第4話

「僕の名前は、譛晄律螂亥?讓ケ…、ですけど」

 白で満たされた部屋に、僕の声が響き渡る。

「え…」

 言った後で、僕は違和感に気づく。わきの下に、汗が滲む。

 何だ今の? 僕は得意げに、自分の名を披露した、はずだ。だが、僕の鼓膜、及び女性の鼓膜を揺らしたのは、名前ではなかった。全く意味不明の言葉。いや、言葉ですらない。黒板を爪で引っ掻いた時のような、はたまた、ビデオデッキがテープを巻き取るときの音のような…、とにかく、誰も理解することは叶わない、奇妙な音が響き渡っていたのだ。

 女性が首を傾げ、小さな耳を僕に向けた。

「あの、何とおっしゃいましたか? もう一度お願いします」

「あ…、はい」

 きっと、噛んだためにさっきのような声が出たのだと思った僕は、もう一度言うべく、息を吸い込んだ。そして、今度こそ、僕の名を告げる…。

「………………」

 だが二度と、僕の口から己の名が放たれることは無かった。

 何処にも無いのだ。僕の脳ミソの中をどれだけ探しても、「僕の名前」に該当するものが見つからなかった。

 いや、そんなはずはない…と、背中に冷や汗をかきながら、僕は記憶を辿る。

 女性の顔がみるみる険しいものへと変わっていく。

 気まずさを覚えた僕は、時間稼ぎのために苦笑を浮かべた。

「あ、ちょ、ちょっと、待ってください。今思い出しますから…、大丈夫大丈夫、もう、喉元まで思い出してますから…」

 自分の名前を思い出す…だなんて、変な話だ。

 女性は、もう結構…と言わんばかりに、身をひるがえすと、オフィスデスクの引き出しを開けた。そこにあったプラスチックのケースを開け、取り出したのは、USBメモリのような小さな記憶媒体。形状的に、先ほどの謎の黒い機械に差さっていたものと同じだった。

 僕の方を向き直った女性は、有無を言わせず、その記憶媒体の端子を、僕の腕に押し当てた。

 すると、記憶媒体のボディが藍色に輝き、点滅する。

 心なしか、皮膚に当たった金属の部分が熱くなった。

「あ、あの…、一体何を」

「動かないでください」

 女性にそう言われ、僕は止まる。

 十秒ほどそうしていた後、女性は僕の皮膚から、記憶媒体を放した。そしてそれを、デスクトップパソコンに差し込む。

 マウスを掴んだ女性は、忙しなくクリックをして、フォルダか何かを開いた。

 そして、十秒ほどのラグがあった後、画面には白いウインドウが表示される。それを目の当たりにした瞬間、女性は天井を仰ぎ、悲痛な声を上げた。

「ああ、もう…」

 白い部屋に、女性の苛立ちが籠った声が響き渡った。

 女性はしばらく、僕の存在を忘れたかのように、目元に手を当てて、「もう、なんでよお」だとか、「どうしようこれ…」だとか、不安に駆られるようなことを呟いていた。

 遂には、コツコツコツ…と、靴裏で床を叩く。

 もしかして、悪いことをしてしまったのかな? と思った僕は、息を殺し、俯いた。

 すると、女性が言った。

「お客様、大変申し上げにくいのですが…」

「あ、はい…」

 顔を上げ、女性の方を見る。

 すると女性は、背筋を伸ばし、唇を結ぶと、腰を直角に折って頭を下げた。

 その時見えた女性の胸元に、僕は視線を奪われる。

「申し訳ございません。お客様の名前が、消失してしまいました」

 まるで、見てください…と言わんばかりに開けられた襟。そして、当然見える白い二つの山。零れ落ちそうなそれを黒いブラジャーが覆っていて、施された黒いレースを、一体何人の男がなぞってきたのか…。

「は?」

 女性が放った言葉がしみ込んで来た瞬間、ピンク色に染まっていた脳内が、凍り付くのがわかった。その一秒後には皮膚が粟立ち、視界の端が白く褪せる。

 視線を、胸から女性の顔に上げた。

「今、なんて言いました?」

 名前が…、なんだって?

 女性は頷いた。

「ですから、お客様の名前が、消えてしまったのです」

「き、消えた…?」

 なお意味が分からない。

 もう女性の胸を見続ける余裕なんて無く、僕はぺたぺたと、自分の顔に触れた。

「名前が消えたって…、どういうことですか?」

 僕の質問に、女性は顔を上げ、はっとした。

「ああ、そうか…」

 そう洩らすが、何が「そうか…」なのかわからない。

 背筋を伸ばして立った女性は、コホン…と咳ばらいをし、若干落ち着きを取り戻した表情で、僕にこう聞いた。

「お客様はさっき、今、自分がどこにいるかわからない…とおっしゃいましたね」

「ええ、まあ…」

「では、ご説明しましょう」

 息を吸い込み、告げる。

「ここは、お客さまの過去を改変するサービスを行うお店でございます」

「え…」

 そう言われた時、僕の記憶が、ほんの少しだけ戻るのがわかった。

 口元に手をやり、視線を落とす。脳の表面に、ぴりッ…としたものが走り、全身を鳥肌が駆けた。

「あ…、あ、ああ…、そうか」

 それから、部屋を見渡した。

 白い壁、白い天井、艶やかなリノリウムの床。オフィスデスクには、大きなパソコン。傍に置かれているのは、謎の機械…いや、出力機。そして、謎の記憶媒体…いや、あれはビタースイート。

 そして、僕の目の前に立っているのは、僕を担当してくれた、姓名変更師。

「…………」

 そこまで思い出した僕は、泣きそうな気持ちになりながら鼻で笑い、こう思うのだった。

 とんでもないことになったぞ…と。

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