第11話 夢見月夜・誘い




 声がする。

 

「ねぇねぇっ! どうしてお姉さまはそんなにも無能なのー?」


 ……梨々子の声だ。

 梨々子が甲高い声で笑っている。



(ここは……)


 また、夢だろうか。


 伊織は、土下座をしていた。

 少し頭をもたげる。――場所は羊垣内の屋敷だ。


 いつの間にか子どもの姿になっている伊織は、這いつくばって頭を下げるしか出来ない。

 梨々子も子どもの姿――8歳くらいか――になっている。


「無能で無力! 期待外れのお姉さま!」

 

(この頃にはもう、梨々子はこんな感じだったな……)


 ……伊織は、着物の袖が濡れていることに気がついた。近くには、転がったバケツと、水たまり。こぼしてしまったのか、――あるいはこぼされたのか。

 

 梨々子は、切れ長の目をつり上げながら続けた。


「私に出来ることが、お姉さまったら、ぜんっぜんできないじゃない! 呪符を書けても、ひとつも使えやしないなんて! ダッサ! そんなんで長女って、恥ずかしくないの?」

「……ごめんなさい……」

「あのねぇお姉さま! ごめんごめんって謝ったところで、出来やしないんでしょ! 出来るなら謝った方がいいけどー!」

「…………」

「ちょっと! 黙ってないでなんとか言いなさいよ!」


 伊織は、言い返さない。

 いや、――できない。それが、染みついている……。


 梨々子は、そんな伊織の背を足でガッと踏みつける。


「うっ……」

「無能よねぇお姉さまって! 呪符を扱えない羊垣内に価値はあるのかしら?」

「ご、ごめんなさい……」

「あははっ! 惨めねぇお姉さまぁ!」

「ごめんなさい……」


 この、繰り返しだ。

 いつも、そう。梨々子の機嫌が収まるまで――台風が過ぎるのをまつ雑草のように、息を潜めるしかない。それしか、この場をやり過ごす方法を、伊織は知らなかった。


「うぅ……っ」



 これはあと、どのくらい続く?






「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「おい、おい!」

 

 体が、揺れる。――揺さぶられている?


「どうした! 伊織嬢! ……伊織!」

「う……」

「どうした?」


 低く、心配するような――優しい声。

 

(……なんだか、ほっとする声……)


 風の音、虫の声。それらが次第に耳に入ってきて――伊織はゆっくりと目を開ける。


「起きたか」

「え……」


 よくよく目を開けてみると、目の前には十夜が座っていた。伊織はあわてて体を起こす。


「そんな急に動くな」

「十夜さま……! すみません、夢を、見ていたようで……」

「謝らなくていい。うなされていたぞ。……大丈夫か?」

「は、はい……」


(……こんな夢を見ているようじゃあ、きっとわたしは呪符は扱えないままなんだ……) 


 もう、日が暮れている。いつの間にか夕方を通り越して、夜になろうとしていた。


「……どこか痛むか?」

「あ……。えと、大丈夫そう、です……。夢……なだけなので……」

「そうか」


 ――夢。……つらい、夢……。


 伊織は、自分の手を見つめる。


 すると、その手に十夜の手が重ねられる。


「しんどかったな……もう、大丈夫だ」

「え……。あ……」

「……何か食べたいものがあれば教えてくれ。お前が元気になるようなものを用意させる」

「え……」


(わたしが、食べたいもの……)


 今まで、羊垣内の家でそんなことを聞かれたことは、一度もなかった。

 いつだって中心は梨々子で、父で、――料理の好みは、継母のもので。

 梨々子の好きなメニューがでて、父のために一品多く、継母に忖度した出汁を使用する。

 そこに伊織の好みの余地はなかった。


(食べたいものなんて、初めて聞かれた……)


 伊織は、じんわりと、胸に温かなものが広がるのを感じた。

 脳内に錆び付いた夢の記憶が――残った不安が、解けていくかのようだった。


「ありがとうございます。……なんでも、いいです」

「……? なんでもよくはないだろう」

「いいえ。なんでもいいんです」


 伊織は言った。


「九頭竜家が用意してくださるご飯なら、わたし、なんだっていいんです…………」


 なんだか、涙が出そうだった。




 ***




 昨日とは打って変わって、今日の夕食は非常に豪華だった。

 会席料理くらいあるだろう


「こ、これは……」

「食べられるだけ、食べれば良い。まさか、九頭竜が粥しか振る舞わないと言われたら困るからな」

「えっと、雑炊も美味しかったです……。ですが、ありがとうございます」


 口に運んでみると、どれもすごく美味しい。


 そして、


(温かい……)


 伊織はやっぱり、その料理がまだ温かいと言うことに感動を覚えるのであった。




 ふたりのいる部屋は、やや大広間と言って差し支えないほどの広さがあり、その中にふたり分だけの食事が用意されていた。

 使用人達は部屋の外で待機しており、料理と対照的に静かなものだ。


 もくもくと、静かに食事をする時間が続く。

 たくさん食べ慣れていない伊織は、昼ご飯を抜いたというのに、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。

 箸を置くと、座ったままそわそわとする。


(……なんだか、……)


 その静かさが気になって、伊織は口を開く。


「…………あの、十夜さまの、ご家族は……?」

「……ん? ああ、この家は、俺ひとりだ」

「え……? で、でも、九頭竜家は……」


 九頭竜は名家だ。たくさんの能力者を排出していたはずだ。つまりは人数はそこそこいるはずだが――。


 十夜は、茶碗を置いて立ち上がる。お膳は空になっている。


「ついてこい」

「あ、……はい」


 十夜は、縁側から庭に降りていったので、伊織は慌てて後を付いていった。


 辺りは暗く、空には月が出ている。

 伊織は迷った末、縁側にいくつか置いてあった履き物のひとつを履いた。

 和風の庭園は露地のようで、緑の木々がきちんと手入れをされている。


 夜ではあるが、あまり寒いとは感じなかった。


(綺麗なお庭……)


「部屋の中だと、使用人が待機しているからな。あいつら、俺がぼそりと「茶が」と言っただけでやかんとふきんの両方を持って入ってくるんだ。なんだか少し話しにくいだろう」

「い、いえ……」

「しかし、どっちのパターンも用意して即座に行動すれば、一兎を得られるというわけだ。まぁ、合理的で良い面もある」

「えっと……」


(……よくわからないけど……)


「十夜さまがおっしゃるのなら、そのとおりです」

「…………」


「まあ、いい」

 十夜は咳払いをした。



「……そうだな。九頭竜の門をくぐったあと、屋敷がいくつもあったのを覚えているか?」

「あ、はい。ありました」

「あれらは全部、九頭竜家の屋敷なんだ」

「全部、ですか?」

 

 九頭竜家の敷地は広く、九頭竜の門をくぐった先には道があり、いくつかの屋敷へと向かって延びていた。屋敷の他にも、五重の塔や蔵などの建物がいくつもある。門の奥にさらに門があり、今伊織たちがいるのは、奥の方の屋敷だった。


 十夜は、話を続けた。


「もちろん使用人用の寮もあるが。基本的には九頭竜家の人間が暮らしている。世帯ごとで、屋敷が分かれているんだ」

「世帯、ですか……?」

「九頭竜当主であるお祖父さまの屋敷。叔父家族の屋敷。叔母家族の屋敷。従兄弟の屋敷。分家の屋敷がいくつかあって、そして――ここが俺の屋敷だ」

「そう、なんですね……」


 敷地内に、それぞれの屋敷を用意する。

 しかし、――完全に離れた土地ではないのが――同じ表札の中にいることが――「あれが九頭竜家だ」と恐れ敬われる意味を持っていた。


(あれ、とすると、十夜さまのご両親は……)


 世帯ごと、とすると、この屋敷は十夜とその両親が使っているはずだ。

 しかし、昨日今日と見かけない。


(ご両親は、いったい……?)


 夜空の下。立派な庭園の中に、少し離れた十夜の姿。それを見つめていると、彼がなんだかひとりで立っているように見えて――どこか、寂しげな感じがする。


「…………」

 伊織は、一歩踏み出した。


「あの……っ。……。……。十夜さまは、ご立派です……」

「? よく言われる」

「で、ですよね……」

 

(そうだよね、十夜さまは九頭竜の若さまなんだから、言われ慣れてるよね……。でも……もし、もし十夜さまが、おひとりでこのお屋敷に暮らしているのなら……)


 九頭竜には十夜の他にも若者が何人もいる。当主跡継ぎとして地位を獲得できているということは、相応の実力が伴うはずだ。



「十夜さまは、本当にご立派です。十夜さまが、今日まで当主跡継ぎでおられるのは……十夜さまの、努力があるからだと、思いますし……」

「……っ。……当たり前のことを、しているだけだ」

「……いいえ。きっと、……大変だと思います。だから、……」


 伊織は、もう一歩、十夜に近付いた。


「だから、お疲れなんですね」

「…………!」


十夜が息をのんだ。


 伊織は、昨夜の十夜の様子を思い出す。


(十夜さまは隠しているみたいだけど、……あまり眠れてなさそうだった……)


 十二支の家で一番妖怪を討伐しているのは九頭竜家で、とすると十夜が最も働いていると言っても過言ではないだろう。

 そう考えているうちに、伊織はまた自然と下を向いていた。


(そうだ。そんな十夜さまに、少しでも恩返しを……)


 伊織は頭を上げると、勇気を出して言った。



「わたし、今日も十夜さまが安眠できるよう、力を尽くします……!」

「…………」

「十夜さま?」


 十夜は、少し考えるような仕草をして、


「いや、別にいい」

「え、……っ。す、すみません……」


 断られてしまった。


 伊織は恥ずかしくなって、肩をすぼめる。


「……あれをされてしまっては、すぐに寝てしまうだろう」

「え? ……はい。すぐに眠れるはずです……」

「それだと困る」

「え……っと……? ……ご迷惑、だったでしょうか……?」

「いいや。快眠できたのはお前のおかげだ。おかげで体も軽い」

「は、はい……?」


 十夜の言うことが、伊織には分からなかった。

 

(ご迷惑では、なかったんだ……。でも、それならどうして今日はいらないんだろう……?)



 ぐるぐると考えるが、分からない。


 月明かりに照らされた十夜の表情も、――分かりにくい。



 ジャリ、と地面を踏む音がして。

 伊織が顔を上げると、すぐそばに十夜が来ていた。



 十夜は伊織の髪を掬うと、言った。


「もし――あれを毎日やってもらえるなら、今日も頼みたかったがな」


「え……」

「数日だけなら、……早く眠ってしまうのは惜しい」


(そ、それって……)


 夜風が吹いて、――でもちっとも寒くなんかなかった。

 自分の髪が、こんなに熱を持っていて、こんなに大きな音を立ててるだなんて知らなかった。


(毎日、って……! それに、それに――、)



 十夜は言った。


「――お前さえよければ、――このまま俺の屋敷に残ってくれないか」


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