第31話 空手着
同時刻――。
晴矢と花蓮とともに羽美は屋上へと足を運んだ。
ただ依然として拘束は解かれていない。
晴矢を先頭に花蓮が羽美の後方にいて縛られている両手を握っているのだ。
羽美はまるで犯罪を起こした容疑者のような扱われ方をしていることに憤怒したが、晴矢はともかくとして花蓮がいる限り抵抗はまったくの無駄だった。
そう納得してしまうほど今の自分と花蓮の実力には雲泥の差がある。
例え両手が縛られていなくとも勝てる見込みはゼロに近いだろう。
だからこそ羽美は導かれるまま大人しく屋上へとやってきたのだが、正直ここにくる理由が不明だった。
一体、屋上に何があるというのだろう。
などと思案した矢先である。
暗闇に包まれていた屋上に淡い燐光が降り注ぎ、1メートル先すらも視認が困難だった視界が徐々に鮮明になっていく。
翳っていた雲が晴れて天空に浮かぶ満月がその姿を現したのだ。
外観とは違って丈夫な造りだった屋上には所々雑草が生え茂っており、本校舎の屋上のように巨大な給水塔などは設置されていなかった。
また転落防止用の金網フェンスは未だその役目を放棄してはいない。
ざっと視線を彷徨わせれば屋上の周囲をぐるりと囲む金網フェンスが見えた。
しかし、そんなことはすぐに羽美の記憶から掻き消えた。
10数メートル前方に1人の人間が佇んでいる。
遠目からでも分かる漆黒のトレーニングウエアを着込み、こちらに背中を向けている人間が1人。
羽美はじっと目を凝らした。
さすがに誰かまでは判別できなかったものの、動き易そうな上下のトレーニングウエアを着用している人間は男だろうと窺い知れた。
「やあ、遅れて済まない」
羽美が第三者の存在を認識した途端、影のように佇んでいたトレーニングウエア男に晴矢は快活に声をかけた。
すぐにトレーニングウエア男は振り向く。
直後、羽美は心臓を鷲摑みされたように驚愕した。
トレーニングウエア男は目元を隠すように深々と野球帽を被っていたのだ。
「別に構わないよ。そろそろだと思っていたからね」
返事をするなり、トレーニングウエア男は被っていた野球帽を取った。
眩い月光を浴びて隠されていた素顔が露になる。
「あ、秋兵!」
今度こそ羽美は心臓が飛び出ると思った。
当然である。
野球帽を目深に被っていたトレーニングウエア男は秋兵だったのだ。
秋兵は阿呆のように口を半開きにしている羽美に言う。
「最初に一言謝っておくよ。本当に申しわけないことをした。〈ギャング〉たちに代わってこの通り謝罪する」
律儀に頭を上げた秋兵に羽美は無言だった。
何か言わなければと思っているのだが、頭が上手く働いてくれない。
「だが原因の一端は君にもあるんだよ。身近で何度なく俺は君にこの件から手を引くように忠告したはずだ。にもかかわらず君は己の意志を頑なに貫き通した。そう、この学園の秩序を守るという馬鹿げた正義感のために」
秋兵は落胆したような顔で淡々と言葉を紡いでいく。
「だからこういう事態に陥るんだ。余計な事に手を突っ込めば手酷い火傷を負うことなど今時の小学生にでも理解できるだろうに……しかし、喉元過ぎれば何とやら。こうして最後に君と会えてよかったと思うべきか」
そこで羽美の頭は通常の機能を働かせ始めた。
ようやく口内から言葉が漏れる。
「何であんたがここにいるの? それに最後って」
本当は他にも訊きたいことが山ほどあった。
なぜ、秋兵は〈ギャング〉たちのことをさも仲間だったように話すのだろうか。
なぜ、晴矢と花蓮の二人が秋兵と待ち合わせをしていたのか。
まったく分からない。
疑問を解決しようと頭を働かせる度、より複雑な袋小路に迷い込むような心境だった。
秋兵は羽美の質問に答える代わりに左手をズボンのポケットに差し入れた。
そしてポケットの中から小さな箱を取り出す。
煙草だった。
「ふむ、確かに君には分からないことが山済みだろう。でも、それは仕方ないんだよ。誰よりも身近にいた君にも悟られないよう僕は常に全力で隠蔽を図っていたのだから」
秋兵は紙箱の中から煙草を1本取り出すと、口に咥えて火を点けた。
ライターは煙草と一緒に取り出した100円ライターと思しきものだ。
羽美はごくりと唾を飲み込む。
秋兵の煙草の吸いっぷりがあまりにも様になっていたからだ。
普段、同じ教室で勉強しているときや生徒会室で役員会議を行っている姿からはとても想像できない。
幼馴染の知られざる一面を垣間見た瞬間だった。
虚空に向けて紫煙を吐き出し、秋兵は煙草の先端に溜まった灰を落とす。
「ただこれだけは言える。羽美、君が調べていた一連の奇行事件の主犯は僕だ。そして晴矢と花蓮は諸事情により僕のサポートを買って出てくれた。その反面、〈ギャング〉たちはそうだな……この場合はやっはり実行犯と言った方がいいのかな」
秋兵が神妙な面持ちで呟いた矢先、晴矢が咄嗟に横から意見を述べる。
「権利を横取りしようとした裏切り者の集団でいいんじゃないか。現に〈ギャング〉たちは取引の中止を提案した君を襲おうと画策したんだろう?」
秋兵は困ったように人差し指でこめかみを掻いた。
「まあね。だがそれぐらいは十分に予想していたさ。今までの取引でも連中の単細胞さには幾度となく苦渋を飲まされていたからね。まったく、あれほど学園内では商売をするなと忠告したのにまるで聞く耳を持たなかった」
「それでもあなたは頑張った。いや、頑張ってくれた。その頑張りのお陰で私たちはようやく自由を得る日がきたのだから」
相槌を打ったのは花蓮だ。
そして気のせいだったのだろうか。
発した言葉の中に嬉しいという感情が滲み出ていたようにも聞こえた。
秋兵は小さく頭を左右に振る。
「別に君たちのためじゃない。あくまでも僕のためにやったんだ。この3年間、1日たりとも忘れられなかった感情をどうにか発散させるためにね」
その瞬間、羽美の全身の産毛が総毛立った。
秋兵から鬼神を想起させる並々ならぬ殺気が放射されたからだ。
やがて屋上には全身に鳥肌が立つほどの静寂が流れた。
まるでこの場所だけ時間が停止してしまったようにも感じるほどの不気味な静寂が。
だが、そんな静寂を吹き飛ばすほどの暴風が突如として巻き起こった。
本物の風ではない。
羽美たちが通ってきた屋上と、階下を隔てている木製の扉が突風に煽られたように開いたのだ。
羽美はすぐに顔を振り向かせた。
爆音とともに開いた扉に視線を向ける。
「真打ち登場……ってところかな?」
芝居がかった台詞を口にした秋兵に対して、羽美の傍にいた晴矢は軽く苦笑した。
「ごほっごほっ……まさかこんなに埃が舞うとは思わなかったさぁ」
暢気な口調で屋上に姿を現した人物は、激しく咳き込みながら中央へと歩み寄ってくる。
「名護武琉」
羽美は自分の婚約者として鷺乃宮家に迎えられた人物の名前を呟いた。
旧校舎の屋上に現れた人物はまさに名護武琉であり、彼はおよそ普段着とは思えない衣装で身を包んでいた。
かつて沖縄に存在していた「手」という武術と中国拳法が合わさり、大正初期に本州へと伝えられた徒手空拳を旨とする武術の稽古着。
白の胴着に黒帯という空手着の上から濃紺なトレーニングウエアを羽織ながら。
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