表現することの「責任」

 物語の登場人物の人間性と、現実の書き手の人間性とは必ずしも一致しない、これは否定しようもなく正しい。しかしこの説が正しいことをもって、多くの書き手は次の説までも正当化しようとする傾向がありはしないか――物語の登場人物の人間性と現実の書き手の人間性とは別物なのであるから、仮に物語の登場人物の人間性に影響を受けた読み手がいたとしても、

 はっきりと申し上げて、この説は誤りとまでは言わぬものの、愚説の類である。少年犯罪の責任の全てを親が取る必要はないという主張と、少年犯罪の親には一切の責任がないという主張を同一視するのは莫迦げている。それはあくまで社会制度上の都合で親の責任は(損害賠償等を除いて)追及しないというだけのことであって、親に責任がないということにはならないのは自明であろう。ところがどういうわけか、著作物が与える社会的影響に関して、著作者には責任がないという珍説が罷り通っている――どう感じるかは人それぞれですから。個人の見解に過ぎませんから。あくまで架空の話ですから、云々。そう発言するだけで免罪されると考える者たちの、何と多いことか。

 だからといって不適切な表現を行った創作者は厳罰に処し、著作物は発禁処分とすべきである、などというのは烏滸の沙汰であるし、むしろ私はそういった圧力をかけようと目論む人間には嫌悪感すら覚える。そういう手合いは往々にして自分達の主義にとって都合の悪い者には徹底的に攻撃を加える一方で、自分達の持つ不道徳な側面には無頓着か、或いは気づかぬふりを装うものである……それはさておいて。

 私の謂わんとするところは、極めて単純だ――創作者は、表現することの責任について自覚的であるべき、ということである。それは、という現実に、徹底して向き合うべきであると言い換えてもよかろう。

 自分がこれを是と見做している事柄についても、必ずや非とすべき側面があるはずだ。翻って、自分が心底憎んでやまぬ対象についても、一抹の正義が宿っているに違いない。そのことについての飽くなき自問の末に辿り着いた表現には、

 さてここまでで私は「」の悪徳を白日の下に晒すことに注力してきた。従ってここからは、「もう一つの悪徳」について告発することとしよう。 言うに及ばず――「」の悪徳についてである。

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