内部に、蓮の花びらの形状に似た、いくつもの人工島が作られ、そのすべては、一か所で繋がっていた。
それらの花びらに似た人工島に、いくつも別荘や住宅が作られていた。
まだまだ建設中のものや、空き地のままになっているものもあった。
別荘や住宅は、1戸当たり1億円から100億円以上したが、東京の感覚からすれば、非常に広大で安価だった。
31-8.人工衛星型リニアエッグ
そもそも、人工衛星型リニアエッグは、地上からの電力供給用のマイクロ波(??)を受信し、地上の各施設や装置に直接電力を供給しようというものだった。
これが実現すれば、いままで有線で電力を配電していたのを無線で配電できることになる。
もはや高価な電線や変電所も必要なくなる。しかも、電力の利用者の位置や情報も得られ、料金の課金も簡単になる。
打ち上げ費用も、本体の価格を除けば、世界ソフトで自動的に打ち上げられるので、
ほとんどかからなかった。
電気は、もともと無料みたいなものだけだった。
確かに加速器や、打ち上げ塔、人工衛星型リニアエッグの製作システム等、初期の設備投資は必要だったが、多数の人工衛星型リニアエッグを打ち上げるので、このコストも軽減されていった。
ここで問題になったのは、電力受信器の位置の特定システムだった。
世界ソフトの電力送受信ソフトに精密な位置特定プログラムを追加する必要があったが、これを担当したのが、まだ極楽学園生の岡田光だった。
岡田光は、まだ15歳だったが、既にプログラム開発に特異な才能を発揮していた。
サンは、岡田を抜擢した。
複数の人工衛星型リニアエッグで特定の受信装置の位置を3次元的にcmレベルで特定することが必要だった。
やがて、人工衛星型リニアエッグの電力送受信用位置特定プログラムを完成させると、次に驚くべきソフトを開発することとなる。
平和26年に入り、人工衛星型リニアエッグの飛行テストは実用機を使用するようになった。
加速器のリングは直径10km。スピードは、秒速8kmに迫っていた。
実験は、あらゆる事態が想定された。
また、人工衛星型リニアエッグの宇宙空間での動作についても、実験室でハードの面、ソフトの面から、大量のテストが実施されていた。
人工衛星型リニアエッグには、電力の受信装置、送信装置、通信装置、高性能カメラ、赤外線装置、レーザ等の装置が搭載されていた。
これらのあらゆる実験は、これから1年以上にわたり続行されていくことになる。
平和27年に入ると、ひたすら人工衛星型リニアエッグの実験が続いていた。
宮北 大輝、大森博士??は、宇宙空間を想定したハードの調整を既に完了していた。
通信のテストや地上からの衛星機器の制御もほぼ完了していた。
宮北 大輝をリーダーとする開発チームは、いま電療送受信のテストを行っている段階だった。
研究開発施設での電力送信装置からスペースエッグへの送信は、うまく行った。
次に、スペースエッグからスペースエッグへの電力転送もうまくいった。
そして、電力送信装置からスペースエッグへ、スペースエッグからスペースエッグへの電力転送、スペースエッグから受信装置への送信もうまくいった。
さらに、量子コンピュータでのシュミレーションによる、より過酷な条件でのテストもうまくいった。
あとは、実際のスペースエッグでの打上テストが残されるだけになった。
この年、極楽技研の米国特許の申請数が、ベストテンに入った。
リゾート地の一部販売開始
平和26年12月、極楽グループの売上は、4兆円、粗利は、3兆円となった。
極楽発電が出来て4年目にして、極楽発電の営業利益は、1兆5千億円になった。
極楽グループの従業員は、14,000名を超えた。特に増えたのは、極楽マートで、従業員が5,000名を超えた。急激な店舗展開で100店舗を超えた。これに続くのが極楽商事で1,500名であった。
非常に優秀な研究者や技術者、一般職の人材が多数集まっては来ていたが、
これをサン達と極楽学園出身者の70名程でコントロールしていた。
幸まで駆り出されて、学園の責任者や経営、それと極楽グループの資金の管理を任されていた。まるで中小企業の家族経営だった。それを量子コンピュータとAIのアウルが支えていた。
14,000名の中小企業だった。
極楽グループは、まだまだ極めて危うい運営を続けていた。
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