赤い糸の先に悪役公爵様

キマイラ

前編

 気付いたら異世界に居た。いわゆるところの運命の赤い糸が見えるようになった。どうして自分がこんな目に遭うのか分からなくて、苦しくて、怖くて、今にも壊れてバラバラに砕け散ってしまいそうな心を繋ぎ止める為だけに己に言い聞かせた。


「私、きっと運命の人と出逢う為にこの世界に来たんだわ」


 何もかも失ってしまったけど、その人さえ見つけたら幸せになれるんだって何度も繰り返した。限界を迎えそうになる度に繰り返して、そうしてどうにか糸を辿り続けた。それが十五で異世界に飛ばされた私の六年間だった。


 ああ、どうして貴方に繋がっているの。私、幸せになんてなれないじゃない。

 

 私の視線の先にいるのはかつてプレイしていた乙女ゲームの王子ルートの悪役だった。王位の簒奪を狙ってヒロインに成敗される公爵だ。その功績でもってヒロインは王子との結婚を認められるのだ。信じたくない気持ちで改めてその人を見つめる。烏の濡れ羽色の髪に紫紺の目。少し意地の悪そうな冷たく整った顔立ち。歳の頃は三十前後といったところか。今までに見たことがないような身なりのいい男で、どう見ても悪役公爵マクシミリアン・ラドフォードだった。


 呆然と見つめていたら不意に視線が絡まった。世界にまるであの人しか存在しないように他のものは意識の外へと追い出された。ジリジリと焦がす夏の太陽に熱された風に弄ばれた髪の毛が顔にかかるまで私の時は止まっていた。


 赤い糸で結ばれた二人は目と目が合えば恋に落ちると、これまで見てきた人たちに教えられた。


 私を射抜く眼光の鋭さは到底恋なんて甘い物には思えなかった。私の感情も恋かは分からない。ただずっとどこの誰とも知れぬ貴方に焦がれていた。この妄執とも呼べる執着を恋と呼べるのか誰かに教えてほしい。


 焦がれて、求めて、追いかけ続けて、ようやく見付けた貴方にどうやって会いに行けばいいのだろう。相手は公爵様だ。平民の私が会いたいと言って会える人じゃないから、私を見つけて連れ去ってはくれないだろうかと起こり得ないことを考えてしまう。


 目の奥が重くて熱い。これまでどうにか抑え込んできた感情が決壊してしまいそうで路地へと逃げ込んだ。今にも零れそうな涙を耐えながら奥へ奥へと駆けていく。薄暗く人気の無い場所でしゃがみこんで声を殺して泣いた。ずっと己に言い聞かせてきた魔法の言葉はもう使えない。


 これから先、何を支えに生きればいいの。こんな訳の分からない場所でどうやって生きろというの。


「お嬢さん、君はなんだってそんな場所で泣いているのかね」


 まるで自分は無害だと言わんばかりに善人ぶった男に声をかけられた。


「……魔法が解けてしまったんです」


 どうして、ここに。驚きで涙が止まる。差し出された絹のハンカチを受け取ることもできずにただ男を見上げた。押し付けるように渡されたハンカチで涙を拭って立ち上がり目を合わせる。どうしてよりによってあなたなのだと詰ってしまいたい気持ちを抑えて美しい紫紺の目を見つめた。

 

 男は少しばかり口角を上げて、それから口を開いた。


「そのハンカチは洗って返してくれたまえ」

 

「……はい」

 

「ここに長居するのは私にとっても君にとってもよくないことだろう。さあ、大通りまで送って行こう」

 

 そう言った男の後を着いて行った。大通りで別れて、宿をとってハンカチを洗った。それから二日後に男を訪ねた。会えないだろう、そう思っていたのに男は私を出迎えた。

 

「君はこの辺りに住んでいるのかね?」


「いいえ、旅のものです。もう少ししたらこの町を出るつもりです」

 

 これは本心だった。この人のいるこの町に長居なんてしたくなかった。だって、叶わない恋だ。そんなものに縋りたくはなかった。

 

「行き先は決まっているのか」

 

「いいえ。私はただの根無草ですから」

 

「なら、しばらくこの屋敷で暮らすといい」

 

 男の意図が掴めなかった。けれどその言葉に私は頷いていた。だって、ずっと執着していた相手だ。

 

 客間に通されてそこが当面の私の部屋になった。男は私に贈り物をした。服や靴、アクセサリー。私が見たことのないくらい質のよいものばかりだった。それから一枚の契約書を差し出した。この男の奴隷になるという内容だった。ただし何不自由のない生活を保証するとも書かれていた。この男も私に執着しているのだと知った。平民の私はどうあがいてもこの男の妻にはなれない。よくて愛人だろう。けれど奴隷なら、この男の所有する財産にならなれる。私は契約書にサインをした。それから特に私の生活に変化はなく、時折男と会話する以外は自由で気ままな生活をしていた。屋敷から出ることは許されなかったがそれ以外のことなら大抵私の願いは叶えられた。

 

 男が三十一歳だと知った。簒奪に失敗するのが三十二の時のはずだからもう時間があまりないのだと思い知った。けれどなにもできなくて一年の時をただ無為に過ごした。

 

 愛が、分からなかった。この感情が恋なのかすら定かじゃなかった。ただひたすらに焦がれて想い続けた執着をどう呼んだらいいの?


 考えたって分からない。それでも伝えたかった。だから、かつて文豪が訳したと言われる「I love you」を貴方に送ります。


「死んでもいいわ」


 吐息を触れ合わせる距離でそう告げて、僅かに目を見開いた男にすがった。


 言葉一つ返さぬ男のかさついた唇が私の吐息を奪い去る。その口付けの荒々しさとかき抱く腕の強さにより一層強くすがり付いた。

 

 このまま全て、この命すら奪ってほしいと思うのはいけないことでしょうか。


 騎士たちが屋敷に踏み込んできたのはその翌日のことだった。あの男は簒奪を狙って失敗した。私はその日足枷を着けられてベッドから動けなかった。足枷なんてもの、初めて着けられた。奴隷の身分と足枷は男が万一の時に私に咎が向かないよう用意した保険だったのだと後で気付いた。


 愛しているとは、ついぞ言えなかった。好意を口にすることすら互いになかった。

 

 あの夜の私の言葉と触れた唇、絡めた舌が私達の間に存在した全て。

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