光編 第二章「彼女はアイドル」
【光】05 追いかけっこの結末
「――昔、そこの自動販売機を入学初日に叩き壊して停学になった生徒がいたらしいわ」
光は追い詰められていた。
無論、追い詰めているのは撫子である。
岩田屋高校の中庭は、放課後のまだ早い時間だというのに人影はなかった。どこからか、吹奏楽部が練習している音が聞こえてくるだけだった。
三台並んだ自動販売機の真ん中にもたれるようにして光は息を整えていた。その向かいに立っている撫子は涼しい顔である。ただ、綺麗な二重を少しつり目にして、怒りといらだちをにじませていた。
「自動販売機を叩き壊すって――」
びっくり人間コンテストじゃないんだから――と言おうとしたが、目の前にいる少女がつい数分前に階段の上の階から踊り場に向かってジャンプして、さらにそこから下の階に跳んだのを思い出して口にするのをためらった。
「三台まとめて叩き壊したらどうなると思う?」
「僕はそれを隣で応援するっていうのはどうかな」
「ウォーミングアップに付き合って貰っていいかしら」
撫子が首を回しながら一歩踏み出す。
ぴっという風を切る音とともに予備動作なしで繰り出された左の手刀を、光は間一髪でかわして地面に転がった。なんとか立ち上がってまた走り出そうとした光の側頭部に、撫子は回転しながら左の裏拳を放つ。それも亀のように首をひっこめてギリギリで避ける。撫子の華奢な拳は一番右の自動販売機のガラス面の前でピタリと止まったかに見えたが――が、パーン!という破裂音と共にガラスは砕け散った。
「弁償しなきゃ」
と撫子がぽつりと漏らす。当てるつもりは無かったのに、ということだろう。
あれが側頭部にヒットしてたらどうなっていたんだろうか。
全身が粟立つのを感じながら、また光は走り出した。
なんとか自転車置き場に辿り着いて、自転車に乗って学校を出よう。カバンは教室に置いたままだが、この際そんなことはどうでもよかった。まずは命を守る行動を取らなければならない。怒りをたぎらせた鬼神のような、あのえらくかわいい同級生からなんとか逃走しなければならない。
しかし悲しい哉、転校初日の浜岡光である。
校内をめちゃくちゃに走り回って逃げたため、自分が今どこにいるのか、自転車置き場がどこなのかもよく分からなくなっていた。
次に光が追い詰められた場所は、校舎裏にあった旧校舎らしき建物の前だった。
足はまだ動きそうだったが、肺と心臓がもはや限界だった。膝に手をついてうなだれると、どっどっどっどっと自分の心音が耳の奥に響いた。
「――ハッ――ハッ――ハッハッ――ハッ」
笑っている訳ではない。息を吸うためには息を吐き出さなければならないのだが、それすら上手くいかなくなっているのだ。サバンナのガゼルがライオンに追い詰められたときもこんな感じになるのだろうか。
目線を上げると撫子が立っている。
白と紺のセーラー服には全く乱れた様子がない。カラスの濡れ羽のような色の長い髪が、西に傾いた日差しを受けて輝いている。
撫子が踏み込んでくる。光は動かない身体を無理矢理後ろに跳躍させた。
顎を狙った左の掌底をブラフにした右の突きだった。それが肝臓の上から突き立つ前になんとか距離を取ることができた。
ここに来て、撫子の表情が変化してきた。
もはや「怒りにまかせて」という感じではない。自分の攻撃が当たらないのが心底不思議だという顔だった。
「あなた、何か武道とかやってたの?」
「――ハァ、ハァ、ハァ――いや、バドミントン部だよ――中学時代は」
なんとか声をしぼり出して答えたが、あまり納得のいく回答では無かったらしい。
撫子は形のいい眉を寄せて、頭の上に疑問符を飛ばしているかのようだった。
「私の攻撃が見えているの?」
「いや、もう――ハァ、ハァ――ぜんっぜんっ……」
本音だった。迫ってくるものから全力で逃げ回っているだけで、なんでそれが自分に当たらないのかはさっぱり分からなかった。撫子がやっていることの全容すら分かっていないのは、先ほど教室で忍が解説しているのを聞いて分かっていた。
――僕は雰囲気で全弾回避している。
光自身も混乱していた。
とそこで。
「全然蹴ってこないのは、まだパンツはいてないから?」
思ってもいない暴言が光の口から飛び出す。
光は汗でドロドロになった自分の顔が青くなるのを自覚した。
なんなんだよ、もう。
撫子はまた怒りを瞳に燃やして光を睨みつけた。
「本当、最低ね」
歯ぎしりが聞こえてきそうだった。ギャラリーがいないからか、教室にいたときよりも感情表現が分かりやすくなっている気がした。
僕もそう思うよと撫子の言葉に同意したかったが、光はもはや声を出すのも困難だった。酸素が、酸素がほしい。
「あなたみたいなセクハラ発言をする男子がどれだけ周りの女子を怖がらせているか、わかっているの?」
怖がる? 浅倉さんが僕を怖がる? 今追い詰めているのはそっちなのに?
「私は別に怖くないけどね。幸か不幸かそういうのに慣れてるから――あの兄のせいで――って、そんなことはどうでもいいの。そういう気持ち悪い性的な発言で傷つく女の子もたくさんいるし、本気で怯える女の子もいるんだから」
撫子はこちらにもう逃げる力が残っていないと判断したのか、構えを崩して腕を組んだ。
「胸が大きいのがいいとか小さいのがいいとか、男子は面白半分で言ってるんでしょうけど――」
撫子は嘆息しながら続ける。
「せめてそういうのはね、人に聞こえないところで言っててほしいの。一人で。穴でも掘って。さっきのあなたの発言もそうよ」
あの教室でのパ○パン発言のことだろう。正確には自分ではなく、もう一人の自分の発言なのだが。
「もしあの場に、私が好意を寄せてる男子がいたらどうなると思う? 二度と学校に来れないわよ。恥ずかしすぎて」
「――も、もしかして、いたの?」
「いないわよ!! いたらあんたを四階から放り投げてるわ!!」
撫子は烈火のごとく怒って絶叫した。憤怒の炎が口から漏れ出ている。ただ、その表情もかわいいなと光は追い詰められながらも思ってしまった。
はあ、と撫子は溜息を吐く。「私としたことが」と顔に書いてあった。咳払いをして撫子が続ける。
「だからね、私は決めたの。あなたみたいなセクハラ男子と、誰彼構わず喧嘩を売ってくる人間には、お灸を据えないといけないって――学級委員長として」
声はまた冷静な調子に戻っていた。撫子は学級委員長だったらしい。納得感しかないなと光は思った。なるほど、その一環としてさっきの化石ヤンキーみたいな連中を退治してるのか。
「――だから――僕にもお灸を据えるってこと?」
「ええ」
「でもそれって根本的な解決になるのかな。セクハラにしろ暴力にしろ、より強い力で押さえつけてもさ、考え方を変えないと――」
「それは先生方に期待するわ」
突き放すように撫子は言った。
「私は私が守れるものを守るだけよ」
光はさっきの化石ヤンキーが感じていたものを自分も味わわされているなと感じた。
この少女はあまりにも巨大な力を持っている。他人から見れば理不尽と感じるほどの。そして、その使い方が分からないから、恐ろしく狭い範囲に自分の力を押し込めようとしているのだろう。
結果として、その充溢する力が彼女を押し上げ、凄まじい高みに立っているかのように見せるのだ。
それが他人を恐怖させる。
そして人呼んで『町内最強のセイブツ』と。
「――ごめん、浅倉さん。本当に。無理かもしれないけど、みんなの前で浅倉さんに謝りたい」
光は全身の力が抜けていくのを感じた。胸中から撫子に抵抗しようという意志がなくなっていく。
諦めというよりは、撫子の理屈を受け入れることで、せめて彼女を納得させてあげたいという気持ちだった。
自分の事情――もう一人の自分――のことは今は言うべきではない気がした。
突然殊勝になったからか、撫子は訝しむような表情をしている。
「一度口から出た言葉は元に戻せないのよ」
それは光が何度も聞かされた言葉だった。
本当にたくさんの人間から。
岩田屋町に来る前から。
でも今は、甘んじて殴られよう。
「――その辺にしといてやってくれよ。そいつは俺のダチなんだ」
突然後ろから声がした。
撫子が振り返る。そして声の主に向かって言った。
「調子いいこと言わないで。さっき会ったばっかりでしょ」
立っていたのはシュウ――有沢秀太郎だった。
「会ったばっかりでも友達は友達だろ。浅倉さんは出会ってからの期間の長さで友達かそうじゃないか決めるのか?」
シュウは撫子に対して怯まずに言いながら、光の側まで歩み寄った。光はシュウの肩を借りて崩折れそうになっていた体を起こした。
「――それはそうだけど」
正論をぶつけられた撫子が口ごもっている。シュウはそこに追い打ちをかけるように言った。
「それにな、気付いてなかったかもしれないけど、光はさっき浅倉さんのこと助けようとしてたんだぞ」
「えっ?」
撫子が目を丸くして光を見た。
「さっき教室にヤンキーが来たときだよ。光は浅倉さんが殴られそうになったときに、とっさに身体を投げ出して守ろうとしたんだよ。俺が止めちまったけど」
撫子はじっと光の目を見据えた。少女の内心には、ちょっとした混乱のようなものがあるように思われた。
「あと、あのー、さっきの暴言というか、下ネタというか、アレも、本人の意思じゃないって言ってただろ、光自身が。聞いてなかったのか?」
「それを信じるに足る材料はある?」
撫子がもっともなことを言った。何も客観的な証拠はない。いくら自分の意思ではないと言ったところで、それを証明する方法はないのだ。
「いや、それは……ないけどよ。でも逆に、嘘だって言い切る材料もないだろ?」
「屁理屈よ」
撫子が口をとがらせる。
と、そこで光の口から暴言が滑り出る。
「頭弱そうな奴でも、俺に味方してくれる奴がいるってのは気持ちがいいもんだな」
二人が目を丸くして光を見た。
「……な? 分かっただろ。こんな自分に一ミリも利益がなさそうなこと、自分の意思で言う訳がないんだって」
シュウが苦笑いしながら肩をすくめた。
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