第33話   決着

「遅い」


 秋兵は下腹部目掛けて繰り出された前蹴りを難なくかわした。


 蹴りの先端が下腹部に当たる直前、素早く身体を半身に移行させたのだ。


 驚くべき動体視力と反射神経である。


 ただ秋兵の能力は動体視力や反射神経だけに留まらない。


 何と秋兵は半身になった勢いに乗せて反撃の蹴りを放ってきた。


 虚空に半円の軌道を描く蹴り。


 近代空手の花形と言われる廻し蹴りである。


 狙いは頭部。


 武琉は咄嗟に腕を上げて防御したが、秋兵の上段廻し蹴りは防御した腕ごとへし折られるほどの威力が込められていた。


 屋上の一角に拳銃の発砲音にも似た乾いた音が響き渡る。


 または強靭な鞭が空気を対象物に直撃した音だっただろうか。


 どちらにせよ、秋兵の上段廻し蹴りを受けた武琉の腕からそのような音が響いたのだ。


 武琉に上段回し蹴りを防御された秋兵は、特に気にした様子もなく後方に跳んで距離を取る。 


「取り敢えず挨拶代わりだよ。どうだい? 僕の蹴りは中々のものだろ?」


「くう……デージ(とても)効くさぁ」


 皮肉ではない。


 秋兵の蹴りは踏み込み、腰の捻転、体重の乗せ方、およそ蹴りに必要な要素が完璧に融合された文句なしの蹴りだった。


 辛うじて防御したものの、まともに頭部に食らえば昏倒ぐらいでは済まないかもしれない。


 防御した腕の表面を擦りながら武琉はふてぶてしく言う。


「聞いた話だととっくに空手は止めたんじゃなかったのか? それとも道場に通うことを止めただけで修練は続けていたのか?」


「君はどっちだと思う?」


「後者」


 武琉は即答した。


「そう思う理由は?」


「空手の修練なんてどこでもできる。それこそ畳み一畳分のスペースがあればな」


 その回答に満足したのだろう。秋兵はにやりと笑った。


「やっぱり君はいい。それでこそ僕も自分の欲求に従った甲斐がある」


 秋兵は両腕を上げて顔面を防御すると、身体を左半身に移行させてリズムを取った。


 競技空手でよく見られるオーソドックスな構えだ。


 一方、武琉も秋兵の実力を認めて構えを取った。


 身体は秋兵と同じく左半身。


 だが開手にした右腕を掌が上に向くよう腰に引きつけ、手刀の形に変化させた右腕は正中線に重なるようにして眼前に立てた。


 また両足は肩幅ほどに開き、前足は爪先だけを地面につける猫足と呼ばれる形に変化させる。


「なるほど、君の得手も空手だがフルコンじゃない。型稽古を主とする古流空手か」


 これには武琉も驚いた。


 構えを見ただけで古流と見破るとは、秋兵は空手の歴史についての知識も豊富なのだろう。


「さすがの僕でも古流と闘ったことはないからね。せいぜい楽しませてくれ……よ!」


 語尾を強調したと同時に武琉は猛然と突っ込んできた。


 早い動きだ。


 擦り足気味に移動する武琉と違って短距離走者のように疾駆してくる。


 そして武琉の制空権内に無断侵入してきた秋兵は、ボクシングのジャブのような刻み突きを連打してきた。


 武琉は受け専用に前方に出していた左腕一本で受け流していく。


 しかし秋兵の猛攻をすべて食い止めることはできなかった。


「シッ!」


 刻み突きの連打から繋げるように秋兵は右拳を繰り出してくる。


 相手の脇腹を狙う鉤突きだ。


 ボクシングでいうところのフックに当たるだろうか。


 人体の中でもひ弱な箇所に当たれば悶絶する。


 それでも武琉は秋兵が放ってきた鉤突きの軌道を目で追っていた。


 武琉は古流空手を修得しているものの、ボクシングやキックボクシングの技術を取り入れたフルコンタクト空手にも着目していた。


 なのでフルコンタクト空手の有段者と思しき秋兵の攻撃にも予想がついた。


 武琉は瞬時に左腕を脇腹に引きつけて鉤突きを防御。


 筋肉を通り越して骨にまで到達するような衝撃に武琉は苦悶の色を浮かべたが、肋骨を折られるよりは遥かにマシだ。


(おそらく次に仕掛けてくるのは――)


 鉤突きを完全に防御した武琉だったが、目の前にいる秋兵の目を見ればよく分かる。


 攻撃はまだ終わっていない、と。


 すぐに武琉は自分の予想が当たっていたことを察した。


 鉤突きを防御された秋兵は間髪を入れずに追撃を放ってきたのだ。


 下段廻し蹴りである。


 まずは上に防御と意識を集中させ、無防備状態と化した足にダメージを与えようと秋兵は思ったのだろう。


 フルコンタクト空手やキックボクシングでは定石な手段だ。


 もちろん武琉は下段廻し蹴りに対する防御も心得ている。


 奥足である右太股を狙ってきた下段廻し蹴りに対しては、膝蹴りの要領で足を上げるだけでいい。それだけで自分の脛が当たって逆に相手側がダメージを受けるはずだ。


 まさにそう思ったのだが、受けに回っていた武琉の行動はいつしか意識すらも受けに回っていた。


 膝を上げて防御の体勢を取った後、秋兵が繰り出してきた下段廻し蹴りが変化した。


 何と蹴りと見せかけての踏み込みだったのである。


 これには武琉も面食らった。


 攻撃だと思った下段廻し蹴りが、次のステップに移るための布石だったのならば本当の狙いは――。


 不意に顔面横から突風が吹き荒れてきた。


 その物理的攻撃力を伴った突風は武琉の顎を容赦なく打ち抜いた。


 武琉の口内から唾液とともに鮮血も飛び散り、身体は頭部に引っ張られるように真横に吹き飛んだ。


 雑草が生えていた地面に何回か転がって停止する。


「おいおい、あの一瞬で首を捻って攻撃を半ば流しただけでも驚愕に値するのに、自分から飛んでさらに攻撃を無効化したのかい? 凄いな」


(簡単に言うな)


 ぺっ、と血が含まれた唾液を地面に吐き、武琉は膝に手を添えて立ち上がった。


 まだ頭がクラクラする。


 小型の破城槌に殴打されたような感触だった。


 続いて武琉は鈍痛がする顎を擦った。


 どうやら顎は砕かれていない。歯も全部無事だ。


 ほとんど無意識の行動だったが三分の一程度のダメージで済んだようである。


 上段廻し膝蹴り。


 自分のダメージを観察した結果から、武琉は今ほど受けた攻撃の種類を特定した。


 相手の腹部や真下から顎を狙う通常の膝蹴りとは違い、秋兵が仕掛けてきた膝蹴りは上段廻し蹴りの軌道だったに違いない。


 だからこそ、攻撃を捌いてもこれだけのダメージが蓄積しているのだ。


 誇張ではなく、まともに食らっていれば顎は粉砕されていただろう。


 先ほど〈ギャング〉たちの怪我の具合から技を予測していて助かった。


 まあ、相手が晴矢ではなく秋兵だったことには驚いたが。


 浅く呼吸を吐いた武琉は自流の構えを取った。


 拳撃、蹴撃を体力が続く限り縦横無尽に繋げられる秋兵の構えとは違い、傍目から見れば後手を狙う全時代的な構えを。


「確かに防御は上手い。それに先ほどの前蹴りもよく反復練習を重ねられていた。だが君は古流に拘って近代空手を舐めている。まさか一撃必殺なんて理想を未だ本当に信じているわけじゃないよな?」


 口の周りに血が付着している武琉に秋兵は余裕の表情で言う。


「君たち古流空手が謳っていた一撃必殺の概念は近代空手が粉々に打ち砕いた。まさか知らないとは言わせないよ」


 武琉は構えを崩さずに無言を貫く。


「だからと言って僕は君と空手談義に花を咲かせるつもりはない。ただ、僕は一人の空手家として君と仕合いたいんだ」


 そういうことか。


 武琉は秋兵の言葉を聞いてようやく一つ真意が分かった。


 秋兵は非日常の闘いに飢えている。


 煙草に似せたマリファナを〈ギャング〉たちに流したことも、こうして正体を明かして仕合いを申し込んでくることもすべては非日常の経験に渇望している証だったのだろう。


 つまり――。


「秋兵のマブイ(魂)は落ちたままなんだな」


 そうとしか考えられなかった。


 ウチナー(沖縄)では精神にダメージを負った状態に陥ることをマブイ(魂)が落ちると言う。


 そしてこのマブイ(魂)が落ちたままの状態が続くと果てしない無気力や絶望感に苛まれる。


 詳しい原因は分からない。


 だがこれだけは言える。


 一見すると健康体に見える秋兵の精神はどこかが壊れているのだ。


「魂の喪失か……当たらずとも遠からずだね」


 くくく、と秋兵はそのとき初めて下卑た笑い声を漏らした。


「僕に魂というものがあったのなら、それは三年前に体外に零れ落ちたままだ。もう、どうすることもできない。だけど、こうして誰かと闘っているときは別なんだ。何かこう、身の内から熱いものが込み上げてくるんだよ」


 下卑た笑い声から一転。秋兵は後光が差したように恍惚な笑みに変わる。


「だから僕と闘ってくれ。この感じが心身の奥深くまで刻み込まれるように!」


 言い放った直後、秋兵は地面を蹴って疾駆する。


 先ほどと同じく接近戦に持ち込む気だろう。全身から放出された殺意が突風から暴風へと変わる。


 武琉は気息を整え、開手にしていた右拳を緩く握り締めた。


 マジムン。


 まさにマブイ(魂)を落とした秋兵は、人間に害を為すマジムン(魔物)に見えた。


 そして本来、マブイ(魂)を落とした人間は霊力の高いユタ(巫女)にマブイグミ(落ちた魂を元に戻す)の儀式を執り行って貰う。


 しかし、武琉はユタ(巫女)ではなく一介の空手家に過ぎない。


 とてもマブイ(魂)を元に戻すという芸当はできない。


 だが、それでも何とかなるかもしれない。ユタ(巫女)としてではなく、空手家としてマブイ(魂)を元に戻す方法が。


 無造作に間合いを詰めてくる秋兵に対して武琉は全身全霊を持って迎え撃った。


 秋兵が間合いに侵入してきた刹那、武琉は緩く固めた右拳を突き出した。


 しかし、正拳突きではない。軽く突き出した右拳を皮膚に添える程度に秋兵に当てる。


 秋兵の鳩尾に添えられた武琉の右拳。


 予備動作を完全に廃した流水の如き淀みない動きに秋兵は大きく目を見張った。


 次の瞬間、武琉の気合が周囲に轟いた。


 同時に地面を擦り潰す勢いで両足を内八字立ちに変化させる。


 まさにその一連の動作が武琉の体内で不可視な力を生み出した。


 両足から発生した力は螺旋を描きながら上半身に向かい、腰の回転によりさらにその力は圧縮され、添えられた右拳に向かって突き進んでいく。


 火山の噴火にも似た爆発力が右拳に異常収斂し、やがて秋兵の表面で一気に弾けた。


「ごはッ!」


 秋兵の口内から透明色の液体が噴出した。


 両目は大きく見開き、全身に稲妻が落ちたように激しく痙攣する。


 一瞬だったが秋兵の髪が強風に見舞われたように逆立った。


 ほどしばらくして、秋兵は平衡を欠いて地面に崩れ落ちた。


 武琉は荒くなった呼吸を抑えながら、地面に仰向けに倒れた秋兵を見下ろす。


「何だ今のは……衝撃が体内を……突き抜けていった」


 油汗を滲ませながら呻く秋兵に武琉は一拍の間を開けて言った。


「秋兵は言っていたな。以前に真壁会長を無力化した技はただの正拳突きだったと……だが違うんだ。あのときも今も俺が打った技はただの正拳突きじゃない」


 じゃあ一体何だ? と目で問いかけてくる秋兵に武琉は惜しげもなく答えた。


「インパクトした瞬間に全身の捻りを加えて相手の体内に衝撃波を発生させる突き――」


 武琉は悲しそうな眼差しで秋兵を見つめる。


「〈当破アティファ〉と言うのさ」

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