第二話 Knave 4/7

「やあ、岩橋。探したよ」

ナイフを片手に持ち、伊藤は笑いもせずに言う。

僕は無視して周りを見回すが、大型車の陰に隠れたのが災い、逃げ道など見つからなかった。唯一の出口は伊藤によって塞がれている。


「おじさんをあんまり走らせるんじゃないよ。君たち子どもと違って体力がないんだから」

伊藤はじりじりと歩み寄ってくる。オレンジだった空は暮れ始め、だんだんと暗くなっていた。夕日を背にした伊藤は影のようになって僕に覆いかぶさり、まるで化け物のように見えた。


「『Knife』」

唐突に伊藤が呟いた。

その瞬間、伊藤の右手が光り始め、そして気付いた時には、彼の手には銀のナイフが握られていた。僕の腹に刺さっていたヤツと同じだった。


「『K』だったんだよね、俺の文字」

「…………そうか……」

僕は、血を飲みすぎてガサガサになった声で答えた。答えてから、咳をして血を吐いた。


「お前は昼、動物を作っていたから……『Animal』の『A』かな? それとも『Organism』の『O』か?」

「…………」

「まあ、どうでもいいか。──よし、じゃあ殺す」

と、伊藤がナイフを振りかざした瞬間だった。


「『Mist』!」

僕は叫び、ナイフを避けるために身体をひねった。金属同士がぶつかる嫌な音が響く。

直後、右手が淡く光り、周囲が真っ白になる。

「なん……」

僕は立ちあがり、困惑する伊藤の脚を思い切り蹴る。

「いッ……! お前ェ!」

激高する伊藤を思い切り突き飛ばし、大型車のドアミラーにぶつけた。その隙に僕は走り出し、伊藤が塞いでいた道を抜け、無事にそこを脱出した。


──ように、思えた。

自分でも何が起きたのか分からない。いきなり身体が止まったかと思うと、左足に激痛が走り、僕は地面に倒れていた。頭を強く打ち付け、意識が朦朧とした。

そしてその朦朧とした意識の中で、僕は伊藤の足音が近づいてくるのを聞いた。

「──『Mist(霧)』ねぇ……。お前の文字は『M』だったか、岩橋」

こざかしい事を、と、伊藤が唾を吐く音が聞こえた。足音が近づいてくると共に霧が晴れ、僕の目の前に伊藤の足が現れる。


「今度こそ終わりだ。もう容赦なんてしねぇ」

伊藤はそう呟くと、僕の右手を思い切り踏みつけた。

「ぐッ……!」

その痛みに耐えながら顔を上げると、伊藤の右手が淡く光っていた。彼は歯を見せて笑うと、まるで僕に聞かせるようにして、呟くようにこう言った。

「──『Kalashnikov』」


光がおさまり、霧は完璧に晴れた。僕の目の前には、黒くて大きい『何か』を持った伊藤が立っていた。

自分の手元を見て、伊藤が短く口笛を吹く。

「……それはなんだ」

「カラシニコフ銃だ」

伊藤は答えた。


「カラシ……?」

「ああ。いわゆるAK-47ってヤツだな。『史上最悪の大量殺人兵器』とも呼ばれてる」

伊藤は愛でるようにその銃を撫でた。その様子を見て、僕は静かに絶望する。


──そんな。銃なんて出されてしまったら、とても太刀打ちできない。


「……撃つのか……? 生徒に対して……」

僕は反抗するように、そしてどこか命乞いをするように、伊藤に訊いた。しかし、伊藤はそんなものどこ吹く風で答えた。

「ああ、ぶっぱなす。お前の顔目掛けてな。──ただ、その前に岩橋。一つ訊きたい」

伊藤は腰をかがめ、僕の目の前に顔を突き出した。

「さっきのアレは、一体なんだ?」


さっきのアレ?、と、僕は繰り返す。それが何を指しているのか、僕には分からなかった。

伊藤は「だから」と言う。

「さっきの……血痕の事だ。血痕は左に伸びていた。だが、お前は右の道に隠れてた。結果、俺はお前に背を向け、刺されてしまった……」

「ああ」

僕は呟く。「……簡単なトリックだ。僕は、お前が僕の血を追って来ている事を逆手にとったんだ」

僕は倒れこんだまま、右手の甲を伊藤に見せた。

「『Mislead』を使って」


伊藤は一瞬考え、すぐに「なるほどな」と言った。がちゃ、と銃が金属音を立てる。

「Mislead……。ミスリード、か。誤解させる、とか、だます、とか……」

「ああ、そうだよ。おあつらえ向きの単語だろ? 即興にしちゃ、よくできた方だと思うぞ」

僕は強がって、歯を見せて笑う。本当は、今にも泣き出してしまいそうなほど怖がっているのに。

「──ああ、そうだな」

伊藤は小さく呟いた。僕はその瞬間、ぽろりと涙をこぼす。



「──僕の……方からも……訊いていいか……?」

絶えず銃口を僕に向ける伊藤に対し、僕は途切れ途切れの声で訊いた。伊藤はすぐに「いいぞ」と答えた。きっと、もう僕に抵抗は不可能だと判断したんだろう。

その判断は正しい。僕はぎゅっと手を握る。


「さっき……お前、何をした……? 僕はあの霧を出した後、完璧に逃げられた……。逃げられたはずだったんだ……。はァ……なのになんで、僕は今、地面に倒れている……?」

「はあ」

伊藤はため息をつくみたいにそう言った。「俺は何もしてない。お前が左足を車のタイヤに引っ掛けて、派手に転んだ。それだけの事だ」

馬鹿な、と僕は声を上げる。しかし伊藤は

「馬鹿じゃない。本当だ」

と答えた。

「伊藤、なにかしたな……!?」

「やっと気が付いたか」

伊藤はにやりと笑う。


──この戦い、どこかずっとおかしいと思っていた。

伊藤を刺した後、僕は靴紐を踏んで転んだ。

伊藤から逃げ、隠れた後、ネズミが僕の足元で鳴いた。

そしてさっき、伊藤に反撃をした後、僕はタイヤに足を引っかけて転んだ。


僕にとって良い事が起こった後、必ず悪い事が起こっている。逆を言えば、伊藤にとって悪い事が起こった後、必ず良い事が起こっている。


「『Karma』」


伊藤が口を開く。

「カーマ……ああ、いや、日本だと『カルマ』って言われてるヤツだな。聞いたことくらいはあるだろ? 仏教用語で……まあ、俺にも詳しいことはよく分からんのだが……『目には目を、歯には歯を』っていう考えだと思ってもらえれば良い」

伊藤は僕の顔を見据え、「分かるか?」と訊いた。「人に与えた危害は、自分に返ってくる……。俺がナイフで刺されたから、お前にも同等の不幸が降り注いだ、ってワケだ」

伊藤は自分を親指で指さした。


「──じゃ、もういいかな? そろそろ帰んなきゃ、嫁に怒られるんだわ。覚悟決めてくれ」

伊藤はそう言うと、僕の額の真ん中に、カラシニコフ銃の銃口を向けた。冷めた鉄の塊は僕の肝すら冷やし、覚悟など決める暇も無いまま、伊藤は引き金に指をかけた。


ドウッ、っと、耳をつんざく様な爆音が、辺りを包んだ。

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