第20話

 どのくらい時間が経っただろうか? コツンと、額を叩かれて、僕は我に返った。

 口の端から垂れた涎を拭い、おもむろに目を動かすと、スカートの裾から伸びる細脚が見えた。さらに顔を上げると、眉間に皺を寄せた皆月が僕を見下ろしている。

 僕は唾を飲み込んだ。

「どうした?」

「なにやってるの? 早く準備してよ」

「え…、あ」

 時計を見ると、八時半だった。

「わかったよ」

 僕は凝り固まった腰に鞭を打って立ち上がると、ハンガーラックの方に歩いて行こうとする。

「ねえ」

 その瞬間、皆月が僕を呼び留めた。

「なんで泣いてるの?」

「え…」

 何を言っているのかわからず、足を出したまま固まった。

 その瞬間、頬を熱い雫が零れ落ち、埃っぽい床で四散する。

「あ」

「ほらぁ泣いてる」

 皆月は低俗な小学生のように言い、僕の目元を指した。

「なんか、悲しい夢でも見たの?」

「ええと…」

 僕は濡れた頬を掻き、脳を回転させた。

 だが、先程見た気がする夢は、掻き消された煙のように、思い出すことは叶わなかった。

「…忘れた」

「そう、まあどうせ、寝ぼけてるだけなんでしょうね」

 皆月はそれ以上追及しなかった。

「ほら、時間無駄にした。早く着替えてよ」

「はいはい」

 文句を言われながらも、皆月の前でジーパンを履き、汗が滲んだシャツを脱ぐと、徳利のついた長袖、その上に薄目のチェスターコートを羽織る。

「一丁前にチェスターコートなんて、いい身分なのね」

「このくらい普通だろ」

 僕のファッションセンスを馬鹿にした皆月を、僕は睨む。

 だがすぐに、脳の裏に痺れるような感覚が走り、罪悪感が胸に溢れた。

 コートを羽織った肩を落とし、ため息交じりに言った。

「…いや、これ確か、古着屋で買ったやつだよ。五百円で。うん、憶えてる。今思い出した」

「やっす」

 皆月は反射でそう言った。

「ってか、人が着てたやつ、よく着れるね。私は無理だわ」

「人に良く見られたい。でもお洒落をするとなると金がかかる…。貧乏で見栄っ張りの、身の程知らずの、馬鹿な男が選んだ服ってわけだ」

 本当は、「中古かどうかなんて、他人には判断できないだろう」「安くていい服を着れるんだから良いじゃないか」と反論してもよかったのだが、やはり後ろめたさが勝り、自虐が飛び出した。

 皆月舞子は小さく頷くと、手元にあったメモ帳に書き記した。

「…ナナシさんは、貧乏で見栄っ張りで、身の程知らず…っと」

「おい…」

「そのコートを買った日のことは憶えてる?」

「ああ、いや、その…」

 僕は言いよどんだ後、肩を竦めた。

「そこまでは、思いだせないや…」

「ああそう」

 僕が言い終わるよりも先に、彼女はメモ帳をポケットに仕舞い込んでいた。

「また思い出したら言ってね」

 そして、鞄を掴むと、顎で時計をしゃくった。

「早く大学に行くよ」

「そして、その大学でも、僕のつまらない人間性が露呈するってわけか」

 自虐し笑うと、僕も鞄を掴むのだった。

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