結城編 最終章

【結城】 21 モブ

「気が付いたか?」


 男の声だった。


 結城が重たいまぶたを開けると、こちらを覗き込む黒人男性の顔が見えた。


 どういうことだろう。なんとなく、つい最近同じようなシチュエーションがあった気がするのだが。たしか、その時こちらを覗き込んでいたのは美人のお姉さんだった筈だ。


 結城は自分がベッドに寝かされているらしいと気がついた。だが、それ以上のことは、脳味噌の代わりに脱脂綿でも詰まってるのかと思うほど、何も考えられなかった。声を出そうと口をもごもごと動かすが、意味のある言葉は出なかった。


「うん? 私か。私はグロッサーヒューゲル社のセキュリティ部門の者だ」


 結城の意識は、また闇の中に落ちていった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 無力感を味わわされ続けるのが、自分の人生なのかもしれない。


 迫水に拳銃を取り上げられた結城が放り込まれたのは、廃工場の中にあるカビ臭い牢屋めいた部屋だった。暴れる結城の身体を米俵のように担ぎ上げていた雪男は、鉄格子の扉を開けるとゴミでも捨てるように結城を放り込んだ。扉を閉められる前に立ち上がって脱出しようとするが、あっさり雪男に足蹴にされて再び床に這いつくばる。


 雪男は牢屋の扉に鍵をかけると――そんな器用な真似ができるとは驚きだったが――ご丁寧にその鍵の束を、結城の牢屋から見える壁のフックに吊るした。嫌がらせまでできるらしい。


 そして雪男は牢屋の前の廊下をゆっくり巡回し始めた。まるでプログラムされたロボットのようだった。


 ――結城、行け。お前の大事なものを取り戻すんや。


 里菜の声が、耳の奥で虚しく響く。


 アイを助け出すために単身ここまで来たが、こうもあっさり捕まってしまうとは。情けない思いが、疲労感となって結城を襲った。実際、走り続けた足は棒のようになっている。


 みじめな気持ちに続いて結城の胸に浮かび上がってきたのは疑問だった。


 ――せっかくここまで来たんだ。君にもこれから始める儀式を見せてやろう。


 悪魔めいた笑みを浮かべる迫水の顔を思い出す。


 なぜこんなところにがいるのか。いや、それは彼がその場で語った内容から容易に推察できる。迫水はアイをさらった連中の仲間――あるいは首謀者だ。そう認識したからこそ、結城は迫水に向けて発砲したのだ。


 迫水は『巫女』であるアイを利用して、恐ろしい力を持ったUMAを我が物としようとしている。


 なぜそんなことを目論むのかは分からない。結城の記憶の中では、迫水はただの役場の一職員に過ぎない。動機もわからないし、それを可能にするバックボーンがあるとも思えなかった。


 巧妙に隠し続けていた裏の顔ということなのだろうか。


 思えばその人間が実際にはどんな人間かなんて、同じ職場で働いているぐらいでは何も分からない。例えば同じ『たのまち課』の北村マナだって、結城が風俗狂いだなんて思いもしないだろう。一方、結城も北村が休日に誰と会って何をしているかなんて知りもしない。


 結城は益体もない思考をストップし、牢屋から脱出しようと行動を開始した。

 一刻も早くここを出て、アイを探しにいかなければならない。アイを探すことを考えれば、建物の中に入れたのはむしろ好都合とも言えた。

 牢屋の床はコンクリート張りで、隅に排水口があるだけで他には何もなかった。壁も剥き出しのコンクリートで、隠された出入り口などはなさそうだった。

 結城は思い切り鉄格子を押してみたが、無論びくともしなかった。キリンジや撫子なら、破壊して脱出できるのかもしれないが。


「――ん?」


 そこで結城は鉄格子にぶら下げられているメタルプレートに気がついた。引っ張れば千切れそうな細いチェーンで、スマホほどの大きさの薄い金属板が牢屋の外に向けて吊り下げられている。

 結城はそれを牢屋の中に引っ張り込んだ。あっさりとチェーンは切れた。

 メタルプレートには文字が彫り込まれていた。


 Name:Northern Dancer 6.66


 ノーザンダンサーは競走馬の名前だった。

 競馬の歴史に燦然と輝く、カナダ生まれの伝説的な種牡馬である。その血からは無数の系統が枝分かれし、そこには何頭もの歴史的名馬が連なっている。世界で最も繁栄している血統の大元となる存在――それがノーザンダンサーだった。ただ、馬自身は何十年も前に亡くなっている筈だ。

 その偉大な名前に続いて刻まれた6.66の数字が何を意味するのかは分からなかった。

 メタルプレートの文字は、結城にこの牢屋の正体を連想させた。


 ここは馬房だ。


 この廃工場は研究所も兼ねていたらしいが、馬まで実験動物として飼育していたのだろうか。その実験用の馬にシャレでノーザンダンサーという名前を付けたのかもしれない。


 そんなことを考えている場合ではない。


 結城はメタルプレートをノコギリのように使って鉄格子を切断できないか試してみた。だが、残念ながらまったく刃が立たなかった。脱獄モノの映画やドラマのようにはいかないらしい。結城はメタルプレートをワイシャツの胸ポケットに仕舞った。


 と、そこに。


 近くにある別の牢屋から物音がし始めた。

 結城は鉄格子に顔を押し付けて様子を窺おうとするが、角度がなく何も見えなかった。ただ、巡回していた雪男がその牢屋の前にいるらしいことは分かった。なんだろうと訝しんでいると、雪男は結城のいる牢屋の前まで歩いてきて、壁にかかっていた鍵束を取った。

 雪男はその黒い目で結城を一瞥すると、また物音がした牢屋に戻っていった。ガチャリと鍵が開く音がする。まさか――

 開いた牢屋の方から、おっかなびっくりで歩いてきたのは一人の少年だった。その横顔は不安に曇っているが、美少年なのは間違いなかった。


 結城はピンと来た。撫子から聞いていた『よすが』の少年だ。


「――浜岡光くんか?」


 努めて柔らかい声音で言ったつもりだったが、光は結城の声を聞いて跳び上がって驚いた。光はびっくりした猫のように目を丸くしてこちらを見る。


「いや、驚かせてすまない」


 光は牢屋の中にいる結城を、上から下までじっくりと観察しているようだった。


「俺は結城。君を助けに来たんだ。いや、こんな状態だと説得力がないかもしれないけど――」


 結城が頭を掻く姿を、動物園の動物でも見るように光は見つめ続けていた。


 光に牢屋を開けてもらい、結城は脱出することに成功した。その後、光は結城の説明を半信半疑というていで聞いていた。無理もない。助けに来たと言っても、丸腰の結城からは説得力というものがまるで感じられないからだろう。光の端正な顔に「この人、大丈夫なのか」と太字で書いてあるのが見えた。結城はなんとなく申し訳ない気持ちになった。


 結城が光と共に脱出するか、それとも光を連れたままアイを探しにいくか、どちらにするか決めかねてまごついていると、


「ここを脱出する前に、一緒にその人を探しましょう!」


と光は力強く言い切ってくれた。


 初対面の子供に気を遣われるのはどうなんだろうと思いながらも、助けに船の提案だったので、結城は躊躇わずにそれに乗った。

 それにしても。


 ――違うよな、俺とは。


 結城は光の顔を改めて見た。撫子も整った顔をしていたが、この光という少年もびっくりするほど美形だ。最近の高校生というのは、みんなこんな感じなのだろうか。自分とは遺伝子の洗練具合がまるで違うなと結城は忸怩じくじたる思いになる。

 そして、先程の決断力。

 光が困っていると見るや、すぐに「助ける」という選択肢を選んだ。

 自分が誰かの人生の物語に登場するモブなら、この子は人生の主人公という雰囲気だ。よく分からない方法で雪男に牢屋を開けさせたところも、いかにもそれらしい。『縁』としての、何かしら秘められた力があるのだろう。

 自分も同じ『縁』の筈だけど――と結城は胸中で独りごちる。


 どこか卑屈な気分のまま、結城は光と共に建物の中を歩き回った。

 窓がないため廊下は暗く、空気は湿ってカビ臭かった。天井に等間隔でぶらさがった裸電球だけが光源だ。扉を見つける度に中を確認するが、どの扉を開けてもアイの姿はなかった。巡回する木偶の坊な雪男をやりすごしながら進んでいく。


 結城は胸にじわじわと押し寄せる焦燥感をやり過ごしながら次の扉を開けた。

 広い部屋だった。

 からっぽの巨大な水槽がいくつも並んでいる。まるで廃業した水族館のようだった。

 結城は水槽の一つに手を当ててじっくりと観察した。水槽は分厚いガラスかアクリルでできているようだった。水槽の隅に文字が書いてあるのが見える。掠れて消えかけたアルファベットの読める部分は――


 SYSTEM NATALMA 


 ナタルマ――刻まれていたのはノーザンダンサーの母馬の名前だった。

 結城は改めて水槽を見た。

 この中にいたのは、一体何だったのだろう。

 結城は透明な子宮の中に浮かぶ、馬の胎児の姿を幻視した。

 まさかな――

 結城は下らない妄想を捨てて、再び探索へと意識を集中した。


 収穫がないまま、かなりの時間が流れた。結城は階段を登りながら、光の口数が随分減っていることに気がついた。実りのない人探しに付き合わされていらちが募っているのだろうか。


 今、光が考えているのは恐らく――いや、確実に――撫子のことだ。光は撫子が助けにきていることを随分気にしていた。


「いや、撫子ちゃんならきっと大丈夫だよ。その、何て言うか、強いからね」


 結城は口にしてから、なんて雑なフォローなんだと後悔する。黙っていればよかった。


「それは知ってますけど。でも、どう考えても罠としか思えないところにわざわざ来なくたっていいですよ」


 案の定、光の返答にはけんがあった。こちらの無責任な言葉に腹を立てたのかもしれない。


 光の言っていることはもっともだ。相手の狙いが『巫女』にある以上、撫子を連れてくるのは悪手としか思えないだろう。だが、撫子はそんな理屈を飛び越えて、自分の意志を通す力を持っていた。同時に里菜も、そんな撫子のことを信頼している節があった。


「撫子ちゃんのお姉さんは、撫子ちゃんが君を助けに行くのを絶対に止められないと思ったから、一緒に来ることにしたんだよ」


 結城はマンションでの出来事を思い出しながら言った。自分を連れて行かなければ全員殺すと言った時の撫子の目は本気としか思えなかった。


 それだけ光を助けたいと思っていたのだ。


「僕にそんな――助けてもらうような価値なんてないのに」


 光は沈痛な面持ちだった。その卑屈な言葉の内容も含めて、結城には意外だった。

 好きな女の子に無理をさせるのが辛い――というだけではないだろう。

 結城は光の中に自己否定の影を見てとった。結城から見れば華やかな人生の表街道を歩いているようにしか見えない少年にも、自分で自分を嫌いになってしまう要素、自分を無価値だと思い込んでしまう要素があるらしい。


 少し前まで人生の裏街道をひたすら驀進していた――今もかもしれないが――結城は、今の光に掛けるべき言葉を探した。 

 自己否定の海に沈んでいた自分を呼吸ができるところまで引っ張り上げてくれたもの。

 結城はそれを片鱗でもいいから、光に伝えたいと思った。


「俺も、ちょっと前までよくわかってなかったんだけど、どうやら人間の価値っていうのは自分では決められないみたいなんだ」


 結城の頭にあるのは、アイの存在だった。


「例えば――俺が助けようとしてる人が、自分の価値をどんな風に考えているのかはわからない。でも、俺は自分の全てと引き換えにしてでもその人を助けたいと思ったんだ」


 光は結城の横顔を真剣な表情で見つめている。


「人間の価値って言うから、よく分からなくなるのかもしれないな。たぶんそれは、人と人との絆の価値だよ」


 そしてその絆の価値を何よりも尊いものだと感じたから、結城はここにいるのだ。

 誰かの意志ではなく、自分の意志で。

 血と汗にまみれながらも、今ここに立っている。


「撫子ちゃんにとって、君との絆は価値のあるものなんだろうね。何よりも」


 自分がアイとの絆を守りたいと思ったのと同様に、あるいはそれ以上に、撫子は光との絆を守りたいと思ったのだ。きっと。

 光は結城の言葉を最後まで聞くと、自分の足元に視線を落とした。それは打ちのめされているというよりは、自分の中にある本当の気持ちと向き合っているような、そんな表情だった。


 階段を登り切る頃には、光はその目に明確な何かを宿していた。

 結城はそれにホッとしながら、目の前にある大きな扉に意識を向けた。今まであった扉とは明らかに雰囲気が違っている。結城は光とアイコンタクトを交わし、二人でその両開きの扉を開いた。


 扉の向こう側から光が差し込む。

 それに目を焼かれた結城は一瞬視力を失う。


「――なんだここ」


 一足先に視力を取り戻した光が呟くのが聞こえた。

 扉の先にあったのは、ガラス張りの壁と天井を持つ、巨大なドームのような部屋だった。


「会議室兼――展望室って感じかな」


 目をしばたかせながら結城は周囲を見回した。恐らくこの建物の最上階なのだろう。ガラスを隔てた向こう側では相変わらず暴風雨が続いていた。バスケットコートがまるごと二つか三つは並べられそうなその空間は、まるで客席のないアリーナだった。


 ここからなら里菜達の戦いの様子が分かるかも知れない。結城がガラス壁の向こう側にあるダムに気を取られたその時だった。


 隣にいた光が、何かに取り憑かれたように部屋の真ん中に足早に進んでいってしまった。あまりにも唐突だったので制止することもできなかった。


 光は部屋の奥まで進むと、ぴたりと立ち止まった。そこには何か箱状のものが床に置いてあるようだった。

 どうなるか分かったもんじゃないぞとビクビクしながら、結城も光の後を追って部屋の奥まで進んだ。


 光は呆然と立ち尽くしている。


「大丈夫、光くん?」


 一体どうしたのだろうと光の視線の先を探る。光の目が釘付けになっているのは、足元の箱状の物体だった。透明な素材で作られた棺桶めいた直方体の箱の中に、ウィスキーのような色の液体が満たされている。そしてその液体の中に、まるで理科室の標本のように裸の女性が一人沈められていた。


 結城は驚きのあまり言葉を失った。そして、隣にいる光と同じようにその場に立ち尽くした。


「おやおや、待ちきれずに出てきてしまったのか」


 声が聞こえたのは背後からだった。

 振り返ると声の主は、部屋の入口からこちらに歩いてくるところだった。


「迫水課長」


 結城は声に困惑を浮かべながら呼びかけた。背格好や服装は慣れ親しんだ迫水そのものだが、その悪辣さを隠せない表情は、まるで別の存在が迫水の皮を被っているかのようだった。

 迫水に問うべきことは山積しているのだが、いったい何をどう切り出せばいいのか分からない。


 迫水は結城には目もくれなかった。

 迫水が真っ直ぐに見据えているのは光の後ろ姿だった。光は足元の棺の中の女性を見て石のように硬直している。よく見ると、小刻みにその身体を震わせていた。

 迫水の視線に応えるように、光はゆっくりと振り返った。

 二人の目が合ったその瞬間、迫水は口の端を歪めて笑みを作った。血走った両の目に、仄暗ほのぐらい歓喜が宿る。


「そうだ、光君。いや、光。一目見て分かっただろう。そうだ。その通りだよ。よく見なさい」


 迫水が棺を指差す。迫水は、光が棺の中の女性のことを知っているかのような口振りだった。光はみるみる顔色を失っていく。脳が周囲の状況を処理しきれていないのが、目に見えて分かった。

 迫水は光の目の前まで歩を進めると、肩に手を置いて告げた。


「光、私がお前の父親だ」


 結城は耳を疑った。

 迫水課長が『縁』の少年の父親? 嘘か本当かは分からないが、結城の頭の中にあった迫水像は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。子供がいるなどという話は、役場ではついぞ聞いたことがない。


 二人が親子だというのも意味が分からないが、この場でそれを明かすことの意味も分からない。この男は一体何を考えているのか。


 そして、この棺の中の女性は、二人にとって何なのか。


「混乱するのも無理はない」


 顔面蒼白になった光に、迫水は優しく言葉を掛ける。


「今まで何もしてやれなかったことは謝ろう。すまなかったな、光」


 光にしてみれば、何もかもが突然すぎるだろう。すまなかったの前に、もっと尽くすべき言葉があるのではないかと結城は感じた。

 迫水の態度はあまりにも性急で、光に対する思いやりが欠けているように思われた。

 何年振りかは知らないが、きっと光が物心付いてからは初めての親子の対面なのだろう――迫水の言葉を信じるならば。


「迫水課長」


 結城は我慢できなくなって声を上げた。だが。


「結城君、親子の再会の場面なんだ。邪魔しないでくれ。ん? ああ――君の拳銃なら処分させてもらったよ。当たらなかったからいいものの、上司に向かって発砲するのは今後止めてくれよ」


 冗談めかした迫水の態度は、結城の心を逆撫でしていった。

 この男は自分の子供が混乱して震えている時に、一体何を言っているのか。

 炯々けいけいとぎらつくその瞳には、目の前で不安そうにしている光の姿は映らないのだろうか。


「あんた、いい加減に――」


 抗議しようとした瞬間だった。

 一片の躊躇ためらいもない迫水の右ストレートが結城の頬を襲った。目の前に星が飛び、平衡感覚を失った結城の身体はぐらりとその場に倒れた。追い打ちを掛けるように迫水の爪先が倒れている結城の横腹に突き込まれる。結城は痛みと混乱の中、胃液が逆流して口の中に苦味が広がるのを感じた。


「邪魔しないでくれと言っただろ。なあ、光」


 頭上から聞こえた迫水の声には、やはり子供への愛情など微塵も感じられなかった。


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