17.待合室、糸、懺悔
「ヨドノさんはどうして、デザイナーになったんですか」
ミヤマに問いかけられて、僕は少し昔のことを思い浮かべた。
ずっと、当たり前のようにやってきたことだったから、今更その理由も、確固たる想いを振り返ったことがなかった。ただ、生きる為に、自分にとって一番居場所になりそうな仕事が、ここだったのだ。
いや、確かにそれもあるけれど、それだけというわけでは決してなかったと思う。
「……中学生まで、全てが平均的だったんだ」
「オールラウンダーってやつですね」
「いや、そんな大したものじゃなくて、本当に全てが平均的。いわゆる普通の男子。友達にも苦労しなかったし、いじめに巻き込まれることもなかったし、かと言って主役になれるようなポジションでもなかった。仲は良かったけど、卒業したら忘れるような、そんな奴」
そう、大したことなんて何もない。ただ、それが思春期の僕にとってはひどく辛いもので、何か、刺激になるような出来事が何か一つでも起きないかと常に思っていた。結局そんなものすら何も無かったのだけれども。
それで、そう。確かあれは中学二年の頃だった。
「グループワークの発表で、褒められたんだよ」
「何をです?」
「模造紙に書いた発表用の貼り紙。めちゃくちゃ読みやすくて、分かりやすいって。その時からかな、いろんなものを綺麗にデザインするのが好きになったのは。部活動のチラシとか、そういうのもやってくれって声をかけてもらえるようになって、毎朝下駄箱の前にある掲示板が自分の作ったもので少しづつ埋まっていく度に、なんか、生きている証をもらえたような気がしたんだ」
思えば、あれが自分の中で唯一見つけた特別だった。今振り返ればただの面倒ごとを押し付けられていただけかもしれない。けれども僕にとってその製作に夢中で取り組んだし、いくらでものめり込むことができた。
「まあ、美術部に入ったら僕の求めていたものとは違って、結局辞めちゃったんだけどね」
「ヨドノさんは、絵を描きたかったわけじゃなかったんですね」
「それもあるし、絵描きの領域でもっと才能に溢れた人が沢山いたから」
「それが、ヨドノさんにとって青春だったんですね」
「どうだろうね、でも、楽しかったよ」
ミヤマの言葉にそう返して僕はヘッドレストに身を預ける。
彼女が借りてきたシェアカーは先日の会社契約のレンタカーに比べると幾分か乗り心地が良かったし、彼女も居心地が良さそうに運転をしていた。
彼女はオーバーサイズのグレーのスウェットに、黒いスラックスとデッキシューズを身を包んでいて、普段の営業らしいかっちりとした様子からすると大分ラフに見えて、それがとても新鮮だった。
彼女曰くきっちりするのは仕事だけが良いと、普段着は大体オーバーサイズ系が多いという。
それにしても、こんな休日に僕の野暮用に付き合ってくれる彼女には感謝してもしきれない。特に今日は、彼女からすれば何の関係もない、何の接点もない男の話を聞きに彼の家族に会いに行くのだから。
流石にそこまでしてもらう必要はないと言ったのだが、次の日彼女は「車を借りたので合流場所を教えてください」と僕にメッセージを残し、半ば押し切られるように同行することになった。
四、五十分ほど高速を走り、蔦のようにビルの合間をびっしりと埋め尽くす首都高速を抜けると、やがて道山に囲まれた道に出た。トンネルと山間の道を何度も繰り返す道の中で彼女がぽつりと呟く。
「ヨドノさんって、自己評価低いじゃないですか」
「そうかな」
僕の問いかけに彼女は頷く。
「自分には何もないって感じでいつもいて、だからなんですかね、何でもやろうとするんですよ。それこそオーバーワーク気味に。どうしてそんないつも必死なんだろうって思ってたんですけど、さっきの話で少し納得がいったんですよ」
「納得?」
「ヨドノさんは、自分の存在証明ができるものが欲しかったんですね」
--存在証明。
僕の中にあるこの得体の知れない空白と、過食症のようにいつまでの拭いきれないこの焦燥感の原因は、果たして“それ”なのかもしれない。
考えこむ僕を見て居心地が悪くなったのか、彼女はバツの悪そうな顔を浮かべると、あの、と言葉を発した。
「悪い意味じゃないですよ。私はそういう誰に対しても優しくて、必死になれるヨドノさんのことが好きですから。逆に私なんていつも中途半端なところで満足してますよ。ちょっと仕事の区切りがついたから満足とか、週末に美味しいお店に友達と行けたから満足とか。目先にいくつも満足感を得られるポイントを作って、充実した気になるんです」
「それ、良いね。僕なんかよりずっと自己管理ができてるよ。流石」
「大きな不安に耐えられないだけです。ヨドノさんが仕事とか、誰かへの奉仕で心の隙間を埋めるみたいに、私は短絡的な快楽で自分を騙すんです。今、自分は幸せだって。これが何十年もした先で、ふと我に帰った時、自分がどうなるのか時々不安にはなるんですけどね、でもそれはその時の私が感じるものなので見ないようにしています」
彼女は僕を横目に見てから、口元に笑みを浮かべる。
「私は、今の私を楽しむことにしてますから」
ミヤマのことを、僕は少し誤解していたのかもしれない。
彼女は奔放で、感覚的に日々や人生の選択をしていると思っていたから、もっと自由で、センチメンタルにならないで生きていける才能を持った人間だと。でも蓋を開けてみればそれは彼女なりに生きてきた結果生まれた他者の抱く副産物であり、根本にあるのは「日々、自分が幸せに生きられるように」という想いだ。
「やっぱりミヤマは立派だよ、僕はそう思ってる」
「……ヨドノさんにそう言われると、心強いです」
そう言ってはにかむ彼女に微笑み返し、そして僕は前を向いた。
高速を走る途中、高い防波堤越しに海が見えた。
「海だな」
「海ですねぇ、もうちょっとしたら一瞬で山ですけどね」
「この時期でもサーフィンとかする人っているのかな」
ミヤマがさあ、と首を傾げる。
「ラッシュガードとか性能よくなってるって聞きますし、最近だと水が冷たくてもできるんじゃないですか。梅雨明けとか夏真っ盛りだと常連が多くてやりづらそうですけど、今みたいに秋の間際みたいなシーズンになると初心者もやりやすそうですね」
「ミヤマはやったことある?」
彼女は小さく唸る。
「興味はあるんですけどね、トニムラさんが仕事量を今の半分にしてくれて、尚且つ終日在宅にさせてもらえるならやろうかな。家も海が近いところ借りて」
「ミヤマがその気になったら、本当にやりそうだ」
「流石にやれませんよ、今の仕事楽しいですし」
彼女は可笑しそうに声を上げて笑った。
「あ、そういえば梅雨、明けたんだな」
ふと思ったことだった。別に口にする必要は無かったのだけれども。気がつくと言葉になって口から出てしまっていた。運転席に目を向けるとミヤマは当然不思議な顔をしていて、何を言うべきか悩んでいるようだった。
「いや、ちゃんと分かってるよ。今が九月だってことくらい」
「まあ、この一年特に忙しかったですからね。大したことできなかったなぁ。初詣も旅行も、海とかプールにも行けなかったし、合コンとか出会いも作れなかったなぁ」
慌てて取り繕った僕の言葉に彼女はため息をつきながらブツブツと愚痴を漏らす。
確かに、僕もこの一年のことをあまり覚えていない。
「ミヤマ、前職の方がもっと忙しかったんだろ? ならそんなイベントも全然行けなかったんじゃないか?」
「行けるようになったからですよ」
彼女はムッとした顔でそう言った。
「余裕ができた分、あれも行けるかもなーこれも行けるかもなーって。色々想像しちゃうんです。前はもう訳わかんなくなってたんで、休みの日だってほとんと寝てたし、生活に必要なお金しか使わないから、だんだん給料が積み上がっていくんですよ、凄くないですか?」
「なんか、寂しい額面だな」
「その通りなんですよ。半年くらいメールで送られてくる明細を開いてなかった時もあったくらいです。だから、それ比べたら今ってとても恵まれてるんですよ。でもそうなると、今まで仕事と最低限の仕事にしか当てていなかった時間で何をするか、分からなくなるんです。不思議ですよね」
「ミヤマがとにかく大変な仕事をしていたってことはよく分かったよ」
「だから、今回のプチ旅行も私にとっては有難い話なんですよ。だって一人じゃ家から出なくなるから」
「飯とか、旅費は全部奢るから、存分に楽しんでくれよ」
「じゃあ、好きなだけ楽しみます」
呆れ半分、同情半分でそう言うと彼女は笑ってそう返した。
そして僕は、僕が感じたこの季節の移り変わりに対する想いの中で、ミシマのことを考えた。
--彼女は、果たして季節の変化を感じられただろうか。
○
ヤサカ家に着いて、まず言われたのは「ありがとう」という言葉だった。
ことの成り行きは彼から話すように伝えていたから、疎まれはすれど歓迎されるとは思っていなかった。それも訪問してくるのはヤサカマサトの恋人だったミシマジュンコの次の恋人であり、更に言えば元恋人だ。
彼の両親からすれば縁も何もないただの他人が、別れた恋人の死んだ元恋人を訪ねてやってくるだなんて、僕が彼らの立場だったなら、違和感しかない。
そう自覚しながらも、僕は彼らと会う必要があったと思っていた。ミヤマも、ヤサカリョウヘイを巻き込んででも、僕はそうすべきだったと今でも思っている。僕がミシマをどうしたいのか。胸の中に残った気持ちの終着点にたどり着くためには、必要不可欠なものだと信じていた。
ヤサカマサトの実家は、の勾配のある山道を過ぎた先の住宅街の中にあった。
緩やかな坂道をいくつか乗り越えた先にあるその街はそれなりに栄えていて、向かう途中にはショッピングモールもあり、家族連れが賑わっているのが見えた。流出による人口減少の問題を抱えながらも、地元をこよなく愛して残る若者に支えられ、致命的なまでの現象には至っていない、そんな街だと僕とミヤマは道中話していた。
彼の家までの道のりは狭く、ミヤマも何度か突き出した電柱に車を擦りかけ、Oリング模様のついた急勾配の坂道に辟易していた。案の定近くのコインパーキングも狭く小さく、切り返すたびに彼女の舌打ちが車内に響いていた。
「急にすみません、これ、良かったら食べてください。私の家の近くにある和菓子屋で、最近すごくハマっていて、もし甘いものが嫌いでなければなんですが」
パーキングの窮屈さに機嫌を損ねていた彼女が丁寧に菓子折りを渡す姿を見て、僕は営業職の切り替え能力の高さに尊敬すら覚えた。本来ならば僕から声をかけるべきところで彼女が先立って出てくれたのは、多少の気遣いだったのだろうか。
「突然すみません、お二人からすると縁も何もない自分が来るのは、迷惑以外の何物でもないと思ってはいるのですが」
そう言って差し出した僕の菓子折りを、ヤサカの母は優しく受け取って、丁寧にお辞儀をしてくれた。
「気にしないでください、リョウヘイのご友人さんですし、何よりマサトのことを知りたいと言ってもらえるのは、とても有り難いことですから。ねえ、お父さん」
そう言って朗らかに笑みを浮かべて応じてくれた彼女の呼びかけを合図に、ヤサカの父は僕たちに深いお辞儀をした。
「本来なら、リョウヘイもこの場にいるべきところ、すみません。もうこっちに帰ってきてるとは思うんですが、多分どこかでフラフラしているんだと思います」
「いえ、むしろリョウヘイにも無理言って戻ってきてもらったので」
「私たちの中で一番心の整理がついていないのは、リョウヘイなんです。もちろんジュンちゃんも抱えている想いがあるだろうけど、あの子が一番、ね」
そう言ってヤサカの母は困ったように笑い、隣の彼の袖を軽く引いた。
「ね、立ち話もなんですし、入ってもらいましょ。そのうちあの子も帰ってくるだろうから」
そう言って二人は、僕とミヤマを招き入れてくれた。
居間に通されると、改めて彼らは自己紹介をしてくれた。ヤサカヨシコとヤサカショウヘイ。二人の名前をとって付けたいという思いがあって、マサトは父から、良平は母から取られたのだと言う。本当は女の子も欲しかったそうだが、ヨシコさんが当時体調を崩し、二人も大きくなって育児に時間を取られるようになったこともあって、諦めたという。
それだけに、ミシマの存在は彼らにとってとても嬉しかったという。
「ジュンちゃんとは、もう随分長い付き合いになってね。会ったばかりの頃は確か、ジュンちゃんも成人してまもない頃だったから、よく覚えているわ」
「そんなに長い付き合いなんですか?」
ミヤマの問いかけに彼女は頷く。よく自分の知らない人物に対する情報を興味深そうに聞けるものだと思う。ただ、僕だと感傷的になってしまう質問に対して答えてくれる彼女には今は感謝しかない。
「確か、仕事の飲み会か何かでマサトの同僚が粗相をしたとかで、その時学生だったジュンちゃんがその対応についたらしいのよ。で、同僚の後始末をしている間に何気なく会話をしてみたら、すごく気が合ったみたいで。でも二人とも、出会い方があまりカッコよくないから、最初はマサトにナンパされたって言いふらしてたみたい。結局その同僚の子が本当のことを言ってしまったらしいけど。本当に、可笑しいわよね」
そういえば、と彼女はヤサカマサトに関する会話を続けていく。隣で頷き、時折相槌を打って会話を引き出していくミヤマを横目に、僕は彼女の会話を聞き続ける。
ミシマが学生時代、居酒屋で働いていたことを僕は知らなかった。僕には彼女が居酒屋で大声を出して酒を手に店内を駆け回る姿があまり想像できなかった。そして、その場で何気ない会話をきっかけに彼と知り合ったという事実も。
ヤサカマサトとミシマの出会いは、もっと高尚なものだと勝手に思っていた。それが具体的にどういうものかはうまく説明はできないけれど、とにかく彼らは運命的な出会いを、運命的な場で遂げたと思っていたし、そんな記憶に僕が勝てる訳ないと思っていた。
いや、むしろそういう思い出の方が、大切なのかもしれない。
二人とも出会い方が恥ずかしいから隠そうと、笑い合って決めた嘘の馴れ初めを吹聴する。むしろこのやり取りの方が、とても美しくて、高尚ではないだろうか。
「本当にジュンちゃんは気遣いがとても出来る子でね、本当に……。マサトともうまく馴染んでいて。私たちも娘みたいに思っていたの。このままきっと……」
そこで、ヨシコさんは僕を見た。我に返ったのだろう。ここにいるのはミシマジュンコの次の恋人だった男だということに。彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべていたが、僕が首を振り、笑みを浮かべてみせるとほんの少し表情の固さが取れたように見えた。
「マサトさんは、とても出来た人だとリョウヘイから聞いていました。ジュンコさんから話を聞いたことはありませんでしたが……まあ、話すわけがありません。今の恋人に元恋人の話なんて」
「リョウヘイは、どこまで?」
「彼と、彼女に起きた顛末は大体」
「そんなこと、言う必要なんてなかったのに」
苦悶の表情を浮かべ俯くヨシコさんにショウヘイさんが手を添える。ずっと無言のまま彼女の隣に座る彼が、初めて表情を見せたのが、この瞬間だった。彼は穏やかで、優しげに見える目線で彼女を見守るように見つめていた。
ただ、その目にはどこか憂いがあった。
「いいんです、いずれにせよ、どこかで僕らはその大切な思い出にぶつかったと思うので。それを先に知っていたのかどうかという、それだけのことですし。現に僕は、そのいつかあるだろう出来事を先送りにしてしまった。こればかりは仕方のないことです」
それに、と僕は続ける。
「僕は、ジュンコさんと真正面から向き合いたいと思っています。彼女が抱えているものも含めて、理解した上で、彼女とのこの先を二人で決めたいと。だから、今日この場を頂けたことを、とても感謝しています。ヤサカマサトさんについて知る機会を頂けたことを」
鼻を啜る音が聞こえた。
ヨシコさんが下唇を噛み、履いているベージュのスカートを強く握りしめているのが見えた。肩を振るわせ、目は赤く充血し、それでも俯くことなく僕をじっと見つめていた。
「マサトのことは、今でも夢に見ます。もっと話に耳を傾けていたら、あの子がもっと弱い子だと、強がっているだけの子だと気づけていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって……。そうしたら、ジュンちゃんだってあんな辛い目に遭うことはなかったって……本当に」
震えたまま必死に言葉を紡いでいたヨシコさんの言葉が、ミシマの名前をきっかけに堰を切ったように溢れ出し、やがては嗚咽に変わった。俯いたまま溢れ出る涙で衣服を濡らす彼女にショウヘイさんは寄り添い、少し外します、とだけ告げて部屋を出て行った。
他人の居間に二人ぽつんと取り残されたままいると、ミヤマが一度大きなくしゃみをした。僕が目を向けると、申し訳なさそうに顔をしかめていた。
「リョウヘイさん、でしたっけ。もしかして来る気ないんじゃないですかね。親御さんだけこんな目に遭わせて、良いと思ってるんですかね」
「まあ、そんな目に遭わせてるのは僕たちも一緒だけどね」
「私たちは、いや、ヨドノさんには知る権利がありますよ。だって、こんな話を何も彼が言わなかったら、ミシマさんとは今も付き合えていたかもしれないんですから。私が聞いた限りでは、そのリョウヘイさんが一番悪いですよ」
「アイツもアイツで、耐えられないところまで来てたんだよ」
「何にですか」
そう言って憤慨する彼女に僕は回答する。
「完璧な兄貴を誇りに思っていたことにだよ」
「そんなの……」
「結局、ここまで拗れた物事を整理するにはヤサカマサトがどんな人物で、何を理由に亡くなったのかを知る以外ないんだよ。それが誰の幸せにも繋がらないとしてもさ」
「……なんで、そんなことをヨドノさんがしないといけないんです?」
ミヤマがおずおずと尋ねてくる。彼女の言う通りだ。どうして僕がこんなことをしないといけないのか。こんな目に遭わないといけないのか。僕がわざわざするべきことなのか。考えれば考えるほどその疑問には正直正確な答えは出せなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
それは--
「ミシマを救える道があるかもしれないんだよ」
彼女が抱える重さを僕が代わりに背負えるとは思っていない。ただ、その重荷を軽くすることはできるかもしれない。そうして、彼女がこれから多少なりとも生きやすくなる世界を作ってやりたかった。彼女とまたもう一度恋ができるかは分からないけれど、せめて、僕を愛せなかったとしても、彼女には前向きに生きてほしい。
「それだけの理由じゃ、やっぱり足りないかな」
そう言って気恥ずかしさを誤魔化すように僕は笑った。
けれどもミヤマは笑わずに僕のことを見ていた。
「ヨドノさんは、やっぱり良い人ですよ」
「良い人だなんて、そんな……」
「ヨドノさんは良い人です。否定する必要はないですよ。向き合うなんて辛いことを進んでできて、しかも他人が向き合う機会まで作ろうとしている。人なんて両手で抱えられるくらいのもので精一杯になるものなんでうsから、こんなこと、なかなか出来ないですよ」
ミヤマは僕の頭に手を乗せ、優しく撫でる。
「私が証明しますよ、ヨドノさんは、良い人です。都合の良いとか、記憶に残らないとか、ヨドノさんが思うそういう類の人ではなく、大切な人のことにだって、一緒に並ぼうとしてくれる。向き合おうとしてくれる。こんなにも心強い人は、いません」
目元に熱い何かが込み上げるのを感じた。
僕は目元をそっと人差し指で拭う。まだ熱の残った涙が僕の指先を濡らし、染み込んでいく。ほのかな熱だけを残して。
○
ヨシコさんが落ち着く頃には、僕の涙も落ち着いた。ずっと横で励まし続けてくれたミヤマにも感謝しなくてはいけない。お陰で戻ってきた彼らの前では、平静を保ったフリをしていられた。
二人は手に小さなスケジュール帳と、茶封筒を持って戻ってきた。スケジュール帳はともかく、もう片方は大体どんなものなのか想像がついた。彼らが再び僕たちの向かいに座ると、手にしていたそれをテーブルに置いた。きっちりと底辺を揃えるように置かれたそれらを見て、僕は腿に置いていた手をぎゅっと握りしめる。
「マサトが死ぬ直前、手帳に殴り書きで色々書いていたことが分かったんです。色々悩んでいたことも、長年苦しみ続けていたことも。」
「苦しみ続けていたことって」
「海、です」
ショウヘイさんは俯いたまま呟くように言った。
「以前、私たちは神奈川の湘南の方にいたことがあります。その時、マサトがいたくその景色に刺激を受けていました。それこそずっとここに永住したいと思うほど。転勤はもう無いよね、と何度も念押しされたことを今でも覚えていますし、後悔しています」
「今思えば、教育熱心という言葉に狂わされていたんでしょうね、私も、夫も」
俯いたままのショウヘイさんを支えるように、ヨシコさんは背に手を当て、笑みを向ける。
「何が子供の為になるだろうと考えた時、大きくなっても選択できる側にいることだと思ったんです。私も夫も、平凡な家庭でしたし、両親もサラリーマンと専業主婦で、生活風景も似ていました。進路も、大体同じで、学生生活を経た先で夫は進学し、私は就職をしました。私たちが結婚をしたのはそこから六年後でしたけど、豊かだったかと言われればそうでもなかったと思いますし、幸いにも貧しいわけでもなかった」
でも、と彼女は続ける。
「普通であっても、良い選択はできないものなんですよ。住む場所も、出世に必要な道のりも、すぐに就職を選んで、歴があっても大学を出た社員が輝かしく夢を抱いて煌びやかに駆け抜けていくのをオフィスの隅で眺める日々。もしそこに少しでも飛び込むことができたなら良かったんでしょうけどね、そういう考えすら及ばなかった」
「それが、どうしてマサトさんに結びつくんですか?」
ミヤマの純粋な疑問を聞いて、ヨシコさんは節目がちに彼女と僕とを交互に眺め、両手を組み替えながら目を泳がせている。紡ぐべき次の言葉を決めあぐねている彼女を見て、それまでじっと黙り込んでいたショウヘイさんがようやく口を開いた。
「私たちは、ただマサトに幸せになって欲しかったんです。選ばれるよりも、選ぶ側になって欲しかった」
「選ぶ側」
僕が反芻すると、彼は頷いた。
「私たちが、いや、妻が特に感じた感覚をマサトには感じてほしくなかった。だからこそ私は、あの子が将来幸せになる為に、できる限り手を尽くしたつもりでした。勿論リョウヘイも。兄の立派な姿を見て、追いかけたいと思えば、やがて二人とも選ぶ側になれると思ったんです」
「選ぶ側、というのは?」
「優秀で、誰もが羨むような存在に、マサトにはなって欲しかったんです」
その一言で、なんとなく、ヤサカマサトの辿ってきた道を理解することができた。ミヤマも同様だったようで、彼女もまた、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。しかし同時に、彼らを責めることもできなかった。何故なら、その行為は彼らからすれば全て好意的なものであり、ヤサカマサトという息子に向けた多大な愛でもあった。
「マサトにとって道端の石になるものは除外しないといけない。あの子には立派で、完璧に育って欲しかった。そういう一つ一つの私たちの行き過ぎた想いに、マサトは何も言わずに答えてくれました。それがまた、私たちを増長させてしまった。自分たちの育て方は間違っていないと思ってしまった。そしてその在り方があの子の中に定着した頃には、もう私たちが何も言わなくても立派な長男を演じるようになっていました。そしてその背中をリョウヘイも追いかけた。憧れとして。全て、私たちの理想の通り、あの子は動いてくれたんです」
「どこかで少しでも、マサトが弱音を吐いてくれていたらって、今でも思います。そうしたら、私たちがあの子に課していたものがどんなに負担だったのか顧みることができたかもしれない。後悔できたかもしれない」
「でも、マサトさんはその理想の姿を真っ当してしまった」
僕の言葉に、二人は深く頷く。ヨシコさんの目には、染み出した涙が溜まっていた。
「マサトさんが魅力を感じた海を取り上げた理由も、道端の石だと感じたからなんでしょうか?」
その言葉に二人は黙ってしまった。我ながら酷な質問だと思った。けれども彼らは、そういう質問こそを求めているような気もしていた。
言わば僕とミヤマという存在は、二人にとって懺悔室のようなものだった。彼らがこれまで、ヤカサリョウヘイにすら告げることのできなかった罪の感覚を吐き出す、絶好の相手であり、おそらくはヤサカもそれを想定して僕たちだけを先にこの場に招いたのだろう。
だが彼らの懺悔の場に、彼が不在である理由が果たしてあっただろうか。
彼はまた、僕を上手く使おうとしている。都合よく使って、自分たちの親たちが感じる罪の意識を目の当たりにすることから逃げたのだ。そう思うと、僕は酷く腹が立った。
ヤサカマサトという存在がミシマに与えた影響は計り知れない。けれども同様にヤサカリョウヘイという存在もまた、ミシマにとってはかけがえのない存在であり、深い感謝を抱いている人物だった。
彼は聞くべきだったのだ。二人の懺悔を。例えそれが彼自身を深く傷つけるものであったとしても。
「あの、マサトさんは、お二人を恨んでいたのでしょうか」
ミヤマの言葉を聞いて、僕は少し思考が止まった。それは二人も同様のようだった。ミヤマは続ける。
「私、ヨドノさんの職場に来る前の時って、ほとんど思考停止の状態だったんですよ。とにかく目の前の仕事をこなさないといけなかったし、仕事して栄養をとって眠って、その繰り返しで何も考える余裕が無くて。周りの言う言葉も全然頭に入ってこなくて、ただ今目の前に用意されたタスクをこなすことだけを理由に生きていたんです」
「それは、大変でしたね」
戸惑いながらもヨシコさんはそう呟いた。
「そう、大変でした。でも、その大変だったとか、自分が置かれていた状況に対する危機感とか、そういったものを理解できたのは、その環境から離れた後なんです。その場に身を置いていた時って、周りがわからないから、それが大変かどうかすら分からないと言うか、それこそが日常なんです」
だから、とミヤマはぽつりと言った。
「だから、マサトさんはどこかで気が抜けたその時まで、お二人から受けていたものを辛いとは思っていなかったんじゃないのではと思うんです。これが自分の全てであり、役割だと受け止めていた。じゃなきゃ人間完璧なんて演じられません。どこかでグレてしまったり、リタイアしただろうし、そこでお二人もきっと彼が背負っていた負担を知る機会があったはずです」
ひとしきり話し終えると、ミヤマは熱の入った自分の発言を顧みてか、顔を真っ赤にして深く頭を下げた。すみません、出過ぎたことを言いました、と深く謝る彼女に、二人は首を横に振っていた。心なしか、二人の固くなった表情も先ほどよりは緩和されたように見えた。
すっかり冷めたお茶をショウヘイさんは半分ほど飲み、一呼吸入れる。その呼吸は、どこかため息のようにも見えた。
「マサトが海にハマった時、少しだけ成績が下がったんです。今思えば些細なレベルの低下でした。ただ当時の私は、ここで彼の軌道修正をしないといけないと思い、そして丁度その時上がっていた転勤の話を好都合に思ったんです。あれだけ海が好きだと言って、海で遊ぶことに魅力を覚えた息子の、唯一表れた自我を潰した瞬間でした。引っ越しが終わった後、マサトは何も言いませんでしたし、これまで通りの私たちが描く立派な息子に戻っていました。あの時反発を受けていたら、もしかするとまた海のある街に戻っていたかもしれない。そこで、完璧とまではいかないまでも、マサトは今も生きて、楽しく日々を過ごしていたかもしれない」
だから、私たちに罪はあるんですよ。
ショウヘイさんははっきりとそう言った。
「ミヤマさんが仰った言葉は、とても優しい。ただ、例え私たちを恨んでいなかったとしても、我々は恨む余裕すらも取り上げてしまっていたかもしれない。それに、あの子が残した最期の遺言に、全てが詰まっていると私は思っているんです」
彼の言葉に、僕はリョウヘイの言葉を思い出し、ふと呟いてしまった。
「遺骨は、海に撒いてほしい」
彼は頷く。
「その一言が、全てです。私たちはマサトに強いてきた全てを、背負っていくしかないんです」
ただ、例外はあります。と隣のヨシコさんが彼の言葉の先を続けるように言った。
「キョウちゃんは……キョウコさんは、マサトに縛られる必要はないんです。息子に惹かれて、私たちにもとても良くしてくれたあの優しい子が、この先あの子のことだけを考えて伏せる必要はありません」
そして、彼女は一呼吸置くと、僕をまっすぐに見てこう言った。
「あの子だけは、幸せにならないといけない」
○
ヤサカマサトが遺した遺書と日記を受け取り、僕たちは彼の部屋に向かった。
リビングの戸を閉めた後で、ヨシコさんの泣き喚く声と、それを宥めるショウヘイさんの声が聞こえた。僕達のいる前ではけして泣くまいとして堪えていたのだろう。そして、話を終えた瞬間に堰を切ったように感情が溢れ出した。後悔なのか、息子の死に対する想いなのか、それは、彼らにしか分かり得ない。
彼らに遺書と日記を渡された時に、本当にこれを読んでいいものなのか、とても不安になった。そして何度も何度も彼らに確認したが、彼らはむしろ読んでほしいと答えた。それがキョウちゃんの為にもなると思うからと。
二階に上がり、遺されたヤサカマサトの部屋に入る。
そこは、まるで時間が止まったように静かだった。毎日掃除をしているのだろう。勉強机や立てかけられた本棚、大人には少し窮屈なシングルベッドのシーツ、カーテンなど、部屋の隅々まで綺麗に手入れされ、埃一つなかった。所有者は死んでいる筈なのに、部屋だけが生き続けている。変な気分だ。
「私たち、何を見せられているんですかね」
もういない人間の部屋を見回しながら、ミヤマは言った。
「なんでこんなにも、上手くいかないものなんだろうって思って。私も、何かきっかけを一つ逃した時にこうなるのかなって思ったら、ちょっと、辛くなってきました」
「ミヤマ、ここまでにしておかないか?」
僕の言葉にミヤマは目を見開いた。戸惑いが隠せていないその顔に僕はもう一度言う。
「ミヤマの思い切りがなかったらきっと今、僕はここにいない。ミシマとのことも後悔したまま、いずれ記憶の片隅に置いたままにしていたかもしれない。だから、ミヤマには感謝しているんだ。でも、ミヤマはこの一連の出来事の中で、言ってしまえば赤の他人だ。これ以上は、君の心にも影響が出るかもしれない」
「そんな、それじゃ、ヨドノさんはどうなんですか?」
僕は手元の遺書と日記に目を落とす。そして、ミシマのことを想像した。
「僕も赤の他人だけど、君と少し違うのは、同時に命綱にもなっているんだよ。なんていうのかな、僕の踏み込めるギリギリのラインに、手を掴める人がいるというのか」
「それが、ミシマさんですか?」
「どうだろうね」
ミヤマの問いかけに、僕の脳裏にはもう一人の姿が浮かんでいた。未だに姿を見せない彼の姿を。
「それはこれを読めば分かると思う」
そう言って僕が一人遺書を開こうとした時、その手を彼女が掴んだ。顔を上げると、ミヤマは顔を赤くしていた。怒っているようにも見えるし、しかしその潤んだ目を見ると、泣いているようにも見えた。
彼女は声を震わせながら、こう言った。
「なら、ヨドノさんの命綱は私です。あなたがこれ以上引き込まれないようにすればいい。だって私は、この中で誰よりも赤の他人なんですから」
彼女の言葉に、僕はそれ以上何も言わなかった。部屋の片隅の古いデスクチェアを引っ張り出すと、彼女に差し出す。ミヤマは僕を一度見て、それから何も言わずそこに座った。僕は彼のベッドに腰掛ける。違和感はあったけれど、それ以外にじっくりと腰を落ち着ける方法が思いつかなかった。
「遺書から開けようか」
僕は既に封切られた封筒に指を入れる。こんなにも薄くて簡素な茶封筒に、死者の言葉が入っているだなんて、誰が思うだろう。
引き抜いた便箋も、百均とかでよく見るようなシンプルなものだった。綺麗に三つ折りになったそれには、薄らと文字が透けて見える。全貌は見えないけれど、字が綺麗なことだけは良く分かる。おそらくはこれもあの二人に育てられたが故のものなのだろう。
一度深く呼吸をして、気を落ち着ける。どうしてだろう、ただの手紙だというのに、僕はこの手紙にひどく怯えていた。この中に書かれている内容が、一体どんなもので、誰に向けた想いを書いているのか、その全てが明らかになるのがとても怖い。
そんな僕の感情を読み取ったのか、僕の背にミヤマが手を当てた。僕はもう一度深呼吸をして、三つ折りの便箋を開く。
「……ようやく、僕は僕になれた気がするのです」
はじめに見えた一行目を、思わず僕は読み上げた。たった一枚の便箋が遺したその文字があまりにも綺麗だったから、そして、あまりにも拓けて見えたから。
「これ、遺書なんですか?」
「でも、二人ともそう言って僕に……」
「これが、遺書なんですか?」
戸惑う僕に、ミヤマはもう一度そう尋ねた。
僕は何も答えられなかった。
○
ようやく、僕は僕になれた気がするのです。
ただ勘違いしないで欲しいのは、これまで誰かの為に生きてきて、演じ続けてきた僕のことが嫌いなわけではありません。
幸せの理想系を形作り、大切に導いてくれたからこそ今の僕のがあるわけで、ありがたいことに愛する人とも出会うことができた。この上なく幸せな道のりが用意されていたレールの上に載っている。それらを間違っているとはこれっぽっちも思っていません。
ただ、時々思うのです。この道のりの中に、僕が自ら選んだ道が一体どれくらいあるのかということを。
もし僕が何も知らず、手探りの中で選び取った未来と、今現在の立ち位置がどれほど違ったのだろうかということを。
今回の仕事の件も、それを見直す理由の一つかもしれません。むしろ今となっては、いい機会になったとすら思っています。
誰かの期待の上にいない自分がこの先、どんな道に辿り着くのかは分かりません。ただ、残念ながらその道の先にいる僕は、周囲の言う完璧で隙のない僕ではないことだけは確かでしょう。
ここからは一つの賭けのようなものです。
生まれ変わったように生きるか、形作られた僕のまま死ぬか。
その結果は、この手紙を誰が開くかどうかに委ねたいと思います。
願わくば、僕の手でこの手紙が焼かれることを願って。
追伸を二つだけ。
僕に何かあれば、遺骨は海に撒いて欲しい。
あの雄大で美しくて、何物も拒まない海へ。
またね、キョウコ
幸せになるんだよ。
ヤサカ マサト
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