第16話 冷たい実家




朝だというのに空は曇りで、薄暗い。

 もうすぐ雨が降るかもしれない。

 

 伊織の足取りは、重い。


(帰って、きたんだ……)

 

 伊織は、羊垣内家の門を見上げて――静かにくぐった。

 

 ふと、前方――屋敷の方から――ひとりの男が歩いてくるのが見えた。

 男は、高い身長を持つ短髪で、鍛えられた筋肉が服の上からでも分かる。

伊織は、その男性に見覚えがあった。

 

「……えんじよう、ヤシロさま……」

「お前……」


 えんじようヤシロ。猿の家の――梨々子が婿にしようと狙っている男だ。


 顔が整っていること、能力が高いこと、――猿の家に男児が多いこと。それが、父にも梨々子にも都合が良いらしい。


羊垣内家うちへきているってことは、きっと、婚約の話は進んでいるのね……)


 伊織は、頭を下げた。


「ようこそ、お越しくださいました……」

「いや、もう帰るところだ。お前がいないから、どうなっているのかと梨々子に聞いたが、分からないと言われたぞ」

「……そう、ですか……」 


 ヤシロは体が大きく、伊織にとっては威圧感があり――なんだかあまり目を合わせられない。



 ――梨々子との婚約の話も進んだのだろうか。


(そうすると、わたしが家を出される話も進む……かも……)


伊織は、これからのこと思うと、気が重くなった。

 ヤシロは言った。


「どうかしたのか?」

「いえ……。なんでもありません……」 

「そうか。梨々子に菓子を渡して置いた。後でお前も食え」

「……ありがとうございます」


 ヤシロは羊垣内へ来るときは毎回、なにか手土産を持参している。

 しかし、それを伊織が食べたことはない。だから今回も、梨々子が全部持っていくだけだろう。

 それでも伊織はそのことを、ヤシロに言ったことはない。

 ――どうしても欲しいわけでもないし、このことで梨々子と衝突したくもない。


「いつも梨々子の好みの菓子ばかりで、すまない。たまにはお前の好きな菓子も持ってきてやりたいが」

「いえ。それには及びません」


(ヤシロさまは、梨々子の相手だし……)


「はあ。お前はいつ聞いても好きな菓子はないと答える」

「……はい。特にありませんので、これからも梨々子のことをよろしくお願いいたします……」


 好きな……食べ物。

 伊織は、昨日の――プリン・ア・ラモードのことを思い出す。


(……十夜さま……。……ううん、考えては、ダメ……)


 ヤシロが言った。


「で、さっきの黒塗りの車はなんだ?」

「え……」

「今お前が乗ってたやつだ」

「…………」


 伊織は顔を上げた。

 九頭竜の車のことだろう。


(どう言ったらいいの……。そもそも、九頭竜家の車だって、言ってもいいのかな……?)

 

 この話は、この男にしてもいいのか。

 下手に噂されてしまっても困る。


(――わたしが保護された話は、羊垣内家にとってマイナス? 九頭竜家にとっては……?)



「お前、誰と会った?」

「…………」

「…………」


 伊織が黙っているので、ヤシロも黙っていた。


「ちっ。もういい。帰る」

「あ……。では……失礼します」

「じゃあな」

「お気をつけて、お帰りください……」



 ヤシロが家の門をでていくのを、伊織は頭を下げて見送った。




 ***




「嫁入り前の娘が、三日もどこへ行っていたんだ!」


 ぱしん――と頬をぶたれて、伊織は尻餅をついた。

 玄関に入るがいなや、父と出くわしてしまったのだった。


「あ、あの……」

「馬鹿娘が……!」

「ご、ごめんなさい、あの、わたし……」

「どうして帰ってこなかった!?」


 そこへ、ひょっこりと梨々子がやってきて――軽い口調でこう言った。


「外泊ってことはぁ、お姉さま、ひょっとして傷物になったんじゃない?」

「!? い、いえ、そのようなことは……なにも……!」

「えー? でも野宿してきたにしては、綺麗じゃない? どなたのお家にお泊まりになったのぉー?」

「それは……! 違います……!」

「お姉さまにお友達がいるなんて聞いたことないわ。じゃあ、男の人のところってことになるわよね? くすくす!」

「…………っ」


(なんて言おう……。十夜さまと九頭竜家の皆さんに迷惑は掛けられない……)


 どう言えば穏便に――体裁良く説明できるだろうか。


 伊織の手に汗がにじむ。



 梨々子はそんな伊織を見て、「きゃはは」と笑い声を上げた。


「え! まさか本当にー? あは! お姉さま、やるぅ!」

「ち、違います……! そんなんじゃ……!」


 言いながら、――上手く言葉が出てこない。

 視界の端に、父の眉がつり上がったのが見えた。



「なんだと……? 傷物なのか……?」

「お父さまぁ、確かめたほうがいいんじゃない? ――ねぇ、あなたたち」

「「はい」」


 若い女の使用人が何人か来て――伊織を取り押さえた。


(確かめる……って、なにを……?)


 使用人の手が、着物の帯に手をかけて――


「……!」

 

 伊織はぞっとする。

 懇願するように父に向き直った。


「ち、誓ってそのようなことはありません……! 絶対です、信じてください、お父さま……!」

「えー。お父さま、お姉さまのいうことを信じちゃだめよ。だって、お姉さまは純潔でなくちゃいけないんでしょう? くすくす!」

「…………」


 父の拳が小刻みに震える。


(ああ、どうしよう、どうしよう――)




「皆、おやめなさい」


 そう言って現れたのは、意外にも継母だった。使用人達にストップを掛ける。


「落ち着いて。こんな貧相な体の女に、男の相手が務まるものですか。……ね、えいすけさん。梨々子」

「…………カノコ」

「お母さま!」

 

 父――栄介と、梨々子を止めたのは、継母であるカノコだった。

 

 継母がめずらしく庇ってくれたので、伊織も驚いた。


(……女同士だから、そこは……庇って、くれた、のかな……?)


 伊織はそう考えてから、継母の命で使用人の手が離れていることに気がついた。はだけている着物を、手早く整える。

 胸に手を当てると、カサリと紙の感触。


(大丈夫……。十夜さまの手紙は、落ちてないわ……)



 梨々子が言う。


「でもお母さま、お姉さまが外泊したのは事実だわ。やっぱり、男がいるかは確認した方がいいと思うわ!」

「……はぁ」


 継母は、伊織に聞いた。


「お前、男がいるわけじゃないわよね?」

「い、いえ……わたしには、そのような方はおりません……!」

「ふん。……栄介さん」


 父はごほんと咳払いをすると、言った。


「傷物になってさえいないのなら、どこへ泊まろうがどうでもいい。――伊織、お前に縁談が来ている」

「えっ……」


 ドキ……と胸が鳴る。

 伊織の頭に、十夜の姿が浮かんだ。


(まさか、もしかして……?)


(でも、十夜さまは……お見合いをすることになっていて……。十二支の家の女子で……。え……でもそれって……もしかして……?)


 十夜のことを思う。期待感と、ぬぐえない不安とが一気に混ざり合い――胸の音で、期待感が勝っていることを知る。




 ――しかし、父は言った。


「酉の家―― あささまだ」


(鳥飛田、朝人さま……)


 伊織は、その名前を聞いて――なにも思い出せなかった。


(し、知らない方だ……)


 伊織は、会合にも連れて行ってもらっていない。十二支の家にどのような男性がいるか、疎かった。


 それよりも。


(十夜さまじゃ、なかった……。そう、だよね……。……わたしじゃないって、分かってたのに。期待してはいけなかったのに……。どうしてわたしはまた、十夜さまのことを、考えてしまったの……?)


 ――勝手に期待して、勝手に落胆しているなんて。

 伊織は、肩を落とした。



 そんな伊織の後ろで、梨々子は軽快に笑いだした。


「あははっ! 鳥飛田家! あははっ! なるほどねー」

「梨々子……?」

「いいじゃない! お似合いよぉ! お姉さまにぴーったり!」


 伊織は、梨々子がなぜそんなにも笑うのかわからない。


「梨々子。酉の家でも、ありがたいことだ」


 父は言ってから、伊織を見た。


「……伊織。お前には縁談がこないんじゃないかと思っていた。だが、ありがたいことに酉の家から話が来た。……お前が飛び出していったのは、梨々子の結婚が羨ましかったからだろう?」

「…………」

「酉はうちのひとつ上の序列だが……こちらにとってなかなか良い条件だった」

「条件……ですか?」


 伊織の疑問には、継母が答えた。


「うふ。栄介さんはね、お前を嫁に出す代わりに、鳥飛田の事業をすこーし分けてもらうんですってね。だから絶対、ぜーったいお嫁に行ってちょうだいね。ああ、もちろん見限られないでちょうだい。お前が万が一出戻ったりなんかしたら、契約反故で大迷惑よ。――わかるわね?」

「え……、っと……」


 そこにはもう、一瞬でも優しく見えた継母の姿は、ない。いつも通りの、つり上がった眉を見せた。


 父は継母の隣に並んだ。


「これで、うちの経営も楽になる。伊織、お前が担保だ」

「……担、保……ですか……」


 家の命運がかかっているから、破棄できない婚約――ということだった。

 家の収入は悪くないはずだ。だが、それ以上に――継母と梨々子の浪費は激しかった。そのせいだろう。


「頼んだぞ、伊織」

「しっかり妻の勤めを果たしなさいねぇ」

「そうね。でも、――」


 梨々子は言った。



「でも、お仕置きは必要だと思うわ。そうでしょう、お父さま、お母さま? お姉さまってば、私の話をさえぎって、飛び出して行ってしまったんですもの! 普通、お茶くらいいれなおすわよねー」


(……え……?)


 急にお仕置きというワードがでてきて、伊織はサァッと青ざめた。



 継母はくすくす笑うと、頷いた。


 父は、伊織を見下ろすと、


「……そうだな。……任せる」

「うふ。任されたわ」

「お、お父さま……っ」


 伊織は手を伸ばすが、――父はもうこちらを見ない。


「…………っ」


 父の背中は去って行く。


(わたしが……悪いんだ。わたしが……三日も、家をあけたから……。だから、お仕置き、に……)


 継母は、冷たい声で使用人たちへ言い放った。


「さああなたたち、を持って、いつもの折檻部屋へ」


 梨々子がニヤニヤと笑いながら、伊織を眺めていた。

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