【結城】 23 覚悟

「里菜さんは?」


 ショルダーホルスターに収まった拳銃の重さを感じながら結城は尋ねた。あと、この場にいないのは里菜だけだった。結城はキリンジがぶち破ったガラスの天井をちらりと見上げた。天井の穴からは雨が降り込み続けている。そこからひょっこり里菜が現れないかと思ったのだ。

 だが、キリンジは無言で結城を見つめるだけだった。その瞳の底には、無念の色が滲んでいるように見えた。


「――嘘だろ」


 あの、里菜が。ササボンサムがここにいないことを考えると、二人が相討ちになったということなのだろうか。結城は受け入れがたい現実を前に、ただ立ち尽くした。心臓がギュッと締め上げられる感覚が結城を襲った。


 キリンジは悲しみを振り払うように表情を引き締めると、目の前の巨獣を睨みつけた。


「――エメラ・ントゥカ。コンゴ共和国に生息するUMAだな。その巨大な角で、アフリカゾウをも一撃で殺すと言われている。草食で性格は温厚。しかし、一度怒らせれば敵が沈黙するまで決して攻撃を止めない闘士ファイターでもある。実物を見るのは俺も初めてだ」


 じっくりと獲物を観察するようにキリンジ。そう、獲物は自分ではない。相手が獲物なのだ。狩人の気をまとったキリンジは、手にした棒の先端をエメラ・ントゥカに向けた。


「一対一で戦えるような相手じゃない――」


 ぼそりとこぼしたのは光だった。光の側には撫子が寄り添っている。迫水に言葉を浴びせられている時に比べると、光の顔は血色を取り戻していた。


「違うぞ光くん、よく見ろ――」


 キリンジはびしっと人指し指を伸ばすと、自分、結城、撫子、光と順番に示していった 


「どう見ても四対一だ」


 キリンジは短く息を吐き出すと、勝ち気な笑みを浮かべた。いや、算数じゃねえんだよというツッコミを誰も入れられない。やっぱりこの人、天然だよなと結城は思う。


「実質二対一かしらね」


 やれやれという感じで撫子が嘆息する。数のうちに入らない二人は、結城と光なのだろう。拳銃で武装していても、結城は人数外ということらしい。悔しさと情けなさを覚えると同時に、拳銃の弾程度ではこの白亜紀から来たお友達は到底止められないだろうなという冷静な考えも浮かんだ。


 撫子は首や肩の関節をぐるりと回して臨戦態勢をとった。これまでの戦いで撫子の実力は十分に実感しているが、本当にこの怪物を相手に素手で戦おうというのだろうか。結城と同じように不安になったであろう光が「撫子」と呼びかけた。光の方を振り返った撫子が、二言三言、言葉を返した。その表情はどこか晴れ晴れとしていて、マンションで会った時に感じた手負いの獣のような不安定さは消えていた。


 この子は覚悟が決まっているんだ。


 結城がそう気付いた瞬間だった。

 拳を握ってエメラ・ントゥカに向き直った撫子から、息を呑むようなプレッシャーが放たれた。それは、その場に存在する全ての生き物をひれ伏せさせるような、圧倒的なだった。隣にいるキリンジも目を見開いている。迫水までが、その表情を曇らせていた。

 エメラ・ントゥカは、その鋭く長大な角の先端を撫子に向けた。自分を脅かす敵として認識したのだ。この人間の少女を。

 結城は息苦しさを感じた。巨大な不可視の火山、あるいは全てを飲み込む嵐が目の前にあるようだった。全身の肌が粟立つ。そして――


 破裂音がした。帯電した空気が弾ける音だった。


 それを合図にしたのではないだろうが、エメラ・ントゥカが飛び出した。角をまっすぐに突き出してこちらに突進してきた。巨体に似合わぬ加速で、真っしぐらに迫ってくる。


 狙いは撫子なのだろうが、巻き込まれたら確実に死ぬ。


 結城は息を止めて大きく床を蹴り、身体を投げ出した。死の突風が、床に転がった結城の鼻面を通り抜ける。目を閉じることさえできず、冷や汗を拭って身体を起こす。死ななかった……!


 エメラ・ントゥカは方向転換すると、次の攻撃のために狙いを定めている様子だった。黒い瞳がじっと見ている先にいるのは撫子だった。撫子は慌てた様子もなくステップを踏んでいる。だが、このままではまた撫子は突進を食らうことになる。結城はホルスターから拳銃を引き抜いた。弱い自分が、この戦場で自分の意志を通すために使える、ただ一つの武器だった。


 少しでもエメラ・ントゥカの狙いを分散させた方がいい筈だと信じた結城は、拳銃の安全装置を解除してそのトリガーを引いた。ホールに発砲音が響き渡る。エメラ・ントゥカのその岩山のような背中を狙ったのだが、弾は命中しなかったようだった。結城は自分の射撃能力のなさに愕然とした。もう一発だ、と思って狙いを定める結城の方に、エメラ・ントゥカがその顔を向けた。オカマを掘られたら観光バスでも一発で廃車になりそうな黒い角が結城に向けられる。注意を引くという目的は達したらしい。


 だが、これは――


 余りにも明確な死のビジョンが結城の脳裏を過った。

 突進が来る――と結城が身体をすくませたのと、地を這うように駆け抜けたキリンジがその金属棍で巨獣の横面を引っ叩くのは同じタイミングだった。エメラ・ントゥカはその角竜のような顔をブンブンと振って不快さを露わにした。


「硬すぎるぞ!」


 キリンジの渾身の一撃も、エメラ・ントゥカには効き目がないらしい。キリンジはエメラ・ントゥカが振り回した長い尾から逃れながら距離を取った。

 結城を標的から外したエメラ・ントゥカは、撫子に向かって突進した。一番危険度が高いと判断しているのだろう。撫子はそれを闘牛士のようにひらりとかわす。


「真っ直ぐ、真っ直ぐだな!」


 キリンジは皮肉な笑みを浮かべると、撫子に目配せをした。撫子はその意図を汲み取り、無言で頷く。二人が同時に床を蹴る。キリンジと撫子はジグザグの軌跡を描きながら、エメラ・ントゥカの横腹に左右から肉薄した。巨獣がどちらにも狙いを定められずに足踏みをしている間に、キリンジは金属棍による一撃を、撫子は後ろ回し蹴りをそれぞれ見舞った。硬い皮膚に覆われた背中や頭ではなく、柔らかい腹なら――


 ゴオッ!


 威嚇するように鳴き声をあげたエメラ・ントゥカは、尻をこちらに向けるとその長い尾を振り回し始めた。二人の連携攻撃はまるで効いていなかった。

 エメラ・ントゥカの尾は、まるでそれ自身が一個の生き物のようだった。のたうち、空気を切り裂き、唸りを上げながらキリンジと撫子を襲う。


「――ぐっ」


 足をよろめかせたキリンジの腹を、エメラ・ントゥカの尾の先端が捉えた。かすっただけのようにも見えたが、キリンジはそのまま膝を突いて動けなくなる。キリンジもここまでの戦いで消耗しているのだ。決着の場面しか結城は見られなかったが、キリンジとチバの戦いが死闘だったことは想像に難くない。キリンジはその場でうずくまっている。このままだとなぶり殺しだ。


「こっちを見ろ!」


 結城は叫びながら拳銃の引き金を引いた。手に返ってくる反動と硝煙の匂い。弾はやはり命中しなかったが、それでもキリンジを踏み殺さんと近づいていたエメラ・ントゥカの気を引くことはできた。キリンジが目を見開く。声は聞こえなかったが、キリンジの口が「やめろ」という形に動いたのが分かった。


「そうだ! 来い!」


 結城は何かに突き動かされるように叫んだ。

 死の予感が背筋を走り抜ける。脳味噌が溶けるような感覚の中で、拳銃を構える手が痺れた。これは恐怖というよりは高揚感か――と冷静に胸中で分析する。時間が引き延ばされるような感覚の中、拳銃の狙いを定める。偽りの浮遊感の中で、全身の血が冷たくなる。


 声のない絶叫と共に、キリンジが弾けるように動いた。エメラ・ントゥカの巨体の下にスライディングするように潜り込み、金属棍でその顎を思い切りかちあげた。不意打ちに、一瞬巨獣がひるむ。そこに黒い影が高速で接近する。それが撫子だと気付いた瞬間、少女はエメラ・ントゥカの角の付け根に全体重を乗せた蹴りを叩き込んだ。


 撫子の足の方が砕けるのではないかと思う程の凄まじい一撃だったが、蹴りを食らったエメラ・ントゥカは涼しい顔だった。撫子も特にどこかを痛めた様子もなく、巨石のようなその獣から距離を取った。


 それにしても、なんという頑丈さだろう。

 キリンジにしろ、撫子にしろ、どちらも普通の人間とは違う強さの持ち主だ。

 その攻撃を食らっても、あのUMAにはまるで効いた様子がない。戦車でも持ってこなければ倒せないのではないだろうか。里菜もおらず、キリンジも万全ではない以上、このままではジリ貧だ。そう思って、撫子の方を見た時だった。


 撫子は光の隣に立って、言葉を交わしている。

 思えば、エメラ・ントゥカとの戦いが始まってからずっと、彼女にはまったく焦った様子がなかった。撫子はガラス片を持っていた光の手に、自分の手を重ねていた。

 撫子が光に微笑みかけた。

 次の瞬間、撫子は残像だけを残してその場から消えた。


 どこにいったのか――と結城が疑問符を浮かべる頃には、既に撫子はエメラ・ントゥカの足元を三往復して巨獣を翻弄していた。ギアが二つか三つ、一気に上がった。エメラ・ントゥカはスピードについていけず、ふらふらとその場で足踏みをする。最後にもう一回撫子が足元を走り抜けると、エメラ・ントゥカは怒り狂って、その前足で床を蹴り始めた。振動が部屋全体に伝わる。


 撫子は部屋の奥まで移動すると、ガラスの壁を背にしてステップを踏み、エメラ・ントゥカを挑発した。撫子の隣ではキリンジも金属棍を構えている。


 その喧嘩買った――とその猛獣が言ったかどうかは分からないが、エメラ・ントゥカは鼻先の鋭利な凶器を二人に向けて、突撃態勢を整えた。前足で床をき、パワーを溜めているようだった。結城はそこから立ちのぼる野性の殺意に背筋を凍らせた。


 撫子はぴたりと足を止めた。まさか正面から獣の突進を受け止めるというのか。結城の狼狽を他所に、撫子は穏やかな表情だった。右の拳を胸に当て、微笑を作って天井を見上げる。


 そして、歌った。


 あっけにとられた結城の口から「えっ」と声が漏れる。

  

「ももクロか――!!」


 迫水が目を見開いて叫ぶ。

 エメラ・ントゥカが走り出す。

 床など抜けても構わないとばかりに地響きを立てて、巨獣は撫子とキリンジに向かって疾駆する。


「部分変身!」


 キリンジの鋭い声に反応するように、その両足が眩く光り輝いた。キリンジはエメラ・ントゥカを迎撃するように、その黄金色の足で床を蹴って飛び出した。爆発音としか表現しようのない足音が轟く。キリンジは光の矢となってエメラ・ントゥカに突進し、金属棍をその角の付け根に突き刺した。硬いものが砕ける音と共に、勢いを殺しきれなかったキリンジの身体は人形のように空中に舞い上がった。結城は息を呑む。


 2メートル近い金属の棒が顔面に突き刺さっているというのに、エメラ・ントゥカは止まらない。撫子目掛けて突き進んでいく。

 撫子はゆるりと構えていた。

 自然体。

 脱力。

 しかし、その周囲には不可視の力の流れが存在するように見えた。撫子はその流れに身を任せている。

 暴走する破壊の化身が眼前に迫る。

 その角の先端が撫子に触れようとする。

 刹那――


 一条の雷光がエメラ・ントゥカの身体を、頭から尾の先まで串刺しにした。


 空気が破裂する音と衝撃波が、結城を襲った。反射的に目を閉じた結城が、再び目を開くと――


 撫子が放った右の掌底が、キリンジが突き刺した金属棍をエメラ・ントゥカの巨体の奥深くまでねじ込んでいた。


 自慢の角を根本から砕かれた『象殺し』のUMAは、岩山のような巨体をゆっくりその場に横たえて絶命した。


「まさに怪物か……!」


 迫水の驚嘆の声を聴きながら、結城も言葉を失っていた。

 エメラ・ントゥカは疑いなく怪物だったが、それをほふり去った浅倉撫子もまた怪物としか言いようがなかった。最後の一撃と共に放たれた雷は、彼女の『巫女』としての力なのだろうか。岩田屋の『主』――サンダーバードから借り受けた力。

 撫子は長い黒髪をかきあげて笑った。

 自分が強いのが面白くて仕方がない――そんな笑顔に見えた。

 

「俺のメタルスタッフ、もう使い物にならないな」


 吹き飛ばされたキリンジも無事だったようだ。結城の隣に歩を進めてきたキリンジは、エメラ・ントゥカの頭部に突き刺さったままぐちゃぐちゃに曲がっている愛用の武器を見て、少し残念そうに肩を落とした。


「――どうする?」


 軽い調子で迫水に尋ねた後、撫子は軽い足取りで光の隣りに歩いていった。もはや迫水を守護する存在はいない。迫水は苦虫を噛み潰したような表情で撫子を睨んでいた。


 結城は銃を持つ手から力を抜いた。


 撫子がここまで強いのは想定外だった。

 これで迫水を取り押さえれば終わりだ。今はキリンジが迫水がおかしな真似をしないかじっと監視している。何か妙な動きをすれば、すぐに飛び掛かるだろう。

 迫水を取り押さえた後は、アイの居場所を聞いてそこに向かえば――


 事態の収拾に向けての思考を中断させたのは、飛来した黒い影だった。

 全員が完全に油断しきっていた訳ではないだろう。だがは、破れたガラスの天井の穴から高速で舞い降りると、全員の隙を突いて攻撃態勢を取った。


 撫子の背後に降り立った満身創痍のササボンサムが、渾身の手刀を叩き込もうとしていた。


 撫子がかわせば、光がその攻撃を食らうことになる。そんな位置取りだった。結城は慌てて拳銃を構える。だが遅い。撫子はササボンサムの一撃をかわさないだろう。少女は少年を守るように立ったまま、敵を見据えていた。殺意の籠もった慈悲のない一撃が振り下ろされる、その数瞬前に。


 射撃音が聞こえた。


 混乱した結城は、自分の拳銃が火を吹いたのかと勘違いをした。違う。手には何の反動もない。銃を撃ったのは――


 弾丸で頭を完全に砕かれたササボンサムが仰向けに倒れ、光の背後の何も無い空間から、魔法のように一人の女が現れた。

 腰まである金髪と、褐色の肌。全裸にしか見えない透明な全身スーツ。

 拳銃を構えた星野里菜がそこにいた。


「スカイフィッシュの体組織で作った透明マントや。えげつないやろ? ――けど、もう限界みたいなやな」


 里菜の足元には、半透明のぶよぶよとしたものが落ちていた。それが透明マントということなのだろう。

 結城はぽかんと口を開けて、里菜が光に顔を近づけるのを眺めていた。


「ほーん、自分が撫子のか。かわいい顔しとるやん――うちは里菜。撫子のお姉ちゃんやで」


 茶目っ気たっぷりの表情で自己紹介する。その笑顔は間違いなく、本物の星野里菜だった。 

 

「だ、誰!?」


 光が慌てている。突然目の前にほぼ裸の金髪黒ギャルが現れたのだから無理もない。里菜はそんな光をニヤニヤしながらからかい始めた。そのまま頭から食べてしまいそうな絡み方だ。

 ひとしきり光をもてあそんだ里菜は、結城の方に振り向いた。

 なんも心配せんでええ――とその自信満々な笑顔には書いてあるようだった。


「生きてたんですね――」


 安堵の声をこぼした結城は、自身の目頭が熱くなるのを感じた。

 建物の外でササボンサムと戦っていた里菜が、逃げたササボンサムを追い掛けてきて、最後は光の背後から拳銃でトドメを刺した――ということなのだろう。エメラ・ントゥカと戦う前のキリンジの反応は、迫水を油断させるためのブラフだったのだ。


「言うたやろ。うちはめっちゃ強いって。あれ? 言わんかったっけ?」


 白い歯を見せて笑う里菜を見ていると、結城は巨大な傘の下にいるような気持ちになった。外は大雨が続いているが、今この場だけは里菜という存在によって守られている。そんな気分だった。

 里菜はほとんど泡と化したササボンサムの死体をまたいで迫水の正面に立った。


「――で、こっちが悪の親玉か。悪そうな顔しとるなー」


 里菜は迫水に銃口を向ける。その距離は5メートル。里菜ならば外しようがない距離だった。

 

「光くんの自称・父親だそうです」


 光が何も言わなかったので結城が補足した。


「自称? 複雑な家庭の事情を感じるけど、突っ込んでええところなん?」


 迫水は身じろぎ一つせず沈黙を守っていた。里菜が少しでも指を動かせば、即座に床に脳味噌をぶち撒けることになることが分かっているのだろう。

 光は自分の父親の命が風前の灯火ともしびとなっていることに、特にリアクションを示さなかった。撃ちたければ撃てということなのだろうか。


「嫌われとるやんか。死んでも喪主は務めてくれへんのちゃう?」


 光の発する空気を感じ取った里菜が軽口を叩く。迫水はそれを鬱陶しそうに聞いていた。


「ま、なんでもええわ。連れて行った『巫女』を解放してもらおうか。大人しく言うこと聞いてくれたら遺言ぐらいは聞いたる。なんか話好きそうやし、動機とか喋りたいやろ。死ぬ前に」 


「それはもう里菜さんが来る前にやりました」


 自分は床に這いつくばってそれを聞いたのだが。


「マジで!? 聞き逃したやんか!!」


 おどけた感じで叫ぶ里菜だったが、銃口はピクリとも動かない。迫水の眉間を狙い続けている。武器を持たないキリンジは、里菜からの指示を待つように横に控えていた。猟犬のような表情で迫水を睨みつけるキリンジ。光の隣にいる撫子は成り行きを見守っているが、何かあれば動くだろう。


 形勢は完全にこちらに傾いていた。


 敗色濃厚――迫水は忌々しげに里菜を凝視している。改造人間達はたおれ、怪物エメラ・ントゥカも破れた。奥の手でも無い限り、迫水の逆転は不可能だろう。このまま降参してくれれば何も言うことはないのだが。

 そんなことを結城が考えていると、迫水はやれやれと呟いて顎をしゃくった。そして、面倒くさそうに言い放つ。


「解放も何も、『巫女』ならに立っているだろう」


 結城は横面を思い切り叩かれたような思いで目を見開いた。そこ――と、迫水が示したのは背後のガラス壁の外側だった。


 暴風雨の中、転落防止の鉄柵の向こうに、アイがこちらに背中を向けて立っていた。


 真っ白になった頭の中を、衝動だけが走り抜ける。そして、その衝動は叫びとなって口から飛び出した。

 

「アイ!!!!」


 アイは白い入院着のような服を着ていた。雨に打たれ、栗色の髪は首と背中にべっとりと張り付いている。小柄なその身体は、今にもふらふらと鉄柵の向こう側に落下しそうだった。

 結城の心臓が、破裂しそうな勢いで全身に血液を送り始めた。動き出せ、走れと身体に命じているかのようだった。


「アイ!! 俺だ!! アイ!!」


 結城は叫びながら、走り出そうとした。それを里菜が鋭い手の動きで制する。それに反応するだけのギリギリの理性を、結城は保っていた。前のめりの姿勢で数歩前に出た結城は、なんとか里菜の隣でストップした。なぜ止めるのかと里菜に抗議しようとした結城は、彼女から放たれる殺気の前に言葉を失う。


「んで、結局自分――何がしたいねん」


 殺し屋の目になった里菜が淡々と問いかける。その手の拳銃はいつでも迫水の頭を吹き飛ばせる位置のままだった。


「さっきから――物騒なものをこちらに向けないでくれないか」


「質問に答えろ」


 迫水の軽口を里菜が一刀両断する。

 里菜から放たれる雰囲気が変わったことを察した迫水は、つまらなそうに鼻を鳴らした。


「神の獣を現出させ、その『奇跡』の力をもって望みを叶える――それだけだ」


 それは結城が痛みに悶絶しながら聞いた内容と同じだった。

 神代のUMAの力で、最愛の人でもある浜岡ミハネを復活させる。それも、生前の記憶を持った状態で――それが迫水の願望だった。


「よーわかったわ――――死んでくれ」


 里菜はその願望に少しの興味も示さず、ただただ無慈悲な結論を迫水に叩きつけた。引き金に掛かった里菜の指が動き出そうとした瞬間、迫水が口を開いた。


「これは、あの『巫女』の首にセットした爆薬の起爆スイッチだ。私がこのまま指を離せば爆発する。しかるべき操作を行えば爆発しない」


 結城は絶句した。

 『巫女』。首。爆薬。爆発。


 いつの間にか迫水の右手には筒状の装置が握られていた。もしかすると、この場に現れてからずっと握っていたのかもしれない。結城はアイの首を確認しようとガラスの向こうに目を凝らしたが、濡れた髪が邪魔をしてよく見えなかった。

 迫水の親指は、装置のスイッチを押し込んでいる。

 あの指がスイッチから離れた瞬間。


 アイは死ぬ。


 死という単語が、結城の脳内を恐怖の一色に染めていった。抑えがたい震えと共に、視界が狭まるのを感じた。


「お前はアホか? 野望のかなめを人質にしてどうすんねん。撫子が大人しく代わりを務めてくれるなんて、思わんほうがええで」


 すぐ隣りにいる里菜が何かを言っているが、結城の耳には入らない。いや、入っているのだが、何も理解できない。


「死ねば望みなどどうでもよくなる。お前が撃てば私は死に、同時に『巫女』も死ぬ。それで全て終わりだな」


 迫水の言葉も同じだった。何も分からない。いや、『巫女』も死ぬ――というその言葉だけは分かった。迫水のそのニヤついた顔の裏側には、べったりと狂気が張り付いている。

 野望が叶わないのなら、誰が死のうと構わない。

 自分自身ですら。


 アイの命は激流にもてあそばれる笹舟と化した。

 今、理不尽という名の川が、結城の最愛の人の命を飲み込もうとしていた。


 全身の血が逆流して、結城に次の行動をとるように促している。


 自分は何のためにここにいるのか――


 結城は手の中にある金属塊の重さを意識した。それは殺人の道具であり、この修羅場で自分の意志を形にするための武器だった。汗で湿った手で、そのグリップをもう一度握り直す。


「最高やんか。それで全部解決や」


 今すぐトリガーを引いて全てを解決する――里菜にはそれができる。

 そう思った瞬間、結城の腹は決まった。

 覚悟などという立派なものではない。溺れる者がわらにすがるように、地獄の餓鬼が一本の蜘蛛の糸に手を伸ばすように。


 結城は拳銃を里菜に突きつけた。


「彼はそう思っていないようだぞ」


 結城が里菜に銃口を向けるのを見た迫水は、心底愉快そうに言った。迫水は何もかも見透かしていたのだろう。結城は自分が迫水の手のひらの上で踊らされていることを苦々しく感じた。


 銃口から里菜の側頭部までの距離は1メートルかそこらだ。この距離なら外すことはないだろう。そんなことを冷静に考えている自分が恐ろしいと結城は思った。今自分は、里菜を殺そうとしている。自分の最愛の人を守るために。

 結城はガラスの向こうにいるアイの背中を見た。

 その背中は何も語りかけてはこない。

 何者かが耳元で囁く。本当にそれが正しいと思ってる? 声の主が悪魔なのか天使なのかも判別がつかない。そんな幻聴を振り払うように、


「銃を下ろしてください、里菜さん」


結城は震える声で告げた。


 里菜は無反応だった。微動だにせず、銃を迫水に向けたままだ。

 

「うちに銃を突きつけたんは褒めたる。だから銃を下ろすんや、結城」


 里菜の声にこちらを咎め立てるような厳しさはなかった。無論、命乞いをするような声音こわねでもない。迫水に向けていた陰惨な殺気は消え、結城に対する優しささえ感じさせる声だった。


 その声を聞いた瞬間、結城は自分が致命的な間違いを犯しているのではないかと思わずにはいられなかった。


「里菜さん、頼む――」


 里菜が銃を下ろしてくれれば、撃たずに済む。殺さずに済む。結城は自分で銃を突きつけておきながら、自分が人殺しになることを恐れていた。この期に及んで日和ひよるの? また耳元で誰かが囁く。


「その距離で当てられるか? 安全装置も外れてへんのとちゃうか?」


 挑発などではない。里菜は、後先考えず行動した結城を気遣っているのだ。そんな里菜の態度が、逆に結城の心を締め付けていく。後悔が結城の内側で膨らみ始める。


 だが、結城が銃を下ろすことはなかった。

 これは自分の意志なのだ。

 アイを救うためなら、どんなことでもする。

 そう、迫水と同じだ。自分の願いを叶えるために、暴力で他者をねじ伏せる。

 結城は奥歯を噛み締めた。鉄の味が口の中に広がる。

 自分が正しいかなど分からない。

 ただ、自分は、アイを失いたくない。


「随分困っているようだな、星野里菜」


 迫水は愉悦ゆえつに浸っていた。この男は銃を突きつけられながらも、自分が死ぬことはないと確信している。目の前で繰り広げられている三文芝居を嘲笑あざわらっている。

 里菜は迫水の下卑げびた笑顔を見つめ返した。

 そして、何かを思い出したようにうっすらと笑みを浮かべた。


「この町は――岩田屋は『魔のカーブ』や」


 里菜の言葉は独り言のようだった。


「いつも誰かが事故っとる」


 岩田屋町でアイと時間を共にすることになった自分は、きっと人間の一人なのだろうと結城は思った。運命――なんて言葉は陳腐だが、それでも結城は思わずにはいられない。


 運命の女。そして、運命の恋。


 ほんの数週間前には、想像すらしなかった。

 自分は今、最愛の人を救うために銃を構えている。


 ――結城、行け。お前の大事なものを取り戻すんや


 結城を送り出した時の、里菜の言葉が耳によみがえる。里菜はなぜ、結城に行けと言ったのだろう。ただの鉄砲玉? そうかもしれない。だが。


「お前もその一人だろう?」


 迫水がそう言った時の里菜の皮肉な笑みは、それ以外の何かがあるのだろうと思わせるのに十分なものだった。先程の言葉は、きっと自分に向けてのものだったのだろう。里菜もまた、この町で運命に出会った一人なのだ。


 結城はあの日、泣きながらホームから出てきたアイの顔を思い出していた。

 もう後戻りできないところまで来てしまった。

 ガラスの向こうにいる運命の女は、今もこちらに背を向けてたたずんでいる。

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