第3話 おばあさんの死・女学校時代
そんな頃、お祖母さんが病気になりました。
ほんの軽い風邪だったのに、どうしたものか坂を転がるように弱っていき、寝付いて起きられなくなりました。
母さんがつきっきりで看病してもどんどん悪くなるばかりです。
「医者代ばっかり、かかる」
初めは憎まれ口を叩いていたお祖父さんでした。
でも、その衰弱した様子を見て驚き、
「本家から、金借りてでもいい、もっと高い医者を呼べ!」
あのドケチがそうさけんでいました。
でも、せっかく呼んだ高いお医者様は、
「お年が、お年ですから覚悟してください」
と言って帰られたのです。
なんてこと、あのお祖母さんが死ぬのです。
「世話になったね、あんたがいい嫁なのは分かってた。
ただ本家の仕打ちが悔しくて、意地になってたの。許しておくれ」
細い小さな声でお祖母さんはそう言いました。
「お義母さん、そげなこと……」
初めて聞くお祖母さんの優しい言葉に、母さんは泣き出しました。
「藤、死ぬなー! 死ぬなんて許さん、お前は大事な俺の嫁だ。
お前を嫁にもらえると決まって、俺は嬉しくて嬉しくて、だから庭の松の横に藤棚を作ったんだ。
藤と松が離れず、ずっと一緒にいられるようにと作ったんだ。俺を一人にするな、置いていくな」
お祖父さんは泣いていました。
お祖母さんの顔に雨のように涙が落ちました。
「馬鹿、なんでもっと早く言わないの。そうしたら私だって、もっと……」
お祖母さんの目からも涙が落ちました。
「もっとなんだ? 藤。おい藤、返事せんか」
それきりでした。お祖母さんはお祖父さんを残して一人で逝ってしまったのです。
お祖父さんは、お祖母さんのことが本当は大好きだったのです。
なのにお祖母さんが自分を好いてくれないので、悔しくて憎まれ口を叩いていたのです。
お祖母さんも意地を張っていたのです。
こうして、悲しい悲しいお祖父さんとお祖母さんの結婚は終わったのでした。
「親父とお袋は、心の中もちゃんと赤い糸で繋がっていたんだな。なのにお互いそれが見えなかったんだ」
お祖母さんのお葬式の後で、父さんはポツンとそう言いました。
お祖父さんはお祖母さんが死んでから、抜け殻みたいになって、庭の藤の花を一日中ぼんやり見ています。
「私、結婚が怖くなった。
お互い赤い糸が見えないんじゃ、父さんと母さんみたいに幸せになれるとは限らないんだもの」
「そんなこと言うなよ。しのぶと寛治の相手が誰だかは、まだわからんが、いつか赤い糸の人に会えるさ」
「いつかじゃない。私の赤い糸は生まれた時から寛治さんと繋がってるもの。私寛治さんのお嫁さんになるもの」
私は胸を張って言いました。
「え? お前知らんのか、兄妹は結婚できんのだぞ。法律で決まってるんだから」
「ただいまー。あれ、しのぶは?」
外から帰った兄さんの声に、父さんの答える声。
「寛治、帰ったのか! しのぶを止めてくれ、屋根から飛び降りると言っとる」
「イヤー、しのぶ、死ぬのー」
慌てて、兄さんは屋根に登って来ました。
「しのぶ、どうしたんだ、なんで死ななきゃならんの?」
瓦にしがみついて泣いている私に、兄さんは聞きました。
「だって『兄と妹とは結婚できない』って父さんが言った。法律で決まってるって。
しのぶの赤い糸は寛治さんと繋がってるのに。
寛治さんが、私以外の女の人をお嫁さんにもらうなんて嫌だ! しのぶ死にたい」
「なんだ、そんなことか。なら安心しな、僕は誰とも結婚しないから」
「本当?」
「僕さ、お祖母さんとお祖父さん見てて、結婚って嫌になっちゃったんだ。
僕も赤い糸で繋がってるのはしのぶとだと思う。
生まれてきたのが一緒なんだから、死ぬのも一緒さ。
結婚なんてしないで、ずっとここで二人で暮らそう」
「本当、指切りできる?」
「できるよ、約束」
「「指切りゲンマン、嘘ついたら針千本、のーます。指切った」」
そんなこともありました。もう昔話です。
一九一二年の五月にはストックホルム・オリンピックに、日本初参加。日本中がお祭り騒ぎで沸き立ちました。
けれども、七月三十日には明治天皇崩御。
乃木将軍が、奥様と共に殉死されました。
時代は大正へと移っていったのです。
◇
兄さんが中学、私が女学校に入る頃には、父さんの商売が大変うまく行き、家も大きくなり、使用人が増えて私は家事から解放され、二人とも文学に親しんでいました。
私は短歌や童謡詩を、雑誌に投稿し、兄さんも童話や詩を書くようになり、弟や妹に読んで聞かせていました。
いつか作家として立つのが兄さんの夢になり、兄妹で作家を目指したのです。
「貴子様、結婚がお決まりになったと聞きました。おめでとう御座います」
ひとつ年上の先輩、松井貴子様は、みんなの憧れ。卒業式には総代をなさるのです。
日本の法律では、女の子は十六歳になれば結婚できます。女学校を卒業すれば十七才。
結婚するのが普通で、行き遅れとばかにされないよう、みんな相手探しに必死なのでした。
「ええ。みんな判で押したみたいに『おめでとうございます』っていうの。
結婚がおめでたいなんて誰が決めたのかしらね。
好きでもない男に抱かれて、家に閉じ込められ、子供を産まされて……
女の価値は子供を産む事だけ、それ以外は全て無駄なこと。
一生を男に尽くして、人生をすり減らして死んでいくのに。
結婚する相手とは赤い糸で結ばれているなんて戯言もいいとこね」
火を吐くような言葉でした。
それは、今まで両親の庇護のもと、うかうかと何も考えずに生きてきた私の、初めて聞く女の呪いの言葉でした。
「じゃあ私はこれで。ご機嫌よう、また明日ね」
話が長引きそうと思った華子様は場を離れて行きました。
華子様は、華族のお嬢様。二人はいわゆるSで、姉妹のようにいつも一緒。
全女学生憧れの美しいカップルでした。
「あの、お借りしてた本ありがとうございました」
貴子様のお家は裕福で、お父様は大変な蔵書の持ち主でしたから、図書館にない本をよくかしてくださったのです。
「ラム姉弟の『シェイクスピア物語』は子供向けだけど、素晴らしい本よ。英文なのに一週間で読んだの? さすがね」
チャールズ・ラムはイギリスの作家。
随筆が有名ですが、姉、メアリーとの共著『シェイクスピア物語』は、名著でした。
二人は生涯結婚せず、姉メアリーは弟が死ぬまで寄り添い、支え合って暮らしたのです。
「シェイクスピアは言い回しが難しくて、分かりにくかったけど、こういう入門書があれば助かります。
中身も良かったけれど、作者ラム姉弟の生き方に感動しました。
私と兄も同じです。二人で、日本のラム兄妹を目指してます。
兄は女の人はうるさくて苦手だから、結婚はしないと言いますし、私も、結婚しておさんどんに明け暮れるなんて真平ですから」
「その真平をさせられるわたしに、おめでとうはないわね」
貴子様はこの縁談に気が進まないようです。マズイ事を言ったみたい。
「いつも華子様とご一緒なんですね」
話を逸らそうとわたしはそう言いました。
「ええ私達、ベターハーフなの。生まれる前には、同じ一つの体だったのよ。
プラトンの『饗宴』に書いてあるの。
『昔人間は頭が二つ、手足が四本。大変な力を持つ暴れん坊でした。
それを恐れた神々は、人間を二つに割いて、力を半分にしました。
それ以来人間は、離れた半身(ベターハーフ)をさがして、彷徨うようになった』というの」
ベターハーフ。
まさしく私と兄さんの事ではあるまいか。
母の体内にいた頃から、私達は一緒だったのだから。
兄さんも私と同じ気持ちでいてくれる。私達は永遠のベターハーフなのだ。
これからも私達は決して離れないのだ。
「けれど、この物語にはもう一つの意味があるの。
繋がっていた人間は、男と女だけじゃなく、男と男、女と女の組み合わせもあったのよ。
そんな運命もあるの。赤い糸で繋がっているのは男と女とは限らない」
そう言って寂しげに笑ったのです。どきりとしました。華子様のことでしょうか。
「お兄様とあなたと、お顔にてらっしゃる?」
「ええ、そっくり」
「そう。美しくてらっしゃる。それは危ないわね。アポロンとヒュアキントスということもあるから。
中学校の噂では……」
「噂って?」
私が聞くと、貴子様は“しまった”というような顔をしました
「プラトンの饗宴、文庫があったから後で一冊あげるわね」
自分の言葉を打ち消すように笑うと、貴子様は行ってしまいました。
それからしばらくして、お二人は薬を飲んで心中したのです。
結婚して、遠くに行くというのは嘘でした。
お父様の仕事の借金で、卒業を待たずに廓に売られることになっていたのです。
二人の両手はしっかりと赤い紐で繋がれていたそうです。
それからしばらくして、貴子様から小包が届きました。プラトンの饗宴でした。
しおりの紐の挟まれたページには、繋がっていた人間は男と女、女と女、男と男の三種類の組み合わせがいたと書かれていました。
「そんな運命もあるのよ」
お二人は運命に殉じられたのでした。
そして、なんの意味なのでしょう。
何故か『男と男』のところに、赤のインクで線が引かれていたのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます