第7話 告白

 次の日の日曜日。


 俺は、自室で久々に小説を書いてみようかなと思っていた。


 そもそも、今は締め切りをまさにぶっちぎろうとしている所で、せめて何らかの文章を書いて、進捗としないといけない。


 だがこれまで、融けた鉛のようにまとわりつく、デビュー作への酷評を見た時の感情が、ずっと、俺の手を止めていた。


 ――たぶん、本質的に俺は才能がないんだろう。


 その事は、あのレビュー達という結果を見れば明らかだと感じていた。

 自分なりに一生懸命書いて、今回は結構よく書けたかなと思って、見事受賞して、それであの評価なのだ。

 根本的に認識が甘いと言わざるを得ない。


 だが――


 俺は、美里花と出会って、美里花の詩を書く姿を見て、あんなに楽しそうに表現できる奴がいるんだな、と素直に驚いた。

 それは俺の胸をざわつかせる、少なくとも穏やかにはしてくれないような驚きだったが――

 同時に、俺は憧れた。

 美里花という少女に、純粋に憧れてしまっていた。


 美里花はあんな風に楽しそうな笑顔で表現して、それで出来上がったものがあの「ペンギン」なのだ。

 あの詩は、瑞々しかった。

 美里花に最初に見せてもらった詩より、さらにずっといいと感じた。

 それだけ、美里花が俺とのデートで感情をいきいきと発揮していたという事なのかもしれないと、うぬぼれた事も思わず思ってしまったが――

 そういった高揚感のようなものも含めて、俺は、また書いてみたいと少しだけ思っていた。


 だが――


 執筆用に購入したノートパソコンを開こうとしたところで、俺は強烈な不快感に襲われた。


 ――怖い。

 ――書くのが、怖い。


 そんな感情が、制御できないところからやってきて、俺の心を瞬く間にいっぱいにしてしまう。

 それに加えて、締め切りを守れない小説家なんて無価値だ、クズだ、といった思考まで押し寄せてきて、俺はもうダメになってしまった。


 よろよろとノートパソコンをしまい、ベッドに倒れこみ、布団を抱くようにする。


 ――ああ。

 ――俺はクズだ。

 ――美里花……

 ――お前なら、こういう時、どうするかな?


 俺は、美里花だけが俺に残された唯一の光であるかのような、そんな感覚を抱いていた。


 ――美里花……

 ――お前みたいに、なりたいよ……


 俺は鬱屈とした気分のまま、美里花という淡い希望に縋るような思考を続けて、日曜日を過ごしたのだった。


 *****


 ――だが。


 翌日、美里花は学校に来なかった。


 次の日も、次の次の日も、美里花は来なかった。


 俺は、不安に思い、何度も美里花に連絡をした。

 だが、既読すらついている様子がなく、当然返事もこない。


 これは、俺にとって、想像以上に深い精神的ダメージを負う出来事だった。

 それくらい、美里花の存在は、俺の中で大きくなっていた。


 俺は授業中も美里花の心配ばかりして、まったく内容が頭に入っていなかった。

 放課後になって、いい加減本気で美里花の家を先生に聞いて、訪れようかと思いだした、その時だった。


 美里花から返事が来た。


「家に来て。住所は――」


 あまりの突然さに、俺が思わずぽかんとしていると、続けて連絡がきた。


「おなかすいた」


 またしても、ぽかんとする。


「――まったく、なんなんだあいつは……!」


 俺は美里花の勝手さに、怒りを感じた。

 人に散々心配させておいて、いきなり家に呼びつけて、挙句の果てに「おなかすいた」だと?


 ――どうやらあいつには、一言物申さないといけないようだ。


 住所を調べると、どうやら美里花の家は、桜海高校から俺の家を挟んで反対側にあるようだった。


 俺はいったん家に立ち寄り、炊飯器に残っていたご飯で、いくつかおにぎりを作った。


 全て、雑に塩を混ぜてのりを巻いてラップに包んだだけの、簡単仕様だ。

 それから俺はおにぎり達をタッパーに詰めて、美里花の家に向かった。


 到着した俺は、そこがかなり高級な住宅街にある事に少しびびりながらも、勇気を出してインターホンを押した。


 しばらく返事が無かったが、やがて美里花の声がした。


「鍵空けたから、入って」


 どうやら遠隔で鍵を操作できる高級仕様らしく、扉を引くと静かに開いた。


「……お邪魔します」


 大理石で出来た玄関の床には、美里花の学生靴だけが置かれており、他の靴は靴箱に仕舞われているようだった。俺は彼女の靴の横に自分の靴を揃えて、上がっていく。

 廊下にはいくつか綺麗な風景画が飾られているが、他に物は一切置かれていなかった。


「こっちきて」


 美里花の声がしたので、俺は呼ばれるがまま階段を上り、やはり物が置かれていないなと思いながら、2階の廊下に到着する。


「こっち。はやくきて」


 またしても美里花の声がしたので、俺は廊下に並ぶ扉の一つを恐る恐る開ける。

 なんというか、高級感には溢れているのに、生活感は一切ない家だなと思っていたが、開いた美里花の部屋は、ちゃんと部屋らしい部屋だったので、一安心した。


 部屋の中に入ると、西日が差す窓の傍に、可愛らしさとは無縁の殺風景のベッドがある。


 部屋の主である美里花は、そこにパジャマ姿で倒れていた。

 そう、寝ている、というよりは倒れている、という表現が正しい。うつ伏せに倒れこんで、微動だにしていないのだから。


「……大丈夫か?」


 俺は部屋の中をこわごわと観察しながら、美里花の方へと歩いていく。

 ベッドの横のサイドテーブルには、良く分からない心理や哲学の本が山積みになっていて、傍らにミネラルウォーターの2ℓペットボトルが3分の2ほど飲まれた状態で置かれている。


 部屋の中で目立っているのは、一面を巨大な本棚が埋め尽くしていていて、そこにはカーテンがかけられている事だ。


 また、あちこちに本が散乱している。やはり心理や哲学の本がほとんどで、たまに小説や詩集が混ざっている。空になった2ℓペットボトルや衣服などもいくつか落ちていた。彼女の辞書に整理整頓という文字はなさそうだ、などと失礼な事を考えたが、今はそれどころではないだろう。


「……ごはん、ちょうだい」


 美里花は、やっとの事でこっちを向いた、といった感じで、そんな要求をしてきた。

 俺は色々言いたい事はあったが、本当に苦しそうな顔をしていて生命の危機すら感じたので、急いで鞄からタッパーを取り出し、蓋を開けておにぎりを一つ手に取る。


「ごはんだ……」


 美里花は、取り出したおにぎりを、どこかの映画の賢者の石を目にした魔法使いのような様子で恍惚と見つめた。意識は朦朧としているようで、口からは涎が垂れている。


「……ほら」


 俺が美里花の手を取って、おにぎりを握らせると、美里花はそのままおにぎりを口に運ぼうとする。


「せめて起きて食え」


 こいつはもうダメそうだなと思い、思い切って美里花の身体を抱き寄せるようにして上体を起こした。


 美里花の身体はとても細く、そして柔らかかったので、どうしてもそこに強く異性を感じてしまう。だが今はそういう場合ではないだろうと、もたげる本能を理性で抑えた。


 そうしてから改めて、美里花は手に持ったおにぎりを、口元へと運ぶ。


 そのまま、凄い勢いでがっついて食べ始めたので、俺は慌ててベッドサイドのミネラルウォーターを手に持ち、フタを開けて美里花が喉を詰まらせるのに備える。


「美味しい……美味しいよぉ……美味しい……美味しい……」


 幸い心配は無用だったようで、美里花はどんどんおにぎりを平らげながら、美味しい、美味しいと喜んでくれていた。


 そんな弱っている様子の美里花も可愛いなと正直思ったものの、苦しそうな美里花を見ているとそんな自分に罪悪感を感じた。


「はぁ、はぁ。ありがと、月也。まだあるの?」


 美里花はおにぎりを一つ食べ終わると、まだ足りないらしく、おかわりを要求してきた。


「あるぞ。水も飲んどけ」


 俺は美里花にミネラルウォーターを渡すと、タッパーの所に戻り、おにぎりを一つ手に取る。

 そして、ごくごくと水を飲み終えた美里花に、もう一つおにぎりを渡した。


「ああ……美味しい……これ、手作りなんだね……月也の手作り……嬉しいなぁ……」


 そういわれると、緊急度が分からなかったので一応手作りをした自分の判断も、あながち間違ってはいなかったと思った。手作りおにぎりで喜ぶ美里花は、とんでもなく可愛く感じたからだ。


「……美味しかった。ごちそうさまでした」


「……おう」


 俺は美里花がしばらく余韻に浸っている様子だったので、それを邪魔しないようにしばらく待ってから、いよいよ本題を切り出す事にした。


「で、いったい何があったんだ? 俺は正直言って、お前にかなり怒っているわけだが」


 そういって睨むと、美里花は弱々しげに笑って、「ごめん」と言った。


「あのね。わたし、この前の水族館、本当に楽しかったんだ。それで、帰ってからも、月也はわたしの詩を読んで、どう思ったかなとか、ペンギンさん可愛かったなとか、そんな事ばかり考えてたんだけどね……その後で、ふと思ったんだ」


 美里花は、感情を読ませないような表情で、こういった。


「――わたしの人生の絶頂は、間違いなく今日だな、って。もうこれ以上の幸せを感じる事は無いだろうな、って。で、そう思うとね、これ以上楽しい事が起こらないなら、これを最後の特大の思い出にして、綺麗に死のうって思ったんだ」


 俺は、唖然とした。


 こいつは、ここまで異常な思考回路をしていたのか……


 そんなになるまで、追い詰められていたというのか……


「でね、自分から自殺するのは、怖くてうまくいかないだろうから、食べない事にしようって思ったんだ。ごはんを食べなければ、何日かで死ねるかなって。それなら、死ぬ怖さもそんなになくて、緩やかに死ねるかなって」


 聞けば聞くほど、俺は美里花の異常性に戦慄した。


 ――食べない事にしようって思ったんだ。


 その言葉が、何度も頭の中で反響する。


「でも、実際やってみると、お腹空いてるのが本当につらくってさ。2日は我慢できたけど、3日は無理だね。身体もろくに動かす元気なかったから、思わず月也に助け呼んじゃった。ごめんね」


「……家族とかには、心配されなかったのか?」


「……気づいてもないと思うよ。あの人達、わたしに関心ないから。学校行ってない事すら気づいてないと思う」 


 その言い様に、またしても唖然としてしまう。


 いったいどんな家庭環境で育ったんだ、こいつは……


「はぁ、でもダメだったね。やっぱそう簡単には死ねないや」


 そんな投げやりな様子の美里花に、俺はどうしようもなく怒りを感じた。


「……ふざけんなよ」


 ベッドに近づき、美里花の両肩を掴んで、そのまま背後の壁に押し付ける。


「……痛いよ」


 美里花は、力の入らない笑みを浮かべて、投げ出すようにそう言った。


 そんな美里花の様子に少し興奮が鎮火した俺は、少しずつ、絞りだすように、思いの丈を告げていく。


「……美里花。俺は悲しいんだ。お前と一緒に行った水族館はさ、俺にとっても心底楽しいものだったんだ。でもさ、俺はお前と違ってさ、お前と一緒にいれば、これからも楽しい事がいっぱいあるって、色々な思い出を作れるって、そんな風に希望を持ったんだよ。なのにさ、いきなり学校に来なくなって、挙句の果てには死のうとしていてさ。俺が、どれだけ辛かったか分かるか? どれだけ泣きたかったか分かるか? なぁ、美里花……? お前は俺の事が、嫌いなのか……?」


 そういうと、美里花は最後の言葉に鋭く反応した。


「ち、違う! わたしは月也の事は嫌いなんかじゃない! そうじゃない! そうじゃない、んだけど……」


 そう言って俯く美里花に対して、俺はそっと彼女の左手を取って、自分の両手で包み込むようにする。


「美里花……この際だから、はっきり言う。俺、東雲月也は、お前が、西野美里花が、好きだ」


 美里花は、はっと気づくように顔を上げて、頬を大きく赤らめて、こちらを見つめてくれた。


「美里花のさ。明るさと暗さっていうのかな。光と闇の混ざり合ってる感じみたいなのに、どうしようもなく心惹かれてる。それにさ、お前はやっぱ、自分でも言っちゃうくらい、とんでもなく可愛くてさ。ふと近づかれただけで、めちゃくちゃドキドキするんだよ。目とか、髪とか、綺麗すぎるんだよ。しかもめっちゃいい匂いとかまでしてさ。ずるいんだよ。それでさ、なによりさ。お前の詩、すごすぎだよ。俺だって一応プロの小説家なのにさ。俺の文章より、全然強く心を動かすものになってるんだよ。才能の塊なんだよ。見てて、眩しくなっちゃうんだよ」


 少しでもこの気持ちを伝えようと、俺は必死になって言葉を重ねる。


「俺があの幼い頃の詩を読んだ時、どれだけ引き込まれたか分かるか? あのペンギンの詩を読んだ時、どれだけドキドキしたか、本当に分かってるか? お前はさ、凄いんだよ。言葉で人の心をさ、確かに感動させてるんだよ。それがどれだけ難しいことか、俺はこれでも分かってるつもりなんだ。すごい磨かれた感性とさ、すごい綺麗な心が要るんだよ。だから、俺はそんなお前のことをさ。宝物みたいに、守ってやりたいんだ」


 ……言えた、と思った。


 自分なりに、美里花の心に届かせるための、ベストは尽くせたと思った。


 あとは、一生懸命美里花の美しい瞳を見つめて、思いを少しでも多く伝えるしかない。


 そんな、やりきったと思った俺に対する、美里花の返事は残酷だった。


「ごめん。月也の気持ちには応えられない」


 ――世界が、暗転したと思った。

 目の前が真っ暗になるとは、こういう事かと生まれて初めて理解した。


「月也には、もっといい人がいると思う。わたし、もうさ、色々ありすぎて心が限界でさ。おかしくなっちゃってるんだよ。なんかさ、自分が幸せになろうとするとさ、そんなの無理だって、そんなの自分じゃないって、そんな揺り戻しみたいなのが来ちゃうんだ。どうしようもなく、死にたくなっちゃうんだ。だから、ダメだよ……ごめん……」


 謝る美里花に対して、俺はそっと、両手を美里花の左手から放す事しか出来なかった。


 ――美里花は、俺の恋人には、なってくれなかったのだから。


「……そう……か……」


 もっと色々言うべき言葉があったかもしれない。

 もっと必死になって食らいつくべきだったかもしれない。


 だが、俺の心もすでに限界だった。

 美里花に受け入れられなかったという現実に、まったく心が耐えられていなかった。


「ごめん、美里花。お前を救えなくて……」


 ――だが。


 俺は、それでも、せめて言わないといけない事があると――


 ――なんとか、なけなしの力を絞り出す。


「……美里花。一つだけ約束してほしい……お前が本当に死ぬって思ったときは、必ず俺に教えてくれ」


 それは、俺のせめてもの、最後の抵抗だ。

 美里花に、俺の知らない所で死んでほしくないという、そんな醜い自己中心性の発露。


 だが、それでも、俺は美里花が自分に黙っていつの間にか死んでいるなんて、絶対許す事は出来なかった。


「わかったよ、月也。死ぬときは、必ず月也に言う」


 美里花も何かを思ったのか、そういってきちんと約束をしてくれた。

 俺はその約束にすがり、なんとか心を立ち直らせると、よろよろと立ち上がる。


「おにぎり、もういっこあるから、後で食べてくれ。俺は、行くよ。恋人でもない奴が、長々と女子の部屋にいるのは、悪いしな。ごめんな、美里花」


 俺は静かに鞄を持って、タッパーに入ったおにぎりをベッドサイドテーブルに置くと、立ち上がる。


「……あ……月也……」


 立ち去ろうとする俺の背後に、美里花の弱々しい声が聞こえた気がした。だが俺にそれに応える余裕はなく、黙って部屋から去って家を出た。

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